疑念の芽
革手袋が軋んだ。
ガルドは羊皮紙を握り締めたまま、見知らぬ通路の壁にもたれていた。石壁の温度が白銀鎧の背甲を通して伝わってくる。冷たい。だが迷宮の冷気はもう慣れた。慣れたくなかった。
通路が変わっていた。
あの場を離れるとき、足元で壁が動いた。石が編み直されるように隆起し、ティリアのいた回廊との間に厚い壁が立ち上がった。迷宮の通路改変。怪物の力だと知っている。殺意はなかった。鎧に傷ひとつついていない。ただ、隔てられた。
殺さないのだ、あの蜘蛛は。
ガルドは奥歯を噛み、その思考を追い払おうとした。怪物が人を殺さないことに安堵している自分がいる。それは認められない。
光苔が通路の片側にだけ張りついていた。薄い青白い光が、ガルドの手元を照らしている。命令書。教団本院からの直筆。セファ枢機聖の署名が入った、蝋で封じられた正式な教団命令。
何度も読んだ文面だった。
——生贄の聖女を回収し、封印鍵の儀式に備えよ。
「回収」。
ガルドの指が、その二文字の上で止まった。羊皮紙の表面がそこだけ擦り切れている。以前にも同じ場所で指が止まったのだ。何度も。だが今日はその二文字が、喉に刺さった小骨のように意識から外れない。
救出ではなく回収。人ではなく荷物。聖女を守り届けるのではなく、物品を回収する。
命令書を書いた手は、ティリアの名すら記していなかった。「生贄の聖女」。個人名は不要ということか。あの小さな手で花を差し出した子供に、名前がないということか。
ガルドは羊皮紙を折り畳み、鎧の内ポケットに押し込んだ。革手袋の中で掌が湿っていた。指先が冷えている。鎧の寒さではなかった。
考えすぎだ。
声に出してみた。通路の石壁に反響して返ってきた自分の声は、薄かった。
教会は民を守る。聖女を害するはずがない。セファ枢機聖はティリアを幼い頃から見守ってきた方だ。回収という言葉は、公文書特有の無機質な表現にすぎない。教会には教会の言い回しがある。いちいち騎士に優しい言葉で書くはずがない。
だが、なぜ「救出」と書かなかったのか。
そこだけが引っかかる。それ以上は考えられなかった。記憶が霧の向こうにある。教会で何を教わったのか。セファと交わした言葉。任務説明の詳細。根拠となるものが、すべて輪郭を失っている。残っているのは感情だけだ。教会は正しい。守らねばならない。ティリアを連れ帰る。なぜ正しいのかは、もう言えない。
ガルドは目を閉じた。暗闇の中に、小さな手が花を差し出す映像だけが鮮やかに灯った。
* * *
花の部屋は静かだった。
光苔が壁の繁に沿って穏やかに灯り、天井近くに群生する蒼白の花弁が微かに揺れている。空気の流れはないはずなのに花が揺れるのは、迷宮が呼吸しているからだとゼノが以前言っていた。
ティリアは石床に敷かれた布の上に座り、膝の上に両手を揃えていた。ゼノは三歩離れた壁際に背を預けている。蜘蛛脚は二本が外套から覗いたまま、壁に沿うように折り畳まれていた。
あれから、どのくらい経っただろう。ガルドを別の区画に隔離し、花の部屋に戻り、二人だけになった。「全部教えてください」と言ったのは自分だ。ゼノが口を開くまで、ティリアは待った。
ゼノの声は低かった。
「お前の祝福の力は——封印に干渉する」
言葉を選ぶように、間が空いた。
「迷宮の封印は、一枚岩じゃない。幾重にも糸が編まれて、それが結び目で留まっている。お前の祈りは、その結び目に触れる」
「触れる、というのは」
「揺らす」
短い一語。ゼノの鬱金色の瞳が、花弁の影の中でティリアを見ていた。
「お前が祈れば、封印は揺れる。俺の制御が利きにくくなる。……お前が迷宮にいるだけで、封印は少しずつ変わっている」
ティリアの指先が、膝の上で僅かに握られた。
「それが……封印鍵」
「教会がお前をそう育てた。祝福の祈りを磨かせたのは、聖女として人を癒すためじゃない。封印に届く力を最大にするためだ」
声が途切れた。
ゼノの指先、黒く変色した迷宮との融合の証が、外套の裾を掴んでいる。続きを言うことを、身体が拒んでいるように見えた。
「続けてください」
ティリアの声は震えなかった。膝の上の拳は白くなっていたが、瞳はゼノから逸れなかった。
「……教会がお前を迷宮に送り込んだのは、俺を消耗させるためだ」
光苔が明滅した。一瞬だけ部屋が暗くなり、ゼノの鬱金色の瞳だけが闇に浮いた。
「お前の祈りが封印を揺らす。揺れた封印を俺が制御し直す。その繰り返しで、俺の力は削がれていく。十分に削がれた頃に——」
「回収する」
ティリアが言った。
ゼノが黙った。
「ガルドさんの命令書に書いてあった言葉です。回収。救出ではなく」
花弁が揺れた。迷宮の呼吸が深くなったのか、蒼白の花が一斉に傾いだ。ティリアの銀白の髪が頬にかかり、それを指で耳にかけ直す動作の間も、視線はゼノに向いたままだった。
「私の力が迷宮に十分根を下ろしたところで引き抜く。そうすれば封印を操作できる。そういうことですか」
ゼノは答えなかった。答えないことが肯定であると、二人とも知っていた。
「封印鍵の儀式、というものがあるそうですね」
「詳しくは知らない。教会の——セファの領域だ」
ゼノの声にセファの名が乗ったとき、微かに音が歪んだ。蜘蛛脚の一本が壁を引っ掻き、薄い石粉が散った。
「だがお前が鍵として使われることは間違いない。最初からそのために育てられた」
ティリアは息を吸った。花の部屋の空気。光苔の仄かな苦味。その下にある、かすかに甘い花の匂い。ゼノが四年かけて整えた空気だった。
ティリアは口を開こうとした。何か言わなければならない気がした。だが言葉が出なかった。頭の中で、教会の白い壁と、ゼノの黒い指先と、セファの署名が入った命令書が重なり合って、一つの形にならない。
黙ったまま、しばらく時間が過ぎた。光苔の明滅が三度、四度と繰り返される間、花の部屋には二人の呼吸の音だけがあった。
ようやく、口を開いた。
「……知れてよかった」
ゼノの瞳孔が僅かに開いた。
「知らないまま連れ戻されていたら、私は自分がどう使われるか分からないまま、笑っていたと思います」
声は穏やかだった。だが、膝の上の両手は細かく震えていた。
ティリアは立ち上がった。布の上から石の床に裸足が降りる。冷たい。その冷たさが、頭を明瞭にしてくれた。
ゼノの隣に歩み寄り——座った。
三歩の距離が消えた。肩と肩の間に拳ひとつ分の隙間がある。触れてはいない。ゼノの身体が強張ったのが、空気の震えで分かった。
「ティリア」
「いいんです」
名前を呼ばれたことに少しだけ驚いた。ゼノが自分の名を呼ぶのはまだ珍しい。
壁に背を預けた。蒼い薄明が二人を等しく照らしている。ゼノの蜘蛛脚が、外套の裂け目から覗いている。一本が微かに動いた。ティリアの肩の方へ。灰青の長衣の布地に触れる寸前、ゼノの黒い指先が自分の蜘蛛脚の関節を掴んで止めた。
ティリアはそれを視界の端で見ていた。触れようとして、自分で止める。いつもそうだ。ゼノのその仕草を、ティリアはもう何度見ただろう。
何も言わなかった。隣にいることだけを、選んだ。
* * *
教団本院。深夜の執務室。
蝋燭の灯りが銀髪を柔らかく照らしている。セファ・ローレンティスは書簡に目を通しながら、机上に置かれた紅茶の杯を持ち上げた。まだ温かい。琥珀色の液面に、窓の外の月が細く映っていた。
「セファ枢機聖」
扉の前で跪いた伝令兵が、額を床に伏せたまま報告した。
「グラナディア派遣のガルド隊長ですが、迷宮内にて停戦状態にあるとのこと。通信紋からの最終伝達では、聖女と迷宮番人の間に何らかの……交渉が生じている模様です」
セファは紅茶を一口含んだ。舌の上で温度を確かめるように、ゆっくりと。
「交渉」
穏やかな声だった。
「焦ることはありません」
紅茶を置いた。杯の底が皿に触れる硬質な音が、静かな執務室に小さく響いた。
「器が迷宮に深く根を下ろしてからの方が、回収効率がよいのです」
伝令兵は顔を上げなかった。「器」という言葉に反応を見せなかったのは、慣れていたからか、それとも意味を理解していなかったからか。
セファは微笑んだ。蝋燭の灯りに照らされたその笑みは、慈愛そのものに見えた。
「ノクスも、よくやっています。あの子は昔から、与えられた役割に忠実でしたから」
銀髪の老紳士は書簡に視線を戻した。羽根ペンを取り上げ、何かを書き足す。インクの筆圧は一定で、迷いがなかった。
* * *
花の部屋。
ティリアの意識が、ゆっくりと沈んでいた。
壁に背を預けたまま、瞼が重くなる。ゼノの体温は感じない。隣にいるのに、温度がない。迷宮に融合した身体は、人間の熱を失っている。代わりに石と苔の匂いがする。慣れた匂いだった。安心できる匂いだと感じる自分に、もう驚かない。
封印鍵。教会の道具。育てられた理由。祈りの意味。全部聞いた。聞いて、まだここにいる。隣に座ることを自分で選んだ。それだけが、今の自分にできる答えだった。
意識の縁が滲む。
眠りに落ちる直前——声が聞こえた。
「……逃がしたい」
囁きだった。息よりも細い声。自分に聞かせるつもりのない、漏れ出した言葉。
聞き間違いかもしれない。
だがティリアの唇が、眠りの中で微かに動いた。
——逃げません。
声にはならなかった。
お読みいただきありがとうございます。
次回「封印の光景」
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