5 律
初めて手紙が海を往った日から1週間。あの時奇跡が起きたと直感して、それから毎日何か奇跡が起こらないかと期待して生活していたが、その夢見心地も今となっては空々漠々としてきていた。
しかし、いよいよ弥栄神社に参ろうと彼女とともに予定していた今日、その手紙が僕らに授けられた。授けられたと言っても過言ではない。僕の靴によって踏み慣らされ、獣道になっている茅達の先に置かれていたその真っ白な手紙は、人為的とは感じられないほどに自然としていたからだ。そこに手紙があることは異様で、風に靡かないのも奇異だったが、その雰囲気は、人の手を抜け出して宙へ浮かぶビニール袋や、田んぼにたたずむ蒼鷺や、車道へ飛び出すイタチのように自由だった。なんだか、かみさまもこんなような雰囲気だったな。僕はそれに悠々とした足取りで近寄り、手に取った。軽く、平ったい、中に何も入っていないのではないかと不安になり、中身を確認した。長方形の紙切れが1枚入っている。僕はその紙に書かれている極短い文をちらと見て、直ぐにしまった。一文。名前も挨拶も書かれていない。これが"何か"からのメッセージだとしたら、帰って彼女と見た方がいいのではないか。いつもの川縁、自然とした手紙、1週間前の奇跡。僕は勝手に、期待に胸を膨らませた。それは待ち望んでいた何かだったから。僕は持ち寄った手紙を川へ流さず、その手紙とともに持ち帰った。川へ行って手紙を流さなかったのは初めてだった。
景水荘に着くと、彼女が歌っているのが分かった。彼女がこんなにも上機嫌でいることは初めてで驚いた。しかしそんな驚きも、今日は日常ではない、と実感させるスパイスにすぐに変わった。玄関を開けたらその歌声は鮮明になって、そしてしばらくして終わった。知らない曲だった。歌声は美しいと言えず、音程もリズムも不確かだったが、久しぶりに音楽を聴いた僕も、音楽をした彼女もたぶん、心の豊になるのを感じた。僕は彼女に歌声への礼を言いながら、机の前の畳に坐した。そこは僕の体重のせいか少しへこんでいる。僕は彼女の歌について言及したかったが、手紙を早く一緒に開きたかったため、早々に会話の流れを変えた。彼女に手紙送りのことは濁しつつ、偶然拾ったんだと、何か奇天烈なんだと説明して彼女の気を引き、一緒にその手紙を開いた。結果、手紙にはこう書かれていた。
”君たちは殺人を続けて 本当に地球が救われると思っているのか"
妙に滑らかな字体で問が書かれていた。それは僕の密かに抱えている疑問そのもので、答えではなかった。僕はその文字化された一番の不安を目に焼き付けながら、その不安に安らぎを与えてくれないかみさまとこの手紙の送り主に舌打ちをした。彼女は、言葉を失ったように震えていた。そして僕らはしばらくそのまま瞬き1つせずその文を見続け、なにも言わなかった。
やがて柱時計が6回ゴングを鳴らした。18時、仕事の準備に取り掛かる時間だ。僕らはやっとその問に考えを巡らせるのを終え、立ち上がった。
仕事を終え、シャワーを浴びる。いつも彼女が先に浴びる。僕はその間、彼女の下着と白装束をたたむ。その体に馴染ませた習慣を消化しながら、あの問を思い出している。時刻は、不明。深夜は柱時計も眠っている。この時間は僕を賢者に変貌させる。内に内に、内省。己の心の在り様を確かめる。”君たちは殺人を続けて 本当に地球が救われると思っているのか” 僕の心は、この問の影響で乾燥している、彼女はどうだろう。僕はこれを無視するべきことだと考える。趣味の悪い悪戯だ。シャワー室では、水が配管に吸い込まれていく音が遠くなっていく。そろそろか。僕は裸になってシャワー室へ向かった。
彼女は身体をタオルで拭いている。僕はシャワー室の扉を閉じる前に、彼女の気持ちを確かめようとした。「あの問のこと。僕は無視するべきだと思ってる。仕事の邪魔になるだけだし。君はどう思ってる?」「わたしは無視しちゃいけないと思う。あの手紙、かみさまの気配と似ている。でも似ているだけ。嫌な予感がするから。あの問への答え、自分なりに考えてみる」「そう」扉を閉める。
身体が水の温度と質感に慣れてきたところで、意識が覚醒する。意識はあの問へ向かって走り出す。
あんな不躾な問に答えを差すなど仕事の妨げとなる、と思う感情とは矛盾して、あらゆる可能性を探求する理性があの問への答えを導きだそうとしている。僕は立ったまま鏡に手をついて目を閉じ、俯きながら葛藤した。
地球存続のために、人の未来のために僕らは殺人に勤しむ。もしかしたらそれは間違っているのかも。
殺人をするために機械的で無感情な生活を意識する。もしかしたらそれは意味のないことなのかも。
上位の存在に言われるがままに隷属する。もしかしたら自分で考えて選択をする方が幸福なのかも。
僕らが逃げだしたら何もかも失われてしまう。もしかしたら失われていいのかも。
タオルで十分に体中を擦り、シャワー室を出る。出てすぐの短い廊下を右へ曲がる。冷やかなフロアから温もりある畳へ、硬い敷居をまたいで踏み入る。畳の部屋の右傍らにたたまれた白い仕事着が並べられてある。左脇には布団の塊が。正面には彼女の後姿が。その艶やかな濡羽色はちょうど昇る朝日のせいで闇を象っている。暁。彼女は布団ではなく、僕の体重で凹まされた畳の上に坐している。初めてのことだ。僕はそのイレギュラーに対して、そろりそろりと摺足を用いた。彼女に近づいて、上から、彼女の視線の先を覗き込んだ。そこにはあの手紙があるだけだ。彼女の広げられた両の掌の上に、存在感の薄い手紙が自然としている。しかしおかしい。あの問がまったく別のものに変わっている。これは別の手紙か。授けられた手紙と同じレターセットだが、書かれている問が違う。もしや彼女が新たな手紙を授かったのか。しかし先の問の手紙が見当たらない。僕は湧いた疑問を解消するべく、彼女の右隣に、彼女の身体を優しく押しのけながら坐し、まずはその新しい問を読んだ。
”君たちの信じるかみさまは 正しいことをしているのか”
正しいかなんて。そんな考こと考えるまでもない。僕ら人類を救っているんだから、かみさまは正しいに決まっているじゃないか。自明のことだろう。この送り主は僕らをなぜ否定するのだ。それを思ったのは感情だった。理性は、もし正しくないとしたら。既にそれを探求していた。隣の彼女は冷静に考えを巡らせているように見えた。それは誤解だということがすぐにわかった。
「わたしの正しいと思うことは、他の人にとっては正しくないのかも」彼女がそう言って、僕の理性はその発言を吸収した。「わたしは今まで正義心と、責任感と、義憤をもって仕事に取りくんでた。でもそれは間違いだったのかもね」彼女は静かな眼差しでその問を眺めていた。朝日に睫毛が震えている。「あーあ。考えないようにしてたのに。誰なのかな、こんなひどいことするの」彼女は上を向いて手を畳についた。彼女はその相手を責めるような口調をしていない。責めるどころか、ははっと笑っている。「わたしはね。変な家に産まれて変な慣習を押し付けられて、悪霊に喉を潰されそうになったり頭痛で殺されそうになったりしたけど、それが誰かのためになると教わったから、なるべく従順だった。でも6歳になって小学校に通い始めてからすぐ、周りの子供の子供らしさに愕然としたの。」彼女はそう語り始めた。「子供らしさがこんなにも求められる場所に、わたしはいてはいけないんだろうな、そう思いながら義務教育期間を終えた。その期間、この首の大きな数珠や気色悪い肌の白み、骨ばった腕なんかのおかげでいじめられたりもした。悪意をもった知らない人が躯の中に入ってくる以上に苦しいことは滅多になかったから、わたしはそれを特に気にしなかった。けど、あまりにも価値観がみんなと違ったから、わたしはこの子たちの住む世界とは違う次元で生きているんだと気づいた。それからは、わたしにしかできない"何か"を探した。」年上だったのか。「親と折衝して、将来親の言う通りに生きることを約束に、住処と時間を2年だけ獲得した。それから現在まではあっという間だった。わたしにしかできないことも見つけたし、しかもそれは人を救うことに直結する正しいことだった。最初一心君とツーマンセルなことに不満だったけど、結局今では、これは運命だ、わたしは幸福だと喜んだ」「幸福...。この生活が?」「うん。本気だよ? わたしは幸福だった。正しさに生きていたの。でもそれが正しくないかもだって、ははは」僕の理性はとっくに落ち着きを取り戻していた。今は棒のようになった視覚に入る、彼女の壊れたように笑う様に気を取られていた。「やってられないよね」何を今さら。僕は今さら絶望する彼女を腹の底から嘲た。手紙の中の問は、早く答えろと僕らを急かしているようだった。
僕は諦めたように布団に包まる彼女を気にかけないようにして、問にもう一度向き合うことにした。問に対して拒絶するだけじゃいけない。1つ目の問に対してシャワーを浴びながら考えた内容は、何も分からないまま殺人を続ける毎日に変革を起こすものばかりだった。なぜ、なぜ、なぜ。問が問を呼び起こして、僕の心は今迷っている。どうせ世界を救うなら、この迷いを解消してからがいい。
この問がどう現れたのか分からない、それにどう答えたらそれにまたどう応えが返ってくるのかわからない。さしずめ、僕なりの答えを探そう。
"君たちの信じるかみさまは 正しいことをしているのか"
彼女の言うとおり、個人の正義など自己中心的なだけなのかもしれない。でも僕は、みんなが暮らせる未来を守るかみさまは、正しいことをしていると思う。それはみんなにとっても正しいことだ。でも、その手段は殺人だ。生贄みたいだ。少ない命を犠牲に多くの命を救う。それは正しいのか。分からない、分からないけど、僕がもし生贄か全滅かという選択を迫られたら、生贄を選ぶと思う。しかしそれは、正しい選択だとは思わない。どちらも正しくはないんだ。それなら、僕たちの信じるかみさまは正しいことをしてるのか。「正しくないかもしれない..」僕は正直な答えを、その手紙の送り主へ伝えるつもりで口に出した。何も起こらない。どうすればいい、いつまでも迷っていたくない。どのように彼女は新しい手紙を受け取ったのだ。「ねえ。どうやってこの手紙を授かったの?」疾うに枕に頭を預けている彼女に尋ねた。彼女は答えない。寝息が聞こえないから、眠ってはいないはずだ。「答えて欲しいな」彼女は応えない。答える気がないようだ。「これを無視しちゃいけないと言ったのは君だよ。答えて」どうすればいい、こんなことに時間を浪費したくないのに。僕は怒りを覚え始めた。「答えてくれないか。僕はね、これがターニングポイントだと思ってる。この手紙が今の僕らを変えてくれると信じている。僕はこのまま殺しをしたくない」彼女は何も言わない。けれど、その身体は微かに震え始めた。それは兆しだ。まどろっこしい。早くしてくれ。怒りのせいか、左のこめかみの辺りがじんじんと熱い。「君は正しさに生きていたと言った。まだそれが過去になったなんて分からないじゃないか。このまま仕事を続けるのが正しいのか、それともそれ以外の道が正しいのか、その答えを出そうよ」思ってもないことを言った。仕事は正しい行いじゃない。「......、そうね」こめかみの感覚が漸次痛みに変容する。やっと声を発した。ここで押すか、優しい言葉で揺動するか。ああ、焦れったい。「ほら、ここに来て。やって見せて欲しいな」「気が乗らないの」弱々しい声だ。柱時計のゴングが6回、もう6時だ。時間が惜しい。なぜ己がこんなに焦りを感じているのか分からない。僕も彼女と同じ理由で仕事をしていたのかも。「何もしなくていい、ここに座るだけでいいよ。ゆっくりでいい」彼女は何も言わないが、ゆっくりと体を起こしてここへ這ってくる。頭痛が酷く激しくなっている。思考が乱される。指でこめかみを抑えて耐える。「大丈夫?」気づいたら彼女は隣に座していた。僕を気にかけるよりもまず、方法を教えてくれないか。それを口に出すことを我慢した。本能がこの痛みを拒絶している。だから僕は焦っているのかも。「大丈夫。それよりも、やる気になってくれた?」「怒ってる? 意気地のないわたしに」僕の怒りを感じ取ったようだ。「少し。」正直に言った。「そうよね。覚悟ができていないのはわたしの方だったみたい」彼女は悟ったようにしんしんと言葉を発した。しかし何も行動を起こさない。「僕だって覚悟はできてない。一緒に、その覚悟を確かなものにしようよ」彼女はまた何も言わなくなった。急かすようにしている僕だって、彼女に同情している。彼女の気持ちは分かる。よく分かる。けれど、このまま何もしないことは、ダメだ。理性で通じないなら、感情でいこう。痛みに散らされる思考をかき集めて言葉を紡ぐ。「分かるよ。君の気持ちも。」一言を噛み締めるように言う。「でもね、このままじゃダメだと思うんだ。正しいだけじゃダメな気がするんだ。他になんの要素が必要で、何に覚悟を決めればいいかなんて分からない。手紙に書かれているのは2つの問、その答えじゃなかった。でも、このままじゃダメだと気づいたのは、その問のおかげだ。僕は次の問が欲しい。この頭で正しさの他に何が必要なのか、捻り出したいんだ。」静謐。彼女の様子は変わらない。それから、ダメか、と思い切る程の時間が経った。彼女の様子は、、、。どうやら何かを決めたようだ。「情緒不安定になるのは初めてだったから。もう大丈夫」彼女は手紙を手に取った。そして目を閉じ、祈るようにした。
喜びよりも、こめかみから滲む痛みが脳を支配した。この痛みには覚えがある、初仕事の時感じたものと同じだ。かみさま、あの時のこと、僕はまだ疑っています。もし仕事が正しい行いだったとしても、それを逆らえない程の力で強制することはいけないことだと思うのです。なぜいけないか、その答えはまだ浮かばない。
祈るのをやめて目を開いた彼女は、手紙を両手でくしゃっと丸めた。驚いた。何をしているんだと興奮するところだったが、「見ていて」彼女がそう言ったから、不安ながら、彼女の行動を見守ることにした。そう決めたものの、一寸の間で、行動は終わった。彼女が合わせた両の掌を、徐々に上に向けて開き、そしてそれによってもう一度顕になった手紙は、その材質が手品によって変化してしまったように、シワひとつない美しい四角形になっていた。袖のない服を着た彼女の仕業じゃない、種も仕掛けも何もなかった。瞬きなどしなかった。現れたそれは先と全く違う手紙だ。その証拠に、妙に滑らかな字体でそこに、3つ目の問が書かれてあった。
それを読もうとした刹那、見るなと言わんばかりに頭痛が強まった。左目は痙攣を起こして開かなくなり、右目も次第に閉じていく。意識は、"人類の繁栄のため"、"ゆっくりでいい"、"君は希望だ、"神社に来るんだ"、などの頭に響く言葉に溺れていった。水中にいるように息苦しく、自分の想いが発せられない。酸欠のように頭がぼうっとしていく。身体の感覚は既にない。あるかもしれないのは、聴覚。意識を耳に向けると、確かに声が聞こえる。かみさまの言葉じゃない。女の子の、彼女の声か。何を言っている。"や、ぶ、か、ない、で" 破く? 手紙をか? 僕が? なんで。何も見えない、己が何をしているかも分からない。"やめて" 僕は何もしていないはずだ。僕の体が何かしていても、それは僕の意思じゃない。操られているんだ。ああ、かみさまが操っているんだ。やはり、これは正しくない。かみさまは正しくなかった。自己犠牲が感じられない。




