選択の前夜
足音が響いた。裸足の踵が冷たい石を叩く、硬く乾いた音。光苔の青白い明かりが通路の両壁を照らし、ティリアの影を長く引き伸ばしていた。
花の部屋を出た。自分の足で。
ゼノに頼んだのだ。ガルドを隔離している壁を解いてほしい、と。ゼノは長い沈黙の後、鬱金色の瞳を細め、「……殺されるぞ」とだけ言った。ティリアは首を横に振った。ゼノは壁を開いた。
通路の奥に、白銀の鎧が見えた。
ガルド・ヴェルナーは床に座り込んでいた。壁に背を預け、膝の上に両腕を投げ出している。迷宮に閉じ込められてどのくらい経ったのか。碧い眼は充血し、金髪が乱れ、騎士の威風は削ぎ落とされていた。だが顔を上げた瞬間、その目が鋭く光った。
「……ティリア」
低い声だった。ガルドが立ち上がる。鎧が擦れる金属音が通路に反響した。
「大丈夫か。怪我は。あの怪物に何かされたか」
駆け寄ろうとした足が止まった。ティリアが一歩も退かずに立っていたからだ。
「ガルドさん。聞いてください」
声は平坦だった。感情を排したのではない。感情の全てを奥に押し込めて、言葉だけを正確に届けようとしていた。
「私は——封印鍵です」
ガルドの眉が寄った。言葉の意味を掴みかねている顔。ティリアは続けた。教会が自分を迷宮に組み込む計画であること。意識が消え、身体が結晶化すること。「救出」ではなく「回収」であること。声が震えそうになるたびに、裸足の指で石の床を踏みしめた。冷たさが意識を繋ぎ止める。
語り終えると、通路に沈黙が降りた。光苔の明滅だけが、時間の経過を示していた。
「……そんなはずはない」
ガルドの声は掠れていた。首を振る。金髪が頬を打つ。
「教会がそんなことをするわけがない。セファ司祭は、ティリアを救い出すために俺を送った。そう命じたんだ。お前を魔物から——」
「回収、と書いてありませんでしたか」
ティリアの声が遮った。静かに、しかし正確に。
ガルドの口が閉じた。
「命令書を、もう一度読んでみてください」
沈黙。
ガルドの碧い眼が揺れた。「回収」。その言葉は確かに命令書にあった。あの時は気に留めなかった。救出も回収も、同じ意味だと思っていた。聖女を魔物の巣から取り戻す。それだけのことだと。
だが——「回収」は人に使う言葉ではない。
物に使う言葉だ。
ガルドの拳が鎧の腿当てを叩いた。硬い音が通路に響き、壁の光苔が微かに震えた。
「……嘘だ」
呟くような声だった。ティリアに向けた否定ではなかった。自分自身に向けた、崩れかけの砦を支えようとする最後の杭だった。
ティリアは何も言わなかった。否定も肯定もしなかった。ガルドが自分の足で辿り着くべき場所だ。他人の言葉で押し込んではいけない。
「……確かめる」
長い沈黙の後、ガルドが呟いた。顔を上げない。碧い眼は床の一点を見つめている。
「俺の目で、確かめる」
ティリアは小さく頷いた。それだけで十分だった。
* * *
花の部屋に戻ると、ゼノは壁に手をついていた。
構築糸が指先から伸び、壁の内部に沈んでいく。蒼い光の筋が石の表面を走り、迷宮の構造が微かに軋んだ。ゼノの蜘蛛脚が二本、外套を突き破って背後に展開している。壁を「組み替えている」のだと分かった。壊すのではなく、開いている。石が砕ける音ではなかった。石と石の隙間が静かに広がっていく、編み物をほどくような繊細な響き。
「何をしているのですか」
「出口を作っている」
振り向かなかった。壁に向けた横顔だけが見える。鬱金色の瞳が構築糸の青白い光を映し、冷たく輝いていた。
「お前は逃げろ。教会にも戻るな。どこか遠くへ行け」
声に命令の硬さがあった。だがその奥に、別のものが軋んでいた。
「逃げる先ならある。迷宮の裏口だ。教会も知らない。俺がここに来る前から存在していた古い道で、山脈の東側に出る。そこから南下すれば、教会の手が届かない辺境の街がある」
言葉が多かった。ゼノにしては異様なほどに。まるで用意していたかのように、道順を正確に述べた。——用意していたのだろう。ティリアに封印鍵の真実を告げた時点で、この逃走経路を頭に描いていたのだ。
「あなたはどうするのですか」
ゼノの指が止まった。構築糸の光が一瞬揺らいだ。
「俺はここにいる」
短い返答。壁に向けたまま、顔を動かさない。
「それが番人だ」
声は平坦だった。感情を押し殺しているのではない。もう決めた後の声だった。迷宮の番人は迷宮と共にある。封印鍵がなくなれば封印は不安定になる。それを支えるのは番人の仕事だ。たとえ身体がどれほど蜘蛛に寄ろうと、人の言葉を忘れる日が来ようと。
ティリアはゼノの背中を見つめた。黒い外套。突き出た蜘蛛脚。壁に張り付いた黒い指先。迷宮の一部のような姿。だがその背中に、人間の寂しさが張り付いていた。肩甲骨の間に、隠しきれない力の抜け方があった。
足が動いた。
ティリアはゼノに歩み寄った。壁に手をつけたままのゼノの、その手の上に——自分の手を重ねた。
黒く変色した指先に、白い指が触れた。
ゼノの全身が凍りついた。
構築糸が止まった。蜘蛛脚が硬直し、呼吸すら止まったかのような静止。ゼノの指はティリアの手の下で石のように冷たかった。迷宮との融合が進んだ指。人間の温度を失いかけている指。ティリアの手のひらに、その冷たさが染みた。
「逃げません」
声は震えていなかった。
壁が光った。
ティリアの手が触れた箇所から、金色の光が滲み出した。構築糸の青白い光が金に染まり、波紋のように壁の表面を広がっていく。石の隙間を走る封印の糸が共鳴し、壁全体が淡い金色に脈打った。迷宮がティリアの意志に応えるように、温かく、静かに。
ゼノが振り向いた。
鬱金色の瞳が見開かれていた。縦に細い瞳孔が、金色の光の中で揺れている。ティリアの顔を見ている。手を見ている。重なった指先を見ている。
声が出なかった。
口が開いて、閉じて、また開いた。いつもの途切れ方ではなかった。言葉を探しているのでもなかった。喉の奥が詰まって、何ひとつ通さなかった。
ティリアは手を離さなかった。
「私は自分で選ぶと言いました。だから——ここにいることを、選びます」
ゼノの指が動いた。微かに。ティリアの手の下で、黒い指先がほんの少しだけ持ち上がった。触れ返そうとして——途中で止まった。握ることも、払うこともできずに、震えたまま壁の上に留まった。
金色の光がゆっくりと収まっていく。壁は元の灰色に戻り、構築糸の青白い筋だけが残った。だがティリアの手に触れた部分の石だけが、ほんのりと温かかった。
ティリアは手を引いた。
ゼノは何も言わなかった。壁に向き直り、構築糸を再び動かし始めた。出口を作る手は止まらなかった。ティリアが「逃げない」と言っても、出口は作る。
ティリアは何も言わずに、花の部屋の隅に座り、ゼノの背中を見つめた。
* * *
奈落の口の縁。
夜風が深淵から吹き上がる岩場で、セファ・ローレンティスは目を閉じていた。
白と金の聖職者衣装の裾が風に揺れている。銀髪を撫でつけた痩身の老紳士は、縦穴の縁に片膝をつき、岩肌に手を添えて封印の脈動を感じ取っていた。指先に伝わる微かな振動。規則正しい律動の中に、今夜は新しい周波が混じっている。温かい波。金色の残響。
穏やかな微笑が浮かんだ。星のない夜空を背に、その笑みだけが明るかった。
「あの子は幸せですよ」
誰に向けたものでもない独り言だった。あるいは、壁の向こうの封印に語りかけていたのかもしれない。
「真実を知っても、選ぶことができるのですから」
声は柔らかかった。慈愛に満ちた聖職者の声そのもの。
「大抵の生贄は、何も知らぬまま終わるものでございます」
目を開いた。穏やかな双眸が、暗がりの奥を見据える。封印の金色の残響が消えていく壁を、満足げに眺めていた。
ティリアが封印鍵としての力を使い始めた。それはセファにとって、計画の成就に他ならない。鍵が自ら封印に触れた。あとは——時間の問題だ。
選べることが幸福だと、セファは本気で信じていた。
それが、最も残酷だった。
お読みいただきありがとうございます。
次回「枢機聖の信念」
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