枢機聖の信念
迷宮の入口は、朝霧の底に沈んでいた。
奈落の口。大陸の古い地図にはそう記されている。直径二十メトルの縦穴が大地を裂き、底の見えない暗がりへと続いている。周囲の岩肌には何百年も前に刻まれた封印紋が薄れかけ、苔がその輪郭を侵食していた。
セファ・ローレンティスは縦穴の縁に立ち、深淵を見下ろした。
朝の冷気が穴の底から吹き上がり、白と金の聖職者衣装の裾を揺らす。銀髪を撫でつけた痩身の老紳士は、その風を肌に受けながら穏やかに目を閉じた。風には迷宮の匂いが混じっている。湿った石と、光苔の微かな甘さと、封印に宿る古い力の残り香。何十年も嗅いできた匂いだった。
「準備は整いましたか」
背後に控えた騎士が答えた。聖典教団直属の討伐騎士団、その第一陣四十名。白銀の鎧が朝霧の中に整然と並び、金の刺繍が入った聖典教団の肩章が鈍く光っている。
「は。いつでもお下知を」
セファは目を開いた。
柔らかく細められた双眸が騎士団を見渡す。若い顔が並んでいた。迷宮の番人を討つという任に気負いもあろう。だがセファの視線が通り過ぎると、兵たちの背筋が像かに伸びた。畏敬ではなく、安堵。この人の下であれば間違いはない。そう信じさせる空気が、セファにはあった。
「さあ、迎えに行きましょう」
慈悲の声だった。聖堂で祈りを捧げる時と寸分違わぬ温かさで、侵攻を命じた。
* * *
降下が始まった。
術式を刻んだ索具が岩壁に打ち込まれ、騎士たちが縦穴を降りていく。金属と布の擦れる音が岩壁に反響し、穴の底へ吸い込まれていった。セファは降下せず、縁に留まった。枢機聖が最前線に立つ必要はない。彼の仕事は、ここから封印の脈動を感じ取り、騎士団を導くことだ。
目を閉じると、迷宮の構造が意識の裏に浮かび上がる。秘術の素養がなければ不可能な知覚。セファは迷宮の外側から封印の振動を読む術を、三十年かけて磨き上げてきた。通路の分岐、罠の配置、そして封印鍵の位置。
金色の脈動が、深層から規則正しく届いている。昨夜よりも強い。鍵が安定し始めている。
セファの目尻に細い皺が刻まれた。満足の色だった。
「ノクス」
声に出していた。穴の底に向けたその名は、誰に聞かせるためでもなかった。
「感情は余計でございますよ」
独り言。あるいは、かつて自分が選んだ十三歳の少年に向けた言葉。あの子は——セファの記録台帳には「素体ノクス-14」と記されている。秘術感応力の数値が歴代で最も高かった。融合の成功率も最高。だからこそ選んだ。だからこそ今、番人として機能している。
番人が感情を持つことは、想定外だった。
歴代の番人は遅かれ早かれ人間性を失う。蜘蛛に寄り、理性を手放し、封印装置の一部になっていく。それが正しい在り方だ。生贄を喰い、封印を維持し、次の素体に引き継ぐ。円環の中に個人の感情が入り込む余地はない。
だが第十四代は喰うことを拒んだ。四年も。
セファは薄く息を吐いた。白い呼気が朝霧に溶けた。
「次の番人は、もう少し合理的に育てませんとね」
言葉には悔恨の欠片もなかった。改善点を書き留める研究者の口調だった。
それでも、セファの信念に揺るぎはなかった。封印が崩壊すれば、災厄が目覚める。数十万が死ぬ。百年前の記録が残している。都市が三つ消えた。山が一つ沈んだ。あの惨禍を繰り返さぬために、迷宮番人と生贄の制度が存在する。少数の犠牲で、多数の命を。
それは正しい。セファは心の底からそう信じていた。
聖女ティリア・エーデルシュタインという一人の少女が封印に組み込まれ、意識を失い、結晶となる。それと引き換えに、大陸の民が平穏に暮らし続ける。
天秤は明白だった。
だからセファは微笑むことができた。聖堂で祝福を授ける時と同じ穏やかさで、少女の意識を消す命令を下すことができた。
* * *
迷宮の深層。
花の部屋に、低い振動が伝わってきた。
壁が震えた。光苔が一斉に明滅し、天井の石の隙間から細かい粉塵が落ちた。花瓶の水が波紋を描く。遠く、遠くから、迷宮全体が唸るような低音が響いていた。
ティリアは身を起こした。
ゼノが壁の前に立っていた。掌を石に押し当て、感知糸を張り巡らせている。蜘蛛脚が四本すべて展開され、外套の裾から突き出して空気を掻いていた。鬱金色の瞳は壁の向こうを見透かすように細められ、その表情に、初めて見るものがあった。
眉根が寄り、顎が引き絞られている。
「何が起きているのですか」
「上層に侵入者。数が多い。四十、いや、もっと来る」
声が硬かった。短く、乾いていた。感知糸から伝わる振動を処理しながら話しているのだと分かった。
「教会の騎士団が……」
「本隊だ」
ゼノの蜘蛛脚の一本が壁を叩いた。硬い音。迷宮がそれに応えるように、壁の表面に構築糸の蒼い光が走った。通路を組み替えている。罠を張り直している。侵入者を阻むために。
ティリアの胸が痛んだ。物理的な痛みだった。肋骨の奥、心臓の裏側を内側から押されるような圧迫。封印鍵としての力が、迷宮の動揺に共鳴しているのだ。迷宮の一部であるゼノが揺れれば、迷宮も揺れる。迷宮が揺れれば、封印鍵であるティリアの身体にもそれが伝わる。
昨夜、壁に触れた時に感じた金色の温かさが、今は鋭い痛みに変わっていた。
「ゼノ」
名前を呼んだ。ゼノの蜘蛛脚が一瞬止まった。
「あの……出口を、まだ作っていますか」
「……ああ」
「やめてください」
ゼノが振り向いた。鬱金色の瞳に困惑が浮かんでいた。ティリアは立ち上がり、ゼノの前に歩み寄った。
「地上に出るなと、あなたは最初からそう言っていました」
声が微かに震えた。丁寧語が揺れている。
「脅しだと思っていました。逃がさないための。でも——」
言葉を切った。息を整えた。胸の痛みを飲み込んだ。
「地上に出れば教会に捕まる。捕まれば封印に組み込まれる。あなたは最初からそれを知っていて、私を地上に出さなかった」
ゼノは答えなかった。
壁に向けたままの掌が、微かに強張った。蜘蛛脚が背中の高い位置まで持ち上がり、硬直している。
「喰えば封印は安定する。でもあなたは喰わなかった。地上に返せば教会に殺される。だから返さなかった。出口も——本当は作りたくなかったのではないですか」
沈黙が答えだった。
ゼノの蜘蛛脚が震えていた。甲殻質の関節が細かく揺れ、背中の外套に伝わって布が波打つ。壁に押し当てた指先の感知糸が不規則に明滅した。迷宮が番人の動揺を映している。
ティリアの目の奥が熱くなった。泣いてはいけない。泣けば、この人はまた黙ってしまう。
「喰わず、返さず、ただ……ここに置いた」
声を絞り出した。
「それがあなたの、守り方だったのですね」
ゼノの喉が動いた。何かを飲み下すように。口が開いて、閉じた。鬱金色の瞳がティリアを見て、逸れて、また戻った。言葉にならなかった。いつもそうだ。この人は、最も大切なことほど声にできない。
再び迷宮が揺れた。今度はさっきよりも強く。天井の石が軋み、花の部屋の壁に亀裂が走った。光苔の明かりが不安定に瞬く。
侵入が、深層に近づいている。
ゼノが身を翻した。壁に構築糸を叩き込み、迷宮の構造を急速に組み替え始める。顔はもう見えなかった。背中だけが見えた。蜘蛛脚が広がり、黒い指が壁に食い込み、迷宮と一体になろうとする背中。
守ろうとしている。自分の身体を迷宮に溶かしてでも、侵入者を止めようとしている。
ティリアの足は動かなかった。逃げ出さなかった。ゼノが作りかけた出口の方を見もしなかった。
「私がここに残ります」
声は、花の部屋に静かに落ちた。
ゼノの手が止まった。振り向かなかった。だが構築糸の動きが、一拍だけ途切れた。
「あなたが守ってくれていたように、今度は私が、ここにいることで守ります」
迷宮が応えた。ティリアの足元から金色の光が滲み出し、壁の亀裂に沿って広がっていく。封印鍵としての力が、意志に応じて迷宮を補修する。昨夜は触れた壁だけだった。今は、触れなくても光が広がった。
ゼノの蜘蛛脚が一本、力なく垂れ下がった。
迷宮の上層から、再び振動。騎士団の進軍が止まらない。構造を組み替えても、封印紋を読める術者がいれば迂回路を見つける。セファの知識が騎士団を導いている。
ゼノは壁に向き直った。構築糸を再び走らせた。
ティリアは花の部屋の中央に立ち、目を閉じた。胸の痛みが、金色の光に変わっていく。封印鍵の力が、迷宮の壁を、通路を、深層を、内側から支えようとしていた。
迷宮が唸った。低く、長く。
上層では、セファの金の刺繍が光苔の青白い反射を受けて冷たく煌めいていた。
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次回「反旗」
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