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 百回は読み返した。


 ガルド・ヴェルナーは、迷宮の壁に囲まれた狭い空間で、命令書を手にしていた。ゼノに隔離された区画だ。出口はない。石壁に囲まれた三メトル四方の空間に、光苔の青白い明かりだけが落ちている。インクの匂い。迷宮の湿った石の匂い。それだけが、ここにあるすべてだった。


 文面は短かった。


 『封印鍵の儀式に備えよ。対象の回収を最優先とせよ。手段は問わない』


 対象。回収。


 ガルドは「回収」という語を、もう一度読んだ。荷物を取りに行く時に使う言葉だ。落とし物を拾う時に使う言葉だ。人間に対して使う言葉ではない。


 命令書のどこにも、ティリア・エーデルシュタインという名前は書かれていなかった。


 代わりに、一つの呼称だけがあった。「生贄の聖女」。ガルドの知るティリアは花を好む聡明な女性であり、幼い日に泣いていた自分に小さな花を差し出してくれた少女だった。この紙の上では、彼女は人ではない。器だ。


 羊皮紙の端がくしゃりと歪んだ。握りすぎたのだと気づいて、指を開いた。


 十二年。騎士団に入って十二年。教会の教えが正しいと信じてきた。セファの言葉が導きだと信じてきた。毎朝の祈り、剣の鍛錬、任務の遂行。そのすべてが、こういう紙切れ一枚のためにあったのか。


 松明が爆ぜた。火の粉が一瞬宙に浮き、消えた。


 壁の向こうから振動が伝わってくる。断続的に。迷宮が軋んでいる。ゼノが通路を組み替えている音か、あるいは、誰かが迷宮に降りてきている音か。


 ガルドは命令書を畳んだ。


 立ち上がった時、膝が軋んだ。白銀の鎧が暗い壁に映り、光苔の明かりで輪郭だけが浮かぶ。


 壁に手をついた。石の表面が震えている。上層から降りてくる振動。規則正しい足音の残響。大勢が、迷宮に入ってきている。


 騎士団だ。セファが本隊を送り込んだのだと、ガルドは悟った。


 壁を叩いた。拳が石にぶつかる鈍い音が、狭い空間に反響した。出られない。だがこのままではいられない。ティリアの元に、セファより先に、届かなければ。


 壁が動いた。


 突然だった。隔壁の一枚がゆっくりと後退し、通路が開いた。ゼノの迷宮操作だ。意図的に開けたのか、迷宮の組み替えの余波で隙間ができたのかは分からない。だが道はできた。


 ガルドは迷わなかった。開いた通路に身を滑り込ませ、上層へ向かって駆けた。セファのいる場所へ。


* * *


 セファ・ローレンティスは、迷宮の入口近く、奈落の口の縁に設けた天幕にいた。


 折り畳みの椅子に腰掛け、封印構造の図面を広げている。松明ではなく、聖術で灯した金色の明かりが天幕の中を満たしていた。暖かな光だ。聖堂と同じ光。その穏やかさの中で、老紳士は地図に印をつけていた。


 ガルドが天幕の布を押し開けると、セファが顔を上げた。口元が柔らかく弧を描いた。いつもの表情だった。


「ガルド。報告ですか?」


「いえ」


 声が硬い。自分でわかった。セファはその表情を崩さぬまま首を傾げた。図面の上に細い指を置いたまま、待っている。急かさない。責めない。まるで告解室の司祭のように。


「セファ様」


「はい」


「この命令書に、ティリア嬢の名がありません」


 セファは瞬きもしなかった。


「生贄の聖女、とだけ」


「ええ。そう記しましたよ」


 当然のことを尋ねられたとでも言うように、セファの声は穏やかだった。


「ティリア嬢は人です。器ではありません」


 言った。声が震えなかったのは、百回読み返す間に覚悟を固めたからだ。声が出た瞬間、胸の中で何かが切れた。十二年分の鎖が。


 セファの微笑が変わらなかった。変わらないことが、ガルドの背筋を冷たくした。松明の炎なら揺れる。風が吹けば傾ぐ。だがセファの表情には、そういう自然な揺らぎがなかった。


「ガルド」


 慈しみの声だった。教会の孤児院で、泣く子供をあやす時のような。


「あの子は幸せですよ。神に選ばれたのですから」


 金色の明かりがセファの銀髪を縁取っていた。穏やかな双眸が、ガルドをまっすぐに見つめている。そこに悪意はなかった。嘘もなかった。セファは本心からそう信じている。それが、ガルドにはわかった。


 だから、恐ろしかった。


 この人は怒らない。声を荒らげない。ティリアの命を奪うことを、聖堂で祈りを捧げるのと同じ穏やかさで語れる。その微笑は祝福であり、同時に死刑宣告だった。


「セファ様。俺は」


「あなたの気持ちはわかります」


 遮られた。だが責める調子はなかった。理解を示す声音。いたわりすら滲んでいた。


「若い騎士が任務に迷うのは自然なことです。ですがガルド、考えてみなさい。封印が崩壊すれば、数十万が死にます。あの子一人の命で、大陸の民が救われる。これは犠牲ではありません。祝福です」


 祝福。


 ガルドは、その言葉が自分の胸を素通りしていくのを感じた。


 かつてなら、つい数日前までなら、頷いていただろう。セファの言葉は正しい。論理的で、慈悲深く、何の破綻もない。天秤は明白だ。一人と数十万。答えは誰にでもわかる。


 だが。


 ティリアの顔が浮かんだ。迷宮の深層で、怪物の隣に立ちながら怯えなかった女性。花の部屋で、蜘蛛脚を見ても逃げなかった女性。そして、幼い日に、泣いている自分に小さな花を差し出してくれた少女。


 あの子は、天秤の片側に載せていいものではない。


「俺にはできません」


 セファの唇の端が、ほんの像かに引き結ばれた。


「そうですか」


 短い返答だった。失望でも怒りでもなく、ただ事実を確認したという響き。セファは図面に視線を戻し、印の一つを指で撫でた。


「では、ここで待っていなさい。他の者に任せます」


「待ってください」


 ガルドは一歩前に出た。金色の明かりが鎧の胸当てに反射した。


「俺が言っているのは、俺一人が降りるとか降りないとかいう話じゃない」


 セファが顔を上げた。


「この作戦自体を、止めてください」


 沈黙が落ちた。天幕の布が夜風に微かに膨らんだ。迷宮の奥底から、低い振動が地面を伝って足裏に届いた。


 セファは椅子から立ち上がった。痩身の体が金色の光の中に伸び上がり、ガルドを見上げた。背丈はガルドの方がずっと高い。だが見上げられる方が、圧されている。


「ガルド・ヴェルナー」


 フルネームで呼ばれた。声は変わらず穏やかだった。


「あなたは今、大陸の数十万の民と、一人の少女を天秤にかけて、少女を選ぼうとしています。それが騎士の誓いに反することは、理解していますね」


「理解しています」


「それでも?」


「天秤なんかじゃない。人を器と呼ぶ時点で、もう天秤は壊れている」


 セファが目を細めた。微笑ではなかった。初めて見る表情だった。観察。研究者が実験結果を検分するような、冷静な眼差し。


 それは一瞬で消えた。いつもの柔和な面持ちが戻った。


「残念です」


 ガルドは天幕の入口に立った。セファと迷宮の間に、自分の身体を置いた。剣には手をかけなかった。抜く気はなかった。


 立ちはだかった。


 セファの揺るがぬ眼差しと、松明の匂いと、迷宮から吹き上がる湿った風の中で——ガルドは、自分の正義を初めて自分で選んだ。


* * *


 花の部屋は静かだった。


 迷宮の振動は続いている。壁が微かに震え、光苔が不規則に明滅を繰り返す。空気が重かった。上層で通路が組み替わるたびに、気圧が変わるのか耳の奥がきしむ。石と鉄錆の匂いが、いつもより強い。だが深層まで届く音はもう遠い。ゼノが上層の通路を徹底的に組み替えたおかげで、騎士団の進軍は遅れていた。


 ティリアは部屋の中央に立っていた。両手を胸の前で組み、目を閉じている。足元から滲む金色の光が壁を這い、亀裂を埋め、封印を補修している。迷宮がその光を受け入れるたびに、胸の奥で何かが共鳴した。温かくて、痛い。


 ゼノは壁際にいた。


 掌を壁から離し、こちらを見ていた。鬱金色の瞳が光苔の青白い光を映している。背から伸びた四本の附肢が展開されたままで、先端が微かに揺れている。戦闘態勢ではなく、落ち着かないのだ。


「お前」


 低い声が花の部屋に落ちた。


「残ると言ったな」


「はい」


「なぜだ」


 同じ問いだった。すでに答えたはずの問い。だがゼノの声には、まだ納得が入っていなかった。理解を拒んでいるのではない。理解できないのだ。自分のために残る人間がいるという事実を、この人は処理しきれていない。


「俺はお前を犠牲にする気はない」


 ゼノの右手が拳を握った。黒い指先が掌に食い込んだ。爪の跡が残るほど強く。


「封印が崩壊しても、お前を組み込むことはしない。だからここにいる意味がない。出口はまだある。逃げろ」


 二度目だった。


 最初に出口を示した時、ティリアは断った。ゼノはそれでも出口を残していた。今、再び差し出されている。最後の離脱の機会。


 ティリアは目を開けた。金色の光が足元で淡く脈打っている。


「逃げません」


「……なぜだ」


 声が掠れていた。問いではなく、懇願に近かった。逃げてくれと言っている。ここにいればお前は危険だと。教会が来る。封印が崩れる。蜘蛛化が進めば、俺がお前を——


 その先を、ゼノは口にしなかった。だが甲殻の脚の震えが語っていた。


「あなたを一人にしたくないからです」


 声が反響した。花の部屋の石壁に跳ね返り、光苔の間を縫い、天井の高い空間に広がり、消えた。残響が長かった。ゼノの蜘蛛脚が一瞬、完全に止まった。


 ゼノは何も言わなかった。


 拳を握ったまま、壁に背を預けた。背の脚が力なく垂れ下がり、硬い先端が床の石に触れた。小さな音がした。硬い、乾いた音。


 顔を背けた。鬱金色の瞳がティリアから逸れ、壁の亀裂を見つめた。ティリアの封印の光が修復したばかりの亀裂を。


 何も言わなかった。だが逃げろとは、もう言わなかった。


 沈黙の中で、花の部屋の光苔がゆっくりと安定した光を取り戻していった。金色と青白の光が重なり、壁に淡い影を落とす。二人の影が、石の壁に並んで映っていた。


* * *


 天幕の中で、セファ・ローレンティスは図面を畳んだ。


 ガルドはもういなかった。天幕の入口から退くよう命じ、副官に拘束を指示した。声を荒らげることなく、茶を注ぐような調子で。ガルドは抵抗しなかった。剣を預け、大人しく拘束された。暴力で解決する男ではなかった。それだけは、セファも認めていた。


 天幕の外に、騎士団の副官が控えている。


「セファ様。進軍の継続は」


「ええ」


 セファは白と金の衣装の襟元を正した。金色の聖術の光が、掌の上で脈打っている。迷宮の封印構造を読み取るための光。ティリアの位置を示す光。深層の奥、番人の居城の近くで、封印鍵の脈動が強まっている。


 逃げる気配はなかった。あの子は、残ることを選んだらしい。


 セファの目が細くなり、口元の弧がほんの像か深くなった。


「仕方ありませんね」


 穏やかだった。叱る親の声だった。言いつけを守らない子供に向ける、どこまでも優しい声。


「では、力ずくで迎えに行きましょう」


 天幕の布が開かれた。夜の冷気が流れ込み、金色の光が揺れた。騎士団が隊列を組み直す鎧の音が、奈落の口に反響した。


 迷宮が唸った。深層から、低く、長く。番人の怒りか、あるいは恐れが、石の壁を伝って地上まで届いた。


 セファはその振動を足裏で受け止め、穏やかに目を閉じた。


「お待ちなさい、ノクス。すぐに終わりますよ」


 騎士団が、迷宮の深部へ向けて動き始めた。


お読みいただきありがとうございます。


次回「嵐の前」


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