笑ってるよ
ルカが光の中に立っていた。
花の部屋の中央、光苔の青白い照明とは違う、金色を帯びた淡い燐光。それがルカの輪郭を内側から照らしている。赤毛が透けて、その向こうに光苔に覆われた壁が見えた。
ティリアは息を止めた。
昨夜まで、ルカの身体は「少しだけ透ける」程度だった。今は違う。胸の中心から放射状に光が広がり、両手の先が輝きに溶けかかっている。ティリアの祈りが迷宮を安定させたとき、何かが変わったのだと、理屈ではなく胸の奥で理解していた。
記憶珊瑚の残留思念。ルカを形づくっていた、かつての子供たちの記憶。迷宮の封印が祈りによって安定し、それまで不安定に彷徨っていた思念が統合され始めている。散らばっていた欠片が一つに集まり、そして、還っていく。
「ぼく、そろそろかな」
ルカが言った。笑っていた。いつもと同じ、歯を見せる笑い方だった。
ゼノが花の部屋の入り口に立っていた。外套の裾が微かに揺れていた。動いたのではない。身体が強張ったのだ。
「ルカ」
短い呼びかけ。それだけだった。だがその二文字が、喉の奥で砕けるように震えた。
ルカが首を傾げた。緑の瞳が、光を透かしてゼノを見上げている。
「泣かないで、ゼノ」
「……泣いてない」
「うん。でも泣きそうだよ。ぼく、わかるんだ。ゼノがぎゅってするとき、いつも泣きそうなとき」
ゼノの唇が引き結ばれた。蜘蛛脚が背中で震えている。黒い甲殻質の先端が、壁に触れて小さな音を立てた。
「ぼく、泣いてないよ」
ルカは確かに泣いていなかった。目元に涙はない。身体が光に融けかかっているのに、その表情は穏やかで、どこか誇らしげですらあった。
* * *
ティリアが床に膝をついた。
両腕を広げると、ルカが駆け寄ってきた。小さな身体を抱きしめる。温かかった。光に触れているような、乾いた熱。かつてルカを抱いたときの、子供特有のやわらかさとは違う。もう固体と光のあいだを揺れているような、不確かな感触だった。
それでも、ティリアは腕の力を緩めなかった。
「ティリア」
ルカが顔を上げた。光が頬を走って、涙の跡のように見えた。
「ゼノのこと、よろしくね」
「……うん」
丁寧語が消えていた。声が掠れた。うなずくので精一杯だった。
「ゼノ、すぐ無理するから。ごはん食べないし、眠らないし。ティリアが怒らないと、ずっとそう」
「うん。怒る」
「えへへ。ティリアが怒ると、ゼノ、びっくりした顔するよね。あれ、おもしろいんだ」
ティリアの喉の奥で笑いと嗚咽がぶつかった。どちらの音が出たのか、自分でもわからなかった。
* * *
ルカがティリアの腕からすり抜けた。
光の身体が、するりと指の間を通り抜けていく。引き留められなかった。ルカの輪郭が一瞬ぼやけ、再び結ばれたとき、彼はゼノの前に立っていた。
見上げている。小さな少年が、外套の黒い影を見上げている。
「ゼノ」
ゼノは動かなかった。石になったように立っていた。鬱金色の瞳だけが、ルカの光を映してかすかに揺れている。
「ぼくはね、ゼノが作ったんじゃないよ」
「……知っている」
「迷宮がね、ゼノのために作ったんだ。ゼノがひとりで暗いところにいたから、迷宮が、どうしようって思ったの。それで、前の子たちの記憶をぜんぶ集めて、ぼくにした」
ルカの声に、別の声が重なった。幾つもの声。高い声、低い声、泣き声、笑い声。記憶珊瑚に刻まれていた子供たちの残響が、ルカの言葉の裏で共鳴している。
「でもね」
ルカがゼノの手を取った。黒く変色した指先を、光の手が包む。
「ゼノが優しかったから、ぼくはルカになれたんだ」
ゼノの呼吸が止まった。
「記憶を集めただけじゃ、ぼくにはなれなかった。ゼノが名前をくれて、ゼノがごはんくれて、ゼノが怒ったり心配したりしてくれたから。だから、ばらばらだったものが、ぼくっていうひとつになれたの」
ゼノの喉が動いた。何か言おうとして、音にならなかった。
「ありがとう」
ルカが笑った。光が強くなった。
* * *
ルカの身体が発光し始めた。
淡い金色の光が、輪郭の内側から溢れ出す。肌の下に灯がともったように、頬が、指が、赤毛の一本一本が光を帯びた。花の部屋の光苔がそれに呼応して脈動し、壁面が波打つように明滅した。
そのとき、遠くから輝きが昇ってきた。
第五層の骨の庭園。記憶珊瑚が一斉に発光した。ティリアには見えなかった。だが感じた。迷宮との対話で得た知覚が、五層全体の輝きを伝えている。珊瑚の一つ一つに宿っていた残留思念が、光の粒子となって上昇していく。第五層から第六層へ、第七層の霧を貫き、第八層の番人の居城にまで、光の奔流が迷宮を駆け上がっていく。
花の部屋が光に満ちた。
そのとき、声が聞こえた。
泣き声ではなかった。
笑い声だった。
遠く、柔らかく、幾重にも重なった子供たちの笑い声。ティリアが記憶珊瑚に触れたとき聞いた泣き声とは違う。あの痛みはもうなかった。怯えも、孤独も、寒さも。ただ笑っている。陽だまりの中で遊ぶ子供たちのように、何の理由もなく、ただ楽しくて笑っている。
ルカが振り返った。
身体の半分がすでに光に溶けている。足元から光の粒子が舞い上がり、天井の暗がりへ吸い込まれていく。それでもルカの顔ははっきり見えた。目を細めて、口の端を持ち上げて、いつもの、いつものルカの笑顔で。
「笑ってるよ」
声が光に溶けていく。
「みんな、笑ってるよ」
ルカが光になった。
輪郭が解け、赤毛が金色の粒子に変わり、緑の瞳が最後にひときわ強く光って、消えた。光の粒子が花の部屋を満たし、光苔に吸い込まれ、壁を伝い、迷宮の深層へと還っていった。
記憶珊瑚の光が、ゆっくりと収まった。
笑い声が遠ざかっていく。遠く、遠く、もう聞こえないほど遠く——だが完全には消えない。迷宮のどこかに、薄い残響として留まっている。
* * *
静寂が降りた。
花の部屋に、ルカの気配はもうなかった。光苔が元の青白さを取り戻し、壁に群生する花々だけが、余韻のように微かに揺れていた。空気が冷えた。ルカの光が去って、温度が一段下がった。
ゼノが膝をついた。
音もなく崩れるように。外套が床に広がり、蜘蛛脚が力を失って垂れ下がった。ティリアがゼノのそばに寄ったとき、彼の肩が震えているのが見えた。声は出していない。泣いてもいない。ただ震えていた。
ティリアはゼノの隣に座った。肩に手を置いた。蜘蛛脚の甲殻質の冷たさが、指の腹に伝わった。何も言わなかった。言葉はいらなかった。
長い沈黙のあと、ティリアは目を閉じた。
祈りの力が身体の中心で目覚める。温かな琥珀金の光が両手に灯り、床に広がる。迷宮との対話。封印構造の深層に意識を沈めていく。
犠牲の構造が見えた。
歴代の番人と生贄の命が積み上がった封印の回路。その一本一本の線が、誰かの終わりで描かれている。生贄の恐怖、番人の孤独、消えていった子供たちの声。それが封印のエネルギーとなり、災厄を繋ぎ止めている。
ティリアは迷宮に問いかけた。
——これを、書き換えられますか。
迷宮が応える。光苔が青白く明滅する。否定ではない。だが肯定でもない。躊躇いの光だった。
——犠牲ではなく、絆で。
ティリアの祈りが封印回路に触れた。犠牲の線を辿り、その根元にある感情を読み替えていく。恐怖を——安堵に。孤独を——寄り添いに。完全な書き換えではなかった。すべてを変えることはできない。だが、線の一本一本に新しい意味を添えることはできた。
飢えは消えない。ゼノの蜘蛛の部分も消えない。迷宮の底に眠る災厄は今もそこにある。だが——崩壊は止まっている。犠牲なき封印維持。完全ではない。不完全なまま、それでも保たれている均衡。
ティリアが目を開けた。
祈りの光が消え、花の部屋が青白い静けさに戻った。
ゼノが顔を上げた。鬱金色の瞳がティリアを見た。何も言わなかった。
花の部屋に、二人だけが残っている。
壁の光苔が、ほんの一瞬だけ緑色に揺れた。ルカの瞳と同じ色だった。それがすぐに元の青白さに戻り、ティリアの目の奥がじんと熱くなった。
静けさの中に、二人の呼吸だけがあった。
お読みいただきありがとうございます。
次回「朝露の虹色の蜘蛛の巣」
感想・ブックマークいただけると励みになります。




