第8話 試衛館裏の稲荷大権現
(まだ誰も、起きていねぇだろうな)
いつもより早く目覚めた歳三は、床を出ると障子を開けた。
夜が、まだ完全には明けきっていない。
東の空だけが、墨を水で薄めたように、かすかに白んでいる。
縁側に立つと、足の裏へ板の冷たさが伝わってくる。
夏だというのに、朝のこの刻ばかりは、ひやりとしている。
陽が昇れば灼熱の日差しに焼かれる板の間だが、夜には冷めて、また陽に炙られる。ゆえに今の冷たさは心地よい。
「早いね。トシさん」
「早起きのあんたを忘れていたぜ。源さん」
「向こう(日野)では、わたしとより兄上のほうが早起きだったよ」
源三郎の実兄・井上松五郎は、歳三もよく知っていた。
歳三の実姉の嫁ぎ先であり、その夫である佐藤彦五郎は、この松五郎の勧めで天然理心流に入門したと聞く。さらに在所が同じ日野とあって、井上兄弟とは歳三が江戸に来るずっと以前からの顔見知りだった。
井上家は、八王子千人同心の家系である。
八王子千人同心は、幕府直轄領である武州多摩・八王子宿(現・東京都八王子市)に配置された武士集団のことらしい。職務は日光勤番、甲州街道・日光街道の整備、八王子及び周辺地域の治安維持など多岐にわたる。平同心たちは武士として職務を果たす一方、農業に従事し年貢を納める義務を半士半農の存在だという。
だからなのか、源三郎はこの朝も、畑に行っていたようだ。
手に茄子の入った笊を抱え、ややくたびれた手ぬぐいが、袴の腰紐に差し込まれている。
下級武士の庭に畑があるのは珍しいことではなく、近藤家の敷地内にも小さな畑があった。
「最近、帰っているのかい? 日野に」
歳三の問いかけに、源三郎が小さく首を振る。
「いいや。わたしの居場所はもうここなんだよ。ここは楽しくていい」
源三郎はそう言って、静かに笑む。
井上源三郎は歳三の六つ上で、総司に次いで現試衛館道場主・近藤周助の直弟子である。しかも、勇にとっては兄弟子にあたる。
「今にも潰れそうな貧乏道場だぜ?」
「そういうトシさんも、同じなんじゃないかい? 総司と楽しくやっているじゃないか」
「楽しかねぇねぇよ。あんなクソガキ」
「トシさんは相当な悪ガキだったじゃないか。総司なんか可愛いものだよ」
「昔のことじゃねぇか。俺はもう、あんたが知っている石田村のバラガキじゃねぇよ」
過去を持ち出され、歳三は視線をそらす。
「そうだね」
源三郎はそう言って苦笑する。
源三郎が厨に消えると、歳三は再び一人になった。
近藤家の庭は庭と呼ぶにはあまりに狭く、植えてあるものといえば古びた柿の木が一本、手水鉢の脇に細い竹が二、三本、花は百日紅に朝顔などである
土は夜露を含んで黒々とし、飛び石の上では小さな蜘蛛が糸を張っていた。
厨から匂ってくる味噌汁の匂いに、歳三の腹が鳴る。昨夜は勇の酒に付き合い、口にしたのは古漬けと干魚だったため、腹が減るのは当然かもしれない。
部屋に戻ろうとする歳三の背後で、開く音がした。
(朝帰りったぁ、いい度胸をしているぜ)
おそらく酒好きの原田左之助だろうと思っていた歳三だが、入ってきたのは原田ではなかった。
「……総司?」
「あ、土方さん。おはようございます」
「あ、土方さん、じゃねぇ。こんな朝っぱらからこそこそと、なにしてやがる」
「裏で狐に油揚げを」
「はぁ?」
歳三は唖然とし、口を閉じるのを忘れた。
江戸に狐など出るだろうか。いや、多摩にだっていない。そもそも、町中になどには。
「狐といえば、油揚げでしょ?」
「なに、寝惚けてやがんだ……。そんなものいるわけ___」
そこまでいいかけた歳三は、ちいさく「あ……」と声を漏らす。
「ね? いるでしょ?」
歳三はため息をついた。
確かにいる。
稲荷大権現___、商家などが商売繁盛を祈るために建てる小さな祠。いわゆる稲荷社である。
試衛館裏の稲荷の祠は勇いわく、近藤周助がこの市谷甲良屋敷町に来る前からあったらしい。目立たぬ位置にあるため、祠があることを大抵の者は忘れている。
おそらく勇も忘れているだろう。裏木戸を出入り口にしている、歳三でさえ忘れていたのだから。
総司によれば油揚げは、厨からもらってきたらしい。おそらく承諾したのは、源三郎だろう。彼は歳三と違って、妙に信心深い。
「利益なんぞあるのか? 試衛館にゃ、別の神が居着いていやがるじゃねぇか」
「というと?」
「貧乏神だよ。稲荷の力が強けりゃ、ここは少しはまともになっているだろうよ。たぶん、稲荷が呆れて見放したか、他に引っ越しちまったとかだな」
「罰が当たりますよ?」
「ふんっ。罰などクソくらえだ……」
乱暴に頭に手をやれば髻の組み紐が解け、歳三は軽く舌打ちをした。
東の空が、もう一段明るくなった。
屋根の向こうにある雲の縁が、薄紅色に染まりはじめている。
「どちらへ?」
踵を返した歳三を、総司が呼び止める。
「朝餉まで、もう一回寝る」
さて、今日はどんな一日になるのだろう。
だがこの試衛館だけは騒々しい住人たちによって、平和な刻が流れていくのだろう。
歳三はそう思いつつ、障子を閉めた。
※※※
今日の朝餉の膳は、玄米の混ざった飯に茄子の漬物、葱と納豆が入った 味噌汁である。 食事前、一悶着があったらしい原田左之助と藤堂平助のふたりの様子からみて、ことの起こりは左之助の褌らしい。
「実に、くだらん……」
そういって永倉新八が、味噌汁を啜る。
「まったくよぉ……、なんで俺が左之助さんの汚ねぇ褌をもっていくんだよ……」
平助が口を尖らせつつ、ぼやく。
「汚ねぇっていうんじゃねぇ。ちゃんと、損料屋にもらってきたわ」
当の左之助は飯茶碗をがっしり掴み、口に飯をかき込んでいる。
損料屋とは、江戸にいる下級武士や独り者の男にとってはありがたい商売である。
損料屋に使用済みの汚れた褌を持って行くと、代わりにきれいに洗濯をして火のし(現代のアイロン)」をかけた褌を貸し出してくれるのだ。
なにせ普通の六尺褌を買えば、二五〇文(五〇〇〇円)もするのである。
自分の褌とはいえ、自分で洗うのは恥ずかしい。長屋ならば、女たちに混じって井戸端で洗わねばならないからだ。
しかし新品ほど高くはないとはいえ、損料屋の貸し褌の代金は六十文(一二〇〇円)するのだが。
「やめろ、やかましいっ。飯が不味くなる」
歳三はそういったが、総司が話をさらに掘り下げにかかった。
「で? あったんですか?」
「庭の植え込みにひっかかってたよ。左之助さん、酔うとすぐ裸になるからさ。素っ裸で歩き始めたときはさすがに止めたけどな。なぁ? 新八さん」
「ああ」
「だから、悪かったって言ってるじゃねぇか」
バツの悪そうな左之助は、そう言って茄子の漬物を口に放り込んだ。
このなかで、我関せずと雰囲気を出していたのは山南敬助であった。
「___近藤先生、昨夜も人斬りが現れたそうですが」
「そのようだ。門弟から聞いたのだが、今度は神田で斬られたらしい」
「この江戸には、ご政道を避難する攘夷派なる者もいるとか。御公儀(幕府)は、さぞご苦労されておりましよう」
「山南さんは、詳しいな」
勇は関心しきりだ。
多摩では天領とあって、徳川を直接の主君と思う者が多い。勇は歳三と同じ多摩農民の出だが、徳川への想いは強かったようだ。
「いえいえ、知り合いに幕臣がいるだけのこと」
相変わらず山南は舌が回ると思いつつ、歳三はその話に耳だけは傾けていた。
「聞きましたか? 土方さん」
歳三の右横で、箸先を舐めていた総司が口を開いた。どうやら彼も、敬助の話を聞いていたらしい。
「ああ……」
「神田といえば、大名家だらけの土地ですよ。しかも御三家・水戸さまのお屋敷がある」
歳三はさすがに大名家が居並ぶ神田まで行ったことはないが、神田川の北岸、小石川御門外に水戸徳川家上屋敷があるという。
「お前はどっちだと思う? 総司。山南さんのいう攘夷派の仕業か、それとも例の人斬りか……」
「わたしは、あそこで堂々と人は斬れませんね。でも、山南さんの話からすると下手人は、わたしたちが遭遇した天狗面のほうではないようですね」
神田で斬殺されたのは、浪人らしい。
しかも手口は、袈裟懸けの一刀両断。
「つまり___、侍ばかり斬っているやつのほうか……」
「ええ」
歳三は、味噌汁椀を静かに膳に戻した。
___これは天誅なのだ。何が悪い。
藤倉誠之助の言葉が、脳裏に浮かぶ。
神田の下手人が藤倉でないにせよ、そんな言い訳で斬られては死んでも死にきれまい。
不当に人を斬って変わる世など、クソくらえだ。
歳三はそう、思うのであった。
※※※
「困りましたなぁ、顔を見られるとは……。これではなんのために、ご士官のお金を用立てているのかわかりませぬ」
夜半___、浅草上平右衛門町に店を構える桝屋庄右衛門は茶室で茶を点てていた。
「……わかっている……!」
庄右衛門の言葉に対し、苛立つ男の声が躙口の外から聞こえてくる。
「その女、始末なさいませ。でなければ、あの方との縁もなくなりましょう。お手配者のあなたさまに士官口を世話するというあの方のご期待を、くれぐれも裏切りなさいますな。手前としては、あの方の頼みでこうして仕事を任せている立場。女ひとり斬るなど、造作もないことでございましょう? 藤倉さま」
庄右衛門の言葉をどう捉えたか、藤倉と呼んだ男の気配が消えた。
「___ふふ、なかなかあぐどいな。庄右衛門」
茶室には、庄右衛門だけではなかった。
若い武士が、庄右衛門のもてなしを受けていたのである。
この青年が、庄右衛門のいう“あの方”であった。
庄右衛門は大店の主だが、自分にとっての邪魔者を、浪人を使って殺させていた。
「これも世のためでございます」
「物はいいようだ」
「あの男、どうなさいますので? 慎之助さま」
慎之助と庄右衛門が呼んだ青年は、口角をにやっと吊り上げる。
「そうだな。そろそろ、替えを用意しておくよ」
「それは助かります。足がつくと厄介でございますゆえ」
慎之助の前に茶器を置いた庄右衛門もまた、口角を上げると、深々と頭を下げたのだった。




