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朝露の虹色の蜘蛛の巣

 光苔が色を変えていた。


 壁面に密生した苔が、夜の深い藍からゆるやかに白みを帯びていく。迷宮の深層には夜も朝もない。だがゼノが構築糸で光苔の配置を組み替え、ティリアが祈りの術で苔の発光周期を整えた結果、この部屋にだけ疑似的な朝が訪れるようになった。


 石壁を伝う光が、淡い橙から薄い金色へ変わる。天井付近の苔がひときわ明るく膨らみ、差し込む朝陽のように部屋を照らした。


 ティリアは薄い毛布の中で瞼を開けた。


 最初に届いたのは匂いだった。花の部屋に自生する夜光菫の甘い残り香と、石壁に染みついた湿った土の匂い。地上の朝露の匂いとは違う。もっと深く、重く、大地の内臓のような匂いだ。


 上体を起こすと、光苔の擬似朝陽が銀白の髪に降り注いだ。毛布は蜘蛛糸を編んだもので、見た目の薄さに反して驚くほど温かい。ゼノが何も言わずに部屋の隅に置いていたのは、いつの頃だったか。


 部屋の入口に視線を向ける。岩壁を削って広げられた開口部の向こうから、かすかに煙の匂いが流れてきた。


* * *


 通路を抜けると、小さなかまどの前にゼノがいた。


 黒い外套の背中。膝を折り、かまどに張った蜘蛛糸の網の上で、影魚を焼いている。迷宮の地下水脈に棲む魚で、身は白く、脂が少ない。焼くと独特の鉄の匂いが混じるが、ティリアはもうその匂いに慣れていた。


 背中から伸びた四本の蜘蛛脚のうち、二本が天井に突き立てられ、身体を安定させている。残りの二本は外套の下に畳まれていた。黒い甲殻が光苔の橙を反射して、鈍く艶めいている。


「おはようございます」


 ゼノは振り返らなかった。蜘蛛脚が微かに角度を変えたのが、返事の代わりだった。


 ティリアはかまどの横に腰を下ろした。影魚の表面に脂が滲み、糸の網の上ではぜている。煙が薄く天井に向かって昇り、光苔の光を霞ませた。


「今日は光苔の色が綺麗です。春みたい」


「……苔に季節はない」


「でも、春の色に見えます」


 ゼノが黒く変色した指先で影魚をひっくり返した。焼けた面が薄い飴色をしている。


 地上には出られない。ティリアの身体は迷宮の封印鍵として機能しており、迷宮から離れれば封印のバランスが崩れる。ゼノもまた迷宮の番人であり、外では力が減衰する。


 二人とも、ここから出られない。


 かつてのティリアなら、それを「捧げる」と呼んだだろう。犠牲として差し出された場所に留まり続けること。だが今は違う。毎朝、光苔の朝陽に目を覚ますたび、ここにいることを選んでいる。選び続けている。


 光苔の色で季節を知り、影魚を焼き、花を育てる。壁を広げ、水を汲み、糸で棚を作る。それは地上の暮らしの模倣ではなかった。地上にはない花がここにはある。地上では見られない色の光がここにはある。迷宮だけの暮らしだった。


* * *


 影魚を食べ終えると、ティリアは花の部屋に戻った。


 壁際に並んだ石の棚に、小さな鉢が幾つも載っている。夜光菫、星屑苔、地底百合。どれも迷宮の深層にしか生えない植物で、ティリアが祝福の祈りで生育を助けながら育てたものだった。


 祈りの光が指先から零れ、地底百合の白い蕾に触れる。暖かな琥珀金の光が花弁の隙間に染み込み、蕾がかすかに震えた。


 石の棚の一番端に、木彫りの人形が置かれていた。粗い彫りの小さな人形。ルカが遊んでいたものだ。


 ルカはもういない。


 迷宮が生み出した記憶の使い魔は、封印が安定したことで迷宮の中に還っていった。消えたのではない、とティリアは思う。迷宮の壁に、床に、光苔に溶けて、今もここにいる。時折、通路を吹き抜ける風がルカの笑い声に聞こえることがある。


 木彫りの人形の頭を指先で撫でた。光苔の温かい光に照らされて、粗い木肌が染らかく見える。


* * *


 午後――と呼ぶことにしている時間帯、光苔が白から青みを帯び始める頃、ティリアは迷宮の上層へ向かった。


 ゼノが通路を広げてくれた道を辿り、第六層の水汲み場で地下水を壺に満たす。帰り道、第四層との境にある広間を通りかかると、壁に新しい構築糸の跡があった。通路が一本増えている。ゼノが迷宮を組み替え、居住区をまた少し広げたのだ。


 糸の跡に指で触れた。構築に使われた糸はすでに壁に同化しているが、表面にわずかな凹凸が残っている。指の腹にざらりとした感触が伝わった。


 戻ると、花の部屋の前でゼノが壁に背を預けていた。蜘蛛脚は外套の下に収められている。鬱金色の瞳が薄暗い通路の先を見つめていたが、ティリアの足音を聞いて視線だけが動いた。


「通路、広げてくださったんですね」


「……狭かった」


「ありがとうございます」


 ゼノは何も言わなかった。視線を逸らし、黒く変色した指先で外套の裾を掴んでいる。その指が、かすかに震えていた。


 ティリアには、わかる。


 飢えだ。


 迷宮の番人としての捕食衝動は消えていない。ティリアの祈りが封印を安定させているおかげで、かつてほどの渇きではなくなった。だが完全には収まらない。蜘蛛化の兆候は定期的に現れる。瞳孔が縦に裂け、蜘蛛脚が制御を離れて展開し、黒い変色が手首から肘へと這い上がる。


 そのたびにティリアが祈りの光を灯す。ゼノの震える手に自分の手を重ね、琥珀金の光を流し込む。完璧ではない。完全には満たされない。それでも、波が引くように、蜘蛛化の兆候は鎮まっていく。


「ゼノさん」


 水壺を下ろし、ティリアはゼノの前に立った。


「手を、出してください」


 ゼノは一瞬躊躇い、それから黒い指先をゆっくりと差し出した。ティリアがその手を両手で包む。冷たかった。石壁よりも冷たい、人間の温度を失いかけた指。祝福の祈りが掌から琥珀金の光となって溢れ、ゼノの指先を包んだ。


 震えが止まる。ゼノの喉から、長い息が漏れた。


「……すまない」


「謝らないでください」


「飢えが――」


「知っています」


 ティリアは包んだ手に、少しだけ力を込めた。


「一人で飢えないでください」


 ゼノが顔を上げた。鬱金色の瞳が、光苔の光の中でティリアを見つめている。


「二人で飢えましょう」


 ゼノの瞳が揺れた。瞳孔が縦に裂けかけ、また丸く戻る。黒い指先が、ティリアの手の中で握り返すように動いた。


「……飢えが消えることはない」


「知ってる。だから二人で」


 敬語が崩れていた。意図したものではなかった。ただ、この言葉だけは飾りなく伝えたかった。


 ゼノの唇が薄く開いた。何かを言いかけ、止まり、また開く。喉が動いた。


 長い沈黙の後、小さく――ほとんど聞こえないくらいの声で。


「……ああ」


 それだけだった。たった二文字。だがティリアの目の奥が熱くなり、鼻の奥がつんと痛んだ。ゼノの指先が、わずかに温度を取り戻している気がした。


* * *


 数日に一度、迷宮の入口に食料が置かれている。


 干し肉と固いパン、時折は干し果物。誰が置いているのか、ティリアもゼノも口にしない。だが運んでくる感知糸の振動を、ゼノは知っているはずだった。重い足取り。鎧の金属が擦れる音。


 ガルドだ。


 言葉は交わさない。顔も合わせない。ただ食料が迷宮の入口の岩棚に置かれ、ゼノの糸がそれを深層まで運ぶ。それだけの関わりが、途切れずに続いている。


 ティリアはその干し果物を齧りながら、ルカの人形が飾られた棚を見つめた。光苔が穏やかな金色に染まる時間帯だった。


 ルカがこの人形で遊んでいた頃のことを思い出す。赤い髪を揺らして走り回り、「ねえねえ、これ何の花?」と聞いてきた声。あの声は今、通路を抜ける風の中にある。


* * *


 夜の色に変わった光苔の下で、ティリアは花の手入れを終えた。


 部屋の隅でゼノが壁に凭れ、目を閉じている。眠っているのか起きているのか、わからない。蜘蛛脚が一本だけ外套から覗き、先端が床に触れていた。黒い甲殻の表面に、光苔の藍色が映っている。


 ティリアはその蜘蛛脚に手を伸ばした。


 指先が甲殻に触れる。硬く、冷たく、滑らかだった。爪の先で軽くなぞると、甲殻の継ぎ目にかすかな凹凸がある。人間の皮膚とは全く違う感触。この脚でゼノは壁を登り、天井に糸を張り、迷宮を守ってきた。


「やっぱり、綺麗ですね」


 ゼノの目が開いた。鬱金色の瞳が、ティリアの指先を見ている。


 同じ言葉だった。奈落の底に落とされたあの日、暗闇の中で光苔に照らされた蜘蛛の糸を見て、意図せず漏らした言葉。あのとき自分は何も知らなかった。迷宮も、ゼノも、飢えも、封印も。恐怖で身体が震えていたのに、それでもあの糸を綺麗だと思った。


 今は違う。


 全てを知っている。ゼノが何を喰い、何に耐え、何を守ってきたか。蜘蛛脚の冷たさも、黒い指先が震える理由も、飢えが消えないことも。知った上で、触れている。知った上で、綺麗だと言っている。


 ゼノは何も言わなかった。ただ蜘蛛脚が微かに動いて、ティリアの指先から逃げなかった。それだけで十分だった。


* * *


 迷宮の入口は、深層から長い階段を登った先にある。


 かつて「奈落の口」と呼ばれた巨大な縦穴。ティリアが白い装束のまま落とされた穴。今はゼノが糸で螺旋状の足場を組み、深層から入口まで歩いて登れるようになっている。


 ティリアが時折ここまで登ってくるのは、外の空気を吸うためだった。迷宮の外には出られない。だが入口の縁に立ち、地上の風を頬に受けることはできる。


 その日、入口の岩壁に蜘蛛の巣が張られていた。


 ゼノの糸ではない。迷宮に棲む小さな蜘蛛が、入口の岩の隙間に巣を架けたのだ。手のひらほどの大きさの、整った円形の巣。


 朝だった。地上から差し込む朝の光が、岩壁の隙間を通り抜けて迷宮の入口に届いている。


 蜘蛛の巣に朝露が降りていた。


 細い糸の一本一本に水滴が連なり、朝の光を受けて輝いている。白、橙、薄紅、青。水滴の角度によって色が変わり、小さな巣の全体が虹色に燃えていた。


 かつて罠だったもの。獲物を捕らえるためだけに張られた糸。それが朝露を纏い、光を受け、こんなにも美しい。


 巣の中央に、蝶が一匹止まっていた。


 白い翅に淡い紫の紋様がある小さな蝶。巣に絡まっているのではなかった。糸の交差する中央に、自分の脚でしっかりと掴まり、翅を閉じて止まっている。


 囚われているのではない。


 そこに、いるのだ。


 ティリアは入口の繁に腰を下ろし、朝露の虹色の蜘蛛の巣を見つめた。地上の風が髪を攫い、迷宮の冷気と混じり合う。背後の暗い通路から、かすかに足音が聞こえた。硬い甲殻が石を踏む音と、もう二つ分の静かな足音。


 振り返らなかった。足音がすぐ後ろで止まったのを、背中で感じた。


 朝の光が迷宮の入口を照らしている。岩壁の裂け目から覗く空は、薄い雲を流していた。あの空の下に街があり、灯火夜の灯篭を川に流す子供たちがいる。かつてはあの光の中にいた。今はもう、眩しいとは思わなかった。迷宮の薄暗さが、いつの間にかティリアの目に馴染んでいた。


 虹色の蜘蛛の巣が揺れもせずにそこにあり、白い蝶がその上で翅を休めている。


 飢えは消えない。迷宮から出ることもない。完全に満たされる日は来ないだろう。


 それでも朝は来る。光苔が色を変え、影魚の煙が立ち昇り、花が咲く。


 迷宮の入口に張られた蜘蛛の巣が、朝露の雫を一粒ずつ光に変えて、虹色に輝いていた。


 細い糸の一本一本に水滴が連なり、朝の光を受けて輝いている。白、橙、薄紅、青。水滴の角度によって色が変わり、小さな巣の全体が虹色に燃えていた。


 かつて罠だったもの。獲物を捕らえるためだけに張られた糸。それが朝露を纏い、光を受け、こんなにも美しい。


 巣の中央に、蝶が一匹止まっていた。


 白い翅に淡い紫の紋様がある小さな蝶。巣に絡まっているのではなかった。糸の交差する中央に、自分の脚でしっかりと掴まり、翅を閉じて止まっている。


 囚われているのではない。


 そこに、いるのだ。


 ティリアは入口の繁に腰を下ろし、朝露の虹色の蜘蛛の巣を見つめた。地上の風が髪を攫い、迷宮の冷気と混じり合う。背後の暗い通路から、かすかに足音が聞こえた。硬い甲殻が石を踏む音と、もう二つ分の静かな足音。


 振り返らなかった。足音がすぐ後ろで止まったのを、背中で感じた。


 朝の光が迷宮の入口を照らしている。岩壁の裂け目から覗く空は、薄い雲を流していた。あの空の下に街があり、灯火夜の灯篭を川に流す子供たちがいる。かつてはあの光の中にいた。今はもう、眩しいとは思わなかった。迷宮の薄暗さが、いつの間にかティリアの目に馴染んでいた。


 虹色の蜘蛛の巣が揺れもせずにそこにあり、白い蝶がその上で翅を休めている。


 飢えは消えない。迷宮から出ることもない。完全に満たされる日は来ないだろう。


 それでも朝は来る。光苔が色を変え、影魚の煙が立ち昇り、花が咲く。


 迷宮の入口に張られた蜘蛛の巣が、朝露の雫を一粒ずつ光に変えて、虹色に輝いていた。


最後までお読みいただきありがとうございました。


全38話、これにて完結です。


この物語が、あなたの心のどこかに残れば幸いです。


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