名前を呼ぶ
ティリアが目を開けた。
それだけのことに、ゼノの呼吸が止まった。
花の部屋の光苔は淡い青を灯している。いつもと変わらない、深層の夜の色だった。壁際の白い花が微かに揺れ、湿った土と甘い花弁の匂いが空気に溶けている。何も変わっていない。迷宮は静かで、ルカは壁の向こうで眠っていて、ゼノは部屋の隅に座ったまま蜘蛛脚を折り畳んでいた。
何も変わっていないはずだった。
だがティリアの瞳が違った。
淡い紫の虹彩の奥に、琥珀金の光の残滓がある。聖術の輝きとは違う。もっと深い、もっと古い光。壁を這う光苔と同じ色が、瞳の底で脸打っている。
ゼノは知っていた。この光を見たことがある。迷宮と融合した直後、自分の目にも同じものが灯っていた。石壁に映った自分の瞳に、迷宮の色が混じっていた。
ティリアが迷宮と話した。
確信は、理屈ではなく糸を通じて届いた。感知糸の微細な振動が、ティリアの身体を通じて迷宮の深部まで伝わり、戻ってきている。迷宮の壁が僅かに温かい。石の温度が変わっている。ゼノの身体の延長であるはずの迷宮が、ゼノの知らない記憶を抱えていた。
それを、ティリアが見たのだ。
「ゼノさん」
掠れた声だった。長い眠りから覚めたばかりの、輪郭の曖昧な音。それでもティリアは上体を起こし、銀白の髪が肩からこぼれ落ちるのも構わず、真っ直ぐにゼノを見た。
ゼノは動かなかった。
壁際から、鬱金色の瞳だけがティリアを捉えていた。
* * *
「迷宮が、見せてくれました」
ティリアの声は静かだった。疲労で掠れているのに、芯がある。地下水が岩盤を穿つような、柔らかいのに止まらない力があった。
「あなたが作った罠のことです」
ゼノの指が微かに動いた。左手の、黒い指先。頬に触れたあの指が、無意識に握り込まれた。
「落とし穴の底には、苔が敷いてありました。衝撃を殺すように、厚く、柔らかく。毒の針は全て、致死量の半分以下に調整されていました。迷路の行き止まりには、必ず水場がありました」
一つずつ数え上げるように、ティリアは言葉を置いていった。声が震えていた。だが目は逸らさなかった。
「侵入者を殺す罠のはずなのに、どれも」
息を吸った。
「どれも、生かすように作られていた」
沈黙が落ちた。
光苔の微かな燐光が、二人の間の空間を青く染めていた。水音がどこか遠くで響いている。迷宮の呼吸のような、規則正しい滴りの音。
ゼノは答えなかった。
答えられなかった。罠を作り替えたのは事実だった。だがそれは意図的な設計ではなかった。少なくとも、自分ではそう思っていなかった。殺す罠を組むたびに、指が勝手に構造を変えた。致死の配分を下げた。逃げ道を残した。四年間、ただそうしてきただけだ。
なぜかは考えなかった。考えれば、自分が番人として壊れていることを認めなければならなかった。
「あなたの巣は」
ティリアが膝で一歩、近づいた。
「全て守るために作られていました」
その言葉が、ゼノの胸郭の内側で反響した。
「あなたは自分でも知らないうちに、迷宮を愛の形に変えていた」
ゼノの蜘蛛脚が背中で跳ねた。外套の下で甲殻が軋み、制御を外れた一本が布を突き破りかけた。昔からそうだった。言葉にならないものが、蜘蛛の部分を通じて溢れ出す。
喰えなかったからだ。
三人の子供を喰い、四人目を拒んだ。飢えが身体を蝕み、理性が削れ、それでも喰わなかった。そのうちに、巣が変わっていた。殺す場所が、守る場所になっていた。怪物が作った罠が、いつの間にか、誰かを生かすための構造に書き換わっていた。
知らなかった。
自分で作り替えておいて、知らなかった。
「……違う」
声が出た。低く、掠れ、途切れた。
「俺は」
言葉が続かなかった。否定したかったのか、肯定したかったのか、自分でもわからなかった。黒い指先が膝の上で震えていた。
ティリアが微笑んだ。
泣いていた。涙が頬を伝い、顎から落ちて、石の床に小さな染みを作った。それなのに口元は笑っていた。矛盾した表情だった。涙で睫毛が束になり、頬が赤く染まっているのに、唇の端だけが上を向いている。
「だから私は、ここにいます」
声が揺れた。丁寧語の輪郭が崩れかけていた。
「あなたの巣に」
ゼノの喉が引き攣った。
「……出口は、ある」
絞り出した声だった。番人として、最後に残しておかなければならない言葉だった。ティリアを捕らえたのは自分だ。迷宮に閉じ込めたのは自分だ。だから、自由を返さなければならない。
「出口はいりません」
即答だった。
考える間もなく、迷う素振りもなく、ティリアはそう言った。涙で濡れた紫の瞳が、ゼノを射抜いていた。
「ここが、私の場所です」
* * *
ゼノの世界が、音を失った。
聞こえているはずだった。水音も、光苔が壁を這う微かな擦過音も、自分の心臓が胸を叩く音も。だが全てが遠い。ティリアの声だけが近い。近すぎて、鼓膜の裏側で鳴っている。
名前が、喉の奥に引っかかっていた。
ティリア。
四文字。何百回も頭の中で反芻した音の並び。だが一度も口にしなかった。「お前」で通した。名前を呼べば、迷宮がそれを記憶する。番人が名を刻めば、迷宮はその存在を永遠に抱え込む。石壁の一部になる。消えない。二度と消せない。
告白よりも、重い行為だった。
迷宮と融合した者にとって、名を呼ぶことは、自分の世界にその存在を永久に刻み込むことだ。壁に、床に、天井に、罠に、光苔に、花に。迷宮の全てにその名前が浸透する。迷宮が朽ちない限り、消えない。
だからこそ、呼ばなかった。
呼べば、ティリアを縛ることになると思った。蜘蛛の巣に、蝶の名前を刻めば。
だがティリアは言った。ここが私の場所だ、と。
ゼノの唇が開いた。
声が出なかった。喉が震えているのに、音にならなかった。黒い指先が石の床を掴んだ。蜘蛛脚が背中で痙攣し、外套がはためいた。
もう一度、息を吸った。
迷宮の空気が肺を満たした。石と苔と花の匂い。七年間吸い続けた、牢獄の空気。だが今、その空気が温かかった。
「——ティリア」
四文字が、落ちた。
声は震えていた。低く、掠れ、途切れそうで途切れなかった。たった四文字なのに、吐き出すのに全身の力を使った。
迷宮が応えた。
壁の光苔が、一斉に色を変えた。青白い冷光が金に近い暖色に染まっていく。壁を、天井を、床を。光の波が花の部屋を起点に広がり、通路を伝い、階層を超えて迷宮の深部へと走った。名前が刻まれていく。石壁の一粒一粒に、苔の一本一本に、ティリアという存在が浸透していく。
冷たかった迷宮が、息を吹き返したように温もりを帯びた。
ティリアの瞳から、新しい涙が溢れた。
今度は声を殺さなかった。唇を噛んで堪えることもしなかった。涙がこぼれるままに、笑った。崩れた笑顔だった。丁寧語も何もない、ただの人間の顔だった。
「やっと」
声が裏返った。
「やっと、呼んでくれましたね」
ゼノの右手が動いた。
指先からではなかった。掌から、糸が伸びた。
拘束糸ではなかった。切断糸でも感知糸でもなかった。構築糸に近い。だがもっと細く、もっと染らかい。朝露を纏ったように淡く光る糸が、音もなくティリアの肩に降りた。
絹の感触だった。
薄く、軽く、それでいて確かな温もりがあった。糸は肩を覆い、背中を包み、外套のように、いや、毛布のように、ティリアの上半身を包んだ。拘束する力はなかった。振り払えば簡単に解ける。だが温かかった。ゼノの体温が、糸を通じてティリアの肌に伝わっている。
第一話で、ティリアが言った言葉をゼノは覚えていた。
奈落に落とされ、暗闇の中で蜘蛛糸に絡め取られた少女が、恐怖に震えながら、それでも口にした言葉。
「綺麗」
あの時の糸は、捕獲のためのものだった。獲物を絡め取る、蜘蛛の本能が紡いだ糸だった。
今、同じ掌から伸びた糸はティリアを包んでいた。温めていた。守っていた。
ティリアが糸の中で小さく身じろいだ。肩を震わせ、涙を拭おうとして、やめた。拭わないまま、糸の温もりに身を預けた。
* * *
花の部屋の入口に、小さな影があった。
ルカが立っていた。壁の隙間から半身を覗かせ、緑の瞳を大きく見開いて、二人を見ていた。
笑っていた。
歯を見せて、年相応の、いや、年相応よりもずっと無邪気な笑顔で。赤毛が光苔の暖かい光を受けて、橙に近い色に輝いていた。
「……よかったね」
呟きは、誰に向けたものでもなかった。ルカ自身にすら聞こえていないような、小さな音だった。
光苔の暖色が、ルカの輪郭を照らしていた。
だがその輪郭が——僅かに、揺れた。
壁に映ったルカの影が薄い。光を受けているのに、影の濃度が足りない。赤毛の先端が、光苔の色を透かしている。指先から先が、背景の石壁と溶け合いかけている。
ルカは気づいていなかった。
笑ったまま、花の部屋の二人を見つめていた。温かい光の中で、少しだけ透明になりながら。
お読みいただきありがとうございます。
次回「笑ってるよ」
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