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儀式

 封印陣が目覚めた。


 セファの手が宙に掲げられた瞬間、床一面の紋様が蒼金に燃え上がった。光苔の青白い光が押し退けられ、第九層の広大な空間がセファの白金の聖術で塗り潰されていく。空気が震えた。振動ではない。空気そのものが形を変え、密度を増し、肌を圧迫した。迷宮全体が悲鳴を上げた。


 石壁を伝わる低い唸り。天井のない闇の上方から降りてくる軋み。それは迷宮の構造が物理的に歪む音であり、同時に、もっと古い何かの声だった。迷宮が生きているなら、これは呻き声だった。


 セファは微笑んでいた。


「さあ、始めましょう」


 蒼金の光が封印陣の線を辿り、外縁から中心に向かって渦を巻いた。陣の紋様が一つずつ起動していく。古代の文字が浮かび上がり、回転し、消えては次の文字に連鎖する。セファの聖術が封印の構造を読み取り、書き換え、新たな回路として組み直している。


 ティリアの足が動いた。


 自分の意思ではなかった。


 床に立った瞬間から、足の裏を通じて封印陣の脈動が身体に流れ込んでいた。微かな引力。最初は風に押されるほどだったものが、今は全身を鷲掴みにしている。封印陣の中心に向かって、身体が引き寄せられている。一歩。また一歩。足が勝手に前に出る。


「やめ……」


 声が出なかった。喉は動いている。唇も動いている。だが音にならない。封印鍵としての身体が、儀式の回路に組み込まれ始めている。声を発する機能より、封印との共鳴が優先されている。


 足が止まらない。


 ティリアは自分の手を見た。


 指先が透けていた。


 光苔の赤黒い光が、手の甲を透過して見えた。皮膚が硝子のように半透明になり、その下に血管でも骨でもない、蒼金の光の筋が走っている。封印陣と同じ紋様が、身体の内側に浮かび上がっている。


 結晶化の前兆だった。


 封印鍵が封印の一部になる過程。人の形を保ったまま、魂ごと封印構造に組み込まれる。セファが言っていた「新しい方法」の正体。番人に生贄を喰わせるのではなく、鍵そのものを封印の核に据える。永久に。


 胸の奥で何かが縮んだ。自分の手が自分のものでなくなっていく。指を握ろうとした。動いた。まだ動く。だが指の向こう側に、封印陣の光が透けて見えた。自分の輪郭が溶け始めている。


 足が封印陣の中心に近づいていく。


* * *


 意識が遠のいた。


 目は開いている。足は動いている。だが思考が薄くなっていく。水に墨を落としたように、自我が拡散していく。ティリアという名前が、ティリアという人格が、封印の海に溶け出していく。


 代わりに、声が聞こえた。


 迷宮の声だった。


 言葉ではなかった。感情ですらなかった。もっと原始的な振動。大地の底から湧き上がる、古い古い震え。数百年、あるいはもっと長い間、ずっとそこにあった震え。


 迷宮が泣いていた。


 番人を喰い潰し、生贄を受け入れ、災厄を抱え続けてきた石の牢獄が、声にならない声で泣いていた。ティリアの意識の淵に、断片的な映像が押し寄せた。歴代の番人たち。最初は人の形を保ち、やがて蜘蛛に呑まれ、最後には迷宮の壁に吸収されていった者たち。その一人一人の最後の呟きが、石の中に染み込んでいた。


 その中に、ゼノの声があった。


 まだ生きているゼノの、壊れかけた声。迷宮はゼノの声を大切に抱えていた。他の番人の声と同じ場所に。同じ石の中に。いずれ溶けるものとして。


 嫌だ、とティリアは思った。


 思考が拡散する中で、その感情だけが核のように残った。嫌だ。この人の声を石に閉じ込めたくない。この人の名前を忘却に沈めたくない。


 だが足は止まらない。封印陣の中心まで、あと数歩。


* * *


 甲殻が床を叩く音がした。


 乾いた、硬い音。蜘蛛の脚が石の床を掴む音。ティリアの意識が僅かに浮上した。霞がかった視界の端に、黒い影が映った。


 ゼノが第九層に辿り着いていた。


 人の形は、半分を切っていた。


 右半身は完全に蜘蛛の甲殻に覆われていた。肩、腕、脇腹、腰まで黒く光る甲殻が人の皮膚を押し退け、関節の位置が人間のそれから逸脱している。右腕は肘から先が二股に分かれかけ、蜘蛛の鋏角の原形を成しつつあった。背中の蜘蛛脚は四本ではなく六本に増えている。新たに生じた二本は短く、まだ甲殻が柔らかい。


 左半身だけが、辛うじて人だった。


 左手の指。左目の鬱金色。左の頬の、まだ人間の色を残した皮膚。それだけが、この身体がかつて人であったことを証している。


 ゼノはセファの前に立った。


 六本の蜘蛛脚が床を掴み、身体を支えている。人の足はもう体重を支えられない。膝が曲がり、背が丸まり、それでも顔を上げた。


 セファが微笑んだ。


「ノクス。あなたは封印の器として十分でした」


 声は穏やかだった。壊れかけた怪物を前にしても、この男の表情は変わらない。


「だが限界です。あなたの身体はもう封印を維持できない。蜘蛛に呑まれ、理性を失い、いずれ災厄を抱えたまま暴走する。その前に——新しい方法が必要なのです」


 ゼノの口が動いた。


 声は出なかった。喉がもう人の音を作れない。舌が口腔の中で硬く、短くなっている。唇の右半分は甲殻に侵食され、合わさらない。


 それでも口が動いた。


 形だけの言葉。音のない反論。何を言おうとしたのか、ティリアには霞む意識の中でもわかった。


 俺はまだ——。


 セファの聖術が脈打った。白金の光がゼノの身体を包んだ。浄化の光。融合体であるゼノにとって、それは身体を内側から引き裂く拒絶反応だった。甲殻の隙間から白い光が漏れ、人間の皮膚が残った左半身が焼けるように熱を発した。


 ゼノが崩れた。


 蜘蛛脚が折れるように曲がり、身体が床に叩きつけられた。甲殻が軋む乾いた音が第九層に反響した。割れた甲殻の隙間から、弱い呼吸が漏れていた。人間の肺が、辛うじて空気を押し出している。肋骨が動くたびに、甲殻が擦れる小さな音がした。


 呼吸の音は、あまりにも細かった。


* * *


 剣が唸った。


 ガルドが封印陣の上に踏み込んでいた。白銀の鎧が白金の光を弾き、聖別された剣がセファの聖術の壁を横薙ぎに切り裂いた。白金の光が飛沫のように散った。


「ティリア嬢に触れるな!」


 叫びは本物だった。幼い日に花をくれた少女を守るという、愚直な誓いが声になっていた。剣の軌道は正確だった。セファの聖術の防壁、白金の光で編まれた見えない盾を、鍛え上げた一閃が砕いた。


 だがセファは微笑んだまま、左手を翳した。


 白金の光が凝縮し、ガルドの身体を包んだ。聖術の圧。空気が固体になったかのような重さが、騎士の全身にのしかかった。ガルドの膝が軋んだ。鎧の留め金が弾け飛んだ。剣を握る手が震え、切っ先が下がった。


「あなたの勇気は認めます、ガルド」


 セファの声に怒りはなかった。落胆すらなかった。ただ事実を述べるように。


「ですが、勇気だけでは世界は守れないのですよ」


 白金の光が膨張した。ガルドの身体が封印陣の上を滑るように押し退けられた。鎧が床を擦り、火花が散った。白銀の甲冑がひしゃげ、肩当てが外れた。ガルドは剣を手放さなかった。膝をつき、剣を杖にして耐えた。だが立てなかった。セファの聖術の前に、騎士の膂力は届かない。


* * *


 封印陣の中心が、蒼金に燃えていた。


 ティリアの足が最後の一歩を踏み出そうとしている。身体の半分以上が半透明になり、封印陣の光が肉体を透過している。自分の腹部を通して、床の紋様が見えた。人の形をした、光の容器。中身が少しだつ、封印に注ぎ込まれていく。


 視界の端に、ゼノが倒れていた。


 黒い甲殻に覆われた身体が、封印陣の光の中に沈んでいる。動かない。蜘蛛脚が力なく広がり、先端が床に触れたまま微動だにしない。甲殻の隙間から漏れていた呼吸の音が、途絶えた。


 ゼノが動かない。


 ティリアの足が、封印陣の中心に向かって進んでいく。


お読みいただきありがとうございます。


次回「この人を壊さないで」


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