その14
そんな無邪気に嬉しそうに駆けていくネオをボンジュは複雑な顔で眺めた。
あの子には何も教えていない。何も知らない。何も知らないのに。
息を短く吐き、頭を振り払うと、余計な事を考えないように体を動かす。洗い物、家具の乾拭き、箒で掃き掃除、夕餉の下準備。用事を済ませると、ボンジュはエプロンをひと叩きして、土間に置いていた背負い籠を持った。
「これから森に行ってくるから」
「山菜採りに行くの?僕も行くよ」
ボンジュの背負った籠を見てネオは言った。
「いや、今日は繭採りだからね。ネオは友達とでも遊んでおいで」
糸の材料となる繭が無くなったのだ。ボンジュは様々な蛾や蝶の繭を撚って糸を紡ぎ、染め、針仕事をしている。
「……うん、分かった」
ネオは上々だった気分が下がっていくのを感じた。ボンジュはやはり教えてくれないことが多い。それが寂しかった。
ボンジュは森へ入るとスモヤナギの生える場所へと向かった。この季節に羽化するのはアカメヤママユガ。アカメヤママユガの好物はスモヤナギの葉で、細い葉を集めるように糸を纏わせ、薄い緑色の繭をこしらえる。繭を取る場所は誰にも教えていない。
村から随分離れた山の中腹に、枝垂れた枝に細い葉を揺らすスモヤナギが自生している。行儀良く並ぶ葉の列を乱すように、縦長の丸い葉の塊が点々と見える。アカメヤママユガの繭だ。枝を手繰り寄せ、羽化の終わったアカメヤママユガの繭を集めていく。
繭を篭に入れ、次の繭を探そうと手を伸ばした時、ふと、違和感を覚えた。
羽化してから何日も経った様な繭ではない。成虫となった赤い目の蛾がスモヤナギの周りを飛び回っているはずだ。普段ならパタパタと結構な数が羽を羽ばたかせているのに。
今日は一匹も見当たらない。
一つ気が付くと、それまで目に入っていなかった森の姿が見え始めた。いつもと様子が違う。よく見ると、下草が押しひじゃげている。いくつかの木が折れている。幹が抉れている。
…こんな通り跡を付ける獣がこの森に居ただろうか。
ボンジュは早々に戻ろうと踵を返した。そして、この通り跡を付けたモノと目が合った。
森の木よりも大きな大きな黒い塊。四足の足にはそれぞれ鋭い爪が付いている。窪んだ鼻にギラギラ光る二つの目。広く裂けた口からはボタボタと唾液が流れ落ちていた。その唾液が地面に付くと、草木は溶け、シュウシュウと黒煙が上がった。
…獣より厄介なものに出会ってしまったのである。
「ワザワイノツカイ……!」
本当に運が無かったと言うしかない。目の前のワザワイノツカイは命ある者を追い、喰らいつく。唾液は肉と骨を腐食させる。もしここで運良く逃げることができても…きっと村へ向かうだろう。
バアシャアアアアアァァァァアアアアアアアアアアアアァァ…!
ワザワイノツカイが吠える。ボンジュは足元から震えが迫せり上がってくるのが分かった。
――…光の神ジュシュ様、村を…ネオをお守下さい。
ボンジュは祈った。ワザワイノツカイが村へ向かわぬように。目を瞑り、手を握り、信じる神に祈った。
自分の命はここで終わりだ。老いた体で、逃げることも、戦うことも、追い払うこともできる気がしなかった。せめてできる抗いは孫の事を想い、木教ではない神に祈ることだけ。
思わず噛み締めた歯がカチカチと鳴る。ワザワイノツカイが雄叫びを上げる瞬くほどの時間で、これまでの人生で見てきた出来事が突然、頭の中に流れてきた。
幼い日に編んだ花冠、母より習った針仕事。祖母から伝えられた名前の意味。丹精込めて縫い上げた花嫁衣装に身を包み嫁いだ日、病で夫が亡くなった朝。息子の結婚式、そして昨日、ネオがくれたリボン。




