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嵐の前

 迷宮が震えていた。


 断続的ではなかった。低い振動が壁を、床を、天井を這い、止むことなく花の部屋を揺さぶり続けている。光苔が明滅し、青白い光が壁を波のように流れた。ティリアは寝台の縁に腰掛けたまま、壁に触れた。冷たい石の表面が、指の腹の下でびりびりと震えている。


 ゼノは部屋の入口に立っていた。


 正確には、立とうとしていた。右手を壁に押し当て、構築糸を流し込もうとしている。蜘蛛脚が四本とも展開され、うち二本が壁に食い込み、残る二本が空中で不規則に痙攣していた。意思で動かしているのは壁に刺さった二本だけだ。あとの二本は、ゼノの制御を離れている。


 甲殻の脚の先端が空を切った。鋭い先が天井の岩を削り、砂礫がぱらぱらと落ちた。ゼノの肩が跳ねた。自分の脚が何をしたのか、一瞬遅れて気づいたのだ。


「——っ」


 歯を食いしばった音がティリアの耳に届いた。ゼノの右手が壁から滑った。構築糸が途切れ、組み替えかけていた通路の壁が半端な位置で固まった。


 ティリアは立ち上がりかけた。だがゼノが顔をこちらに向ける前に、背の附肢の暴走は収まり、四本とも壁に張りついて身体を支えた。荒い呼吸が聞こえた。肩が上下している。


 迷宮との融合が、制御を超え始めている。ティリアにはそれがわかった。ゼノの身体は迷宮の延長だ。壁を組み替え、罠を仕掛け、通路を塞ぐ。そのすべてが、自分の腕を動かすのと同じはそだった。だが今、その腕が持ち主の意思を無視して暴れている。


 ゼノは壁から手を離さなかった。


 息を整え、もう一度構築糸を流し込んだ。壁の石が軋みながら動き、通路が狭まっていく。上層から深層への連絡路を、一本ずつ潰している。騎士団が降りてこられないように。セファの進軍を、一刻でも遅らせるために。


 轟音が響いた。


 壁が噛み合い、通路が塞がれた音だった。続けて、別の方角からも同じ音。ゼノは片手を壁に当てたまま、感知糸で迷宮全体の状態を読み取っているらしかった。鬱金色の瞳が半ば閉じられ、意識が迷宮の構造に沈んでいる。


 ティリアは近づいた。


「何か手伝えることはありますか」


 ゼノの瞳が開いた。焦点がティリアに合うまで、僅かに間があった。迷宮から意識を引き戻すのに時間がかかっている。


「……祈るな」


 短かった。命令形だった。だがその声は掠れていて、喉の奥に引っかかるような音があった。


「祈れば、お前の位置がわかる。封印鍵の脈動が、あの男に読まれる」


 セファのことだ。祈れば封印の中で脈動が起き、セファの聖術がそれを辿る。封印を補修するほど、居場所を晒す。


「わかりました」


 ティリアは両手を下ろした。胸の前で組みかけていた指を解いた。指先が冷えていく。祈れない。癒せない。ただ見ていることしかできない。拳を握った。爪が掌に食い込んだ。


 壁際で、小さな影が動いた。


「ゼノ、大丈夫?」


 ルカだった。壁の隙間から半身だけ滲み出すように現れ、緑の瞳でゼノを見上げている。赤毛が光苔の明滅に合わせて青白く染まり、また赤に戻った。


「……ああ」


 答えた声は、さっきよりも掠れていた。ルカの顔が曇った。子供の直感は誤魔化せない。ゼノの「ああ」が嘘であることを、少年は身体のどこかで知っている。


 ルカは何も言い返さなかった。ただゼノの足元に座り込み、膝を抱えた。壁の振動が少年の小さな身体にも伝わり、赤い髪が微かに揺れていた。


* * *


 罠の配置は深夜まで続いた。


 壁が組み替わる轟音と石の軋みが、何度も花の部屋を揺らした。空気が埃っぽくなった。砕けた石の粉が鼻腔を刺す。ティリアは壁に背を預け、ゼノが迷宮を作り変えていく音を聞いていた。通路が潰れ、新しい分岐が生まれ、糸が張り巡らされていく。壁を通じて温度が変わった。組み替えのたびに、冷たい層の空気が押し寄せてくる。


 ゼノが戻ってきたのは、光苔が最も暗くなる時刻だった。


 足音はなかった。甲殻の脚が床を這う微かな摩擦音だけがあった。ティリアが顔を上げると、入口にゼノの影があった。外套の裾が破れ、右腕の袖が肘から先まで裂けていた。露出した前腕は黒かった。指先だけでなく、手首から先の皮膚全体が黒く変色し、関節の形が人間のものとは微妙に異なっていた。指の節がひとつ多いように見える。


 ゼノはその腕を外套の影に押し込んだ。


 同時に、重い足音が、花の部屋の外の通路から響いた。


 鎧の音だった。


 ゼノの蜘蛛脚が一斉に展開した。四本が壁と天井に張りつき、身体を持ち上げた。切断糸が指の間に光った。殺意が空気を変えた。花の部屋の温度が下がったように、ティリアの肌が粟立った。


「ゼノ」


 通路の奥から、声が届いた。低く、明瞭な声だった。


「俺だ。ガルドだ」


 鎧の足音が止まった。附肢の先端が壁に食い込んだまま、ゼノは動かなかった。糸は張られたまま。解かない。


 ガルド・ヴェルナーが通路の角から姿を現した。白銀の鎧は泥と苔に汚れ、胸当ての紋章に亀裂が入っていた。剣は腰にあったが、鞘に収まったままだった。両手を肩の高さに上げている。


「拘束を解いた。副官は気絶させた。殺してはいない。途中、通路が勝手に開いた。お前がやったのか」


 ゼノは答えなかった。通路を開けたのか閉じたのか、その沈黙からは読めなかった。だが迷宮の通路はゼノの意思で動く。ガルドがここまで辿り着けたこと自体が、答えだった。


 背の脚が僅かに震えている。暴走ではなかった。


 ガルドはゼノの瞳を正面から見つめた。甲殻の脚と切断糸を前にして、一歩も退かなかった。


「ゼノ。俺はお前の味方になるわけじゃない」


 声に迷いはなかった。天幕の前に立ちはだかった男は、もう自分の正義を選び終えている。


「だがティリア嬢を守るためなら、一時的に共闘する」


 ティリアの名が出た瞬間、ゼノの瞳がほんの僅かに揺れた。背の附肢の震えが止まった。切断糸が、解かれた。指の間から落ちた糸が、床に触れて溶けるように消えた。


「……勝手にしろ」


 拒否ではなかった。受け入れでもなかった。ただ、排除しないという宣言だった。ゼノは四本の脚を壁から引き抜き、床に降りた。ガルドに背を向け、壁に手を当てた。迷宮の防衛に意識を戻す。


 ガルドは花の部屋に足を踏み入れた。鎧が床を踏む重い足音が、石の壁に反響した。光苔の青白い光の中で、白銀の鎧が鈍く輝いた。


「ティリア嬢」


「ガルドさん」


 ティリアは立ち上がった。ガルドの顔には疲労が滲んでいたが、碧い瞳は明確だった。迷いのない目だった。


「上層の状況を伝える。セファは騎士団を率いて迷宮に入っている。拘束される前に聞いた進軍計画では、今頃は第四層付近まで降りているはずだ。進軍は遅れているだろうが、止まってはいない。あの人の聖術は迷宮の罠を看破する。時間の問題だ」


 ゼノの背中が微かに強張ったのを、ティリアは見た。


「だが俺が抜けたことで指揮系統に穴が開いた。半日、いや、丸一日は稼げるはずだ」


 一日。


 それがどれほどの猶予なのか、この部屋にいる全員がわかっていた。


* * *


 ルカはガルドの膝の横に座っていた。


 最初は警戒していた。壁の向こうに隠れ、緑の瞳だけを覗かせていた。だがガルドが鎧の留め金を外し、汚れた胸当てを脇に置いた時、少年はするりと壁を抜けて出てきた。鎧の下の詰め物に興味を示し、指で触れた。ガルドは驚いたが、邪険にはしなかった。


 花の部屋は静かだった。


 ゼノは壁際で感知糸に意識を沈めている。迷宮全体を監視しているのだ。時折、背の脚が不随意に跳ねた。そのたびに身体が僅かに硬直し、脚が止まると息を吐いた。


 ティリアはゼノの隣にいた。


 一歩分の距離を空けて、壁に背を預けている。石壁の冷たさが背中に沁みた。ゼノの呼吸が聞こえる距離だった。不規則で、時々深く吸い込み、吐く時に掠れた音が混じる。


 ゼノの右手が膝の上に置かれていた。外套から覗く指先は、もう人間の色をしていなかった。黒い甲殻に覆われた指が五本。いや、親指の付け根から、もう一つ小さな突起が生じかけている。六本目の指の萌芽。蜘蛛の附肢が、人の手を侵食している。


 ティリアの右手が動いた。


 膝の上から、ゼノの手の方へ。数センチ。指先が空気の中を滑り、ゼノの黒い指の近くで止まった。触れてはいなかった。指と指の間に、冷たい空気が流れていた。迷宮の底を這う風だった。湿り気を帯びた、石と苔の匂いの風。


 触れたかった。


 だがゼノの身体は壊れかけている。背の脚は制御を離れ、手は変形し、声は掠れている。触れることが何かの引き金になるかもしれない。蜘蛛化を加速させるかもしれない。封印鍵である自分の手が、迷宮の一部となりつつあるゼノに何をもたらすか、わからない。


 だから止まった。


 数センチの距離で、指先が宙に浮いている。


 ゼノの手から熱を感じた。触れていないのに。黒い甲殻の下から、微かな温度が漏れていた。人間の体温の名残。壊れかけた身体の中に、まだ人の温度が残っている。その温度が、数センチの空気を伝って、ティリアの指先に届いていた。その温もりに応えるように、胸の奥が小さく脈打った。


 ゼノは目を閉じていた。気づいているのかいないのか。甲殻の四肢は静かだった。暴走していない。ただ四本とも力なく垂れ、先端が床に触れている。呼吸が変わった。荒かった息が、少しだけ深くなった。ティリアの指が近くにあることを、身体のどこかで知っているのかもしれなかった。


 指先が震えた。ゼノの指ではない。ティリアの指が。あと数ミリ。腕を伸ばす必要すらない。指の角度をほんの少し変えるだけで、黒い甲殻に触れられる。


 触れなかった。


 触れてしまったら、そこから先に行けなくなる気がした。この数センチを残しておくことが、今の自分にできる最後の自制だった。触れれば、もう離せなくなる。離したくなくなる。そして明日——ゼノが戦いに出ていくとき、この手を離さなければならない。


 だから、触れない。まだ。


 ティリアは手を引かなかった。触れもしなかった。その距離のまま、目を閉じた。


 花の部屋の光苔が、ゆっくりと明滅を繰り返していた。壁の振動はまだ続いている。迷宮が震えている。ゼノの身体が震えている。けれどこの数センチの隙間だけが、奇妙に静かだった。指先と指先の間を、迷宮の冷気が流れている。触れ合わない二つの手が、同じ暗闇の中で並んでいた。


* * *


 目を覚ましたのは、金色の光だった。


 ティリアは壁に背を預けたまま眠っていた。首が痛い。肩が冷えている。意識が浮上する途中で、瞼の裏に金色が滲んだ。


 目を開けた。


 花の部屋の天井に、光が落ちていた。


 青白い光苔の中に、一筋の金色。暖かく、穏やかで、聖堂の祈りの光と同じ色。天井の岩盤の隙間から降りてくる金色の帯が、ゆっくりと部屋の中を這い、壁を滑り、床の花に触れた。花弁が金色に染まった。


 聖術の光だった。


 ゼノが立ち上がっていた。背の四本の脚が全開し、身体が臨戦態勢に跳ね上がっている。鬱金色の瞳が天井を睨み、歯を劑いていた。感知糸が弾けるような音を立てた。


 ガルドも立っていた。剣の柄に手をかけ、金色の光を見上げている。顔が強張っていた。


「セファの聖術だ」


 ガルドの声が低く響いた。


「迷宮の上層から——祈りを流し込んでいる。封印構造を辿って、深層まで」


 金色の光が壁を伝い、じわりと広がった。暖かかった。優しかった。聖堂で膝をつき、祈りを捧げた日々の記憶が蘇る光だった。


 だがティリアの胸の奥で、封印鍵が激しく脈打った。肋骨の内側を叩くような痛み。この光は探っている。祈りの形をした、追跡の術。


 金色の帯が、ティリアの足元に届いた。


 ゼノが動いた。構築糸が天井に走り、岩盤の隙間を塞ごうとした。だが金色の光は糸をすり抜けた。聖術は物理的な障壁を透過する。壁を組み替えても、通路を塞いでも、祈りの光は止められない。


 ゼノの背の附肢が暴走した。四本が同時に跳ね、壁と天井を滅茶苦茶に叩いた。石礫が散った。ゼノの身体が大きくよろめき、膝が床についた。


「ゼノ!」


 ティリアの声が花の部屋に響いた。


 ゼノは片膝をつき、荒い息を吐いていた。背の脚が痙攣している。金色の光が迷宮に干渉し、迷宮の一部であるゼノの身体にも作用している。聖術による浄化は、融合体であるゼノにとって拒絶反応だった。


 金色の光が、花の部屋を静かに満たしていく。


 天井から、壁から、床から。あらゆる隙間を通って、祈りの光が深層に降りてくる。止められない。塞げない。迷宮の防壁では、聖術を遮断できない。


 ルカが壁の中に逃げ込んだ。金色の光に触れた瞬間、少年の身体が透けかけたのだ。迷宮が生んだ存在にとって、浄化の光は存在そのものへの脅威だった。壁の向こうから、押し殺した泣き声が聞こえた。


 ゼノが顔を上げた。


 鬱金色の瞳が金色の光を映していた。人間の瞳孔ではなかった。縦に裂けた蜘蛛の目が、降り注ぐ聖術の光を睨んでいた。


「……来るぞ」


 掠れた声だった。壊れかけた喉から搾り出された、最後の警告だった。


 金色の光の向こうから、足音が降りてくる。


お読みいただきありがとうございます。


次回「共闘」


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