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封印の核へ

 セファは花の部屋に足を止めなかった。


 白金の聖術の光を纏ったまま、白と金の聖職者衣装が薄闇の中を滑るように通過していく。ゼノが四年かけて整えた花々を、銀髪の老紳士は一瞥もしなかった。すでに「優しい巣ですね」と呟いたきり、彼にとってこの部屋に用はない。


 目的地はもっと深い。


 花の部屋の奥、壁と見分けがつかぬほど精巧に偽装された通路の入口に、セファは迷いなく手を触れた。岩盤が白金の光に呑まれ、構築糸の封鎖が音もなく開く。物理的な壁も、糸で編んだ罠も、聖術の前には紙の障子と変わらない。


 第九層「封印の底」。封印鍵の儀式は、そこでなければ行えない。


 冷たい風が通路の奥から吹き上がった。石と鉄と古い秘術の匂いを含んだ重い空気。呼吸をするだけで肺の底が冷える。第八層までの空気が生き物のぬくもりを残していたのに対し、この通路の先は死者の吐息のように冷たかった。


* * *


 糸が走った。


 天井から、壁から、床の隘間から——黒い糸が束になってセファの進路を塞いだ。拘束糸と切断糸の複合。触れれば肉を裂き、絡めば骨まで締め上げる迷宮主の殺意の結晶だった。


 セファは歩みを止めなかった。


 右手を胸の前に掲げ、小さく祈りの言葉を唱えた。白金の光が指先から溢れ、糸に触れた。


 黒と白金がぶつかった。


 糸が灼けた。聖術に触れた瞬間、黒い糸が内側から発光し、赤く、白く、灰になった。糸の残骸が粉雪のように降り注ぎ、セファの白い衣装の肩に薄く積もった。


 次の糸も。次の罠も。四方から迫る切断糸の刃を、セファの聖術が焼き尽くした。番人の制御方法を知り尽くしている。かつて自分が「選別」した番人だから。


* * *


 ゼノは通路の途中で膝をついていた。


 壁に手を押し当て、構築糸を流し込もうとしている。だが糸が応じない。指先から出た黒い糸が数十センチ伸びたところで力を失い、壁に張りつく前にほどけて落ちた。蜘蛛脚が四本とも展開されていた。うち一本が壁を掻き、甲殻質の先端が石を削る耳障りな音を立てた。制御できていない。


 身体の右半分は、もう人間の輪郭を保っていなかった。肩から腕にかけて黒い甲殻が覆い、肘の関節が人間のものとは逆方向に反り返っている。首筋にも甲殻の端が這い上がり、顎の線に触れかけていた。


 喉が灼けるように熱い。人の言葉を形作るのに必要な舌と唇と喉の連動が、崩れ始めている。


 それでも、立った。


 蜘蛛脚二本を壁に突き立て、残る二本で身体を持ち上げた。膝が震えている。人間の足ではもう立てない。蜘蛛の脚でなければ。


 通路の先に、白金の光が見えた。


 セファが来る。


 ゼノは通路の中央に立ちはだかった。黒い糸が指の間に光った——が、半分は生まれた瞬間にほどけて消えた。残った糸だけを、通路の幅いっぱいに張った。蜘蛛の巣。最後の防壁。


 白金の光が角を曲がった。


 セファ・ローレンティスが現れた。柔和な笑みを崩さぬまま、灰にまみれた白い衣装で、ゼノの正面に立った。


「ノクス」


 その名が喉を刺した。管理名。道具の名。夜という名の、何も見えない存在。


「あなたは十分に働きました」


 セファの声は柔らかかった。慈しみすら滲んでいた。聖堂で迷い子に語りかける司祭の声。


「もう休んでいいのですよ」


 ゼノの蜘蛛脚が痙攣した。白金の光が通路を満たし、張り巡らせた糸が端から灼かれていく。巣が崩れる。防壁が溶ける。


 だが声は出た。


「俺の、名は——」


 喉が軋んだ。舌がうまく動かない。子音が潰れ、母音が引き延ばされた。人間の声ではなく、壊れた楽器が鳴るような音だった。


「——ゼノだ」


 セファの微笑が、一瞬だけ揺れた。


* * *


 鎧の足音が追いついた。


 ガルドが通路の奥から駆けてきた。白銀の鎧に刻まれた聖印が白金の光を反射し、騎士の全身が輝いて見えた。剣を抜いていた。聖別された刃が低い唸りを上げている。


「セファ様、止めてください!」


 声が通路を震わせた。ガルドの声は真っ直ぐだった。迷いを切り捨てた人間だけが出せる声だった。


 セファは振り向いた。穏やかな目でガルドを見た。感弟子を見るような、あるいは——手駒を確認するような目だった。


「ガルド。あなたは優秀な騎士です」


 否定も叱責もなかった。褒めた。


「だからこそ、この選択が正しいとわかるはずです。一人の犠牲で、万人が救われる」


 ガルドの剣先が震えた。騎士として万人を守ることを誓った男に、「万人を見捨てろ」とは言えない。


 セファはガルドに胸を向けた。ゼノの脇を通り過ぎ、伸ばされた糸を聖術の光で灼き、通路の奥へ歩き始めた。


* * *


 ティリアは走っていた。


 花の部屋を出て、第九層への通路を駆け下りている。石の床が素足に冷たかった。靴を履く暇がなかった。壁面の秘術結晶が赤黒い光を放ち、降りるほどに空気が重くなっていく。


 通路の途中で、ゼノがいた。


 壁にもたれ、蜘蛛脚で辛うじて身体を支えている。糸の灰が足元に穏もっていた。鬱金色の瞳がティリアを捉えた。


「来るな」


 掠れた声だった。命令の形をしていたが、力がなかった。


「来るな。ここから——先は」


 言葉が途切れた。喉が言うことを聞かない。蜘蛛脚が壁を叩いた。苛立ちなのか、痙攣なのか、もう本人にも区別がつかない。


 ティリアは立ち止まらなかった。


「私は、自分で決めると言いました」


 声は震えていた。手も震えていた。通路を満たす冷気が肌を刺し、足の裏が石の冷たさで痺れている。それでも、歩いた。


 ゼノが身体を壁から引き剥がした。蜘蛛脚が軋み、ティリアの前に立った。通路の奥ではなく、反対側を指した。花の部屋の方を。


「まだ間に合う」


 三度目だった。


 ゼノがティリアに出口を示すのは、これで三度目だった。一度目は迷宮に落ちた日。二度目は騎士団が来た夜。そして今。


「逃げろ」


 ティリアはゼノが指す方を見た。通路の向こうに、花の部屋がある。その先に上層への道がある。今なら、すり抜けられるかもしれない。


 地上からの風が、顔に触れた。


 通路のどこかの隙間から流れ込む外の空気。土と草の匂い。陽光に温められた、乾いた風。銀白の髪が揺れ、顔にかかった。


 逃げられる。この人を置いて。教会に戻れば、セファの計画に従えば、少なくとも自分以外の誰も傷つかない。ゼノは番人として残り、蜘蛛化が進み、いずれ人の形を失い、迷宮に溶ける。それが「正しい」結末だと、セファは言うだろう。


 風が頬を撫でた。温かかった。


 ティリアは前を向いた。


 ゼノが指す方ではない。通路の奥——第九層へ続く闇の方を。


「逃げません」


 声は震えていなかった。


「あなたを置いていきません」


 ゼノの鬱金色の瞳が見開かれた。蜘蛛脚が四本とも力を失い、壁から離れた。支えを失った身体がよろめいた。ティリアの横を通り過ぎることも、引き留めることもできなかった。


 ティリアは通路の奥へ歩き出した。


* * *


 第九層への階段は、階段ではなかった。


 通路が緩やかに傾斜し、壁面の秘術結晶が密度を増していく。赤黒い光が青白い光苔を圧倒し、通路全体が血の色に染まった。空気が肺を圧迫する。呼吸するたびに、古い秘術の残滓が舌の上で金属の味を残した。


 その先に、空間が開けた。


 天井が消えていた。


 見上げても闇しかない。壁もない。通路の終端が唐突に途切れ、広大な空間の中に滑らかな黒い石の床だけが円形に広がっている。


 床一面に、封印陣が刻まれていた。


 陣を構成する線は青白い光を放ちながら、その内側に赤黒い脈動を抱えている。生きている。封印陣そのものが呼吸をしている。膨張と収縮を繰り返す紋様が、床の端から端まで途切れることなく走っていた。


 セファが、封印陣の縁に立っていた。


 白金の聖術の光を纏い、静かな笑みを湛えたまま。その足元で、封印陣の青白い光がゆっくりと蒼金に染まり始めていた。


 封印陣の中心で、何かが蠢いた。


 見えない。形がない。だが在る。光の紋様の向こう側に、巨大な気配がうごめいている。大陸が若かった頃に封じられた災厄の残響が、セファの聖術に反応して目を覚ましかけていた。


 ティリアの胸の奥で、封印鍵が激しく脈打った。


お読みいただきありがとうございます。


次回「儀式」


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