第7話 浪人・藤倉誠之助
歳三がその男に会ったのは、今から一年前のことだ。
いつものように薬箱を背負い、その箱に木刀を括り付け、甲州街道沿いをせっせと歩いていたときのことである。
季節は秋。
田の稲は刈り取られ、孤独な案山子が置き去りにされていた。
この日の石田散薬の売れ行きは良く、多摩川の渡船を降りて故郷・日野に入ったのは暮れ六ツの鐘がなる少し前であった。
そんな歳三が、苔むした道祖神の祠の前でぴたりと止まった。
彼の足を止めたのは、周囲の田園風景でもなければ、暮れゆく空でもなく、傍らの祠でもなかった。前からやってきた、ひとりの浪人である。
瞬間、歳三の体を戦慄が駆け抜けた。
侍などこの多摩では珍しくはなかったが、左頬に大きな刀傷があった。
耳の下から頬骨へかけて、白く引きつれた傷だ。
だがその傷よりも歳三を動かなくさせたのは、この浪人の眼である。黒目が大きいわけでもない。鋭く吊り上がっているわけでもない。
視線が合った。
こちらを見ているのに、見ているという感じがしない。まるで、眼の奥から何かがこちらを測っている。
男の眼が、歳三の顔から胸もとへ、そして腰へ落ちた。
刀を差していないか、確かめたのだろう。
この多摩では、自衛のために剣を学ぶものは多い。打ち刀と脇差しの二本差しは武士だけの特権だが自衛のためならば町人でも許されている。
歳三は自分が値踏みされたような気がした。
斬るべきか。
斬らぬべきか。
その二つを、男は歳三の知らぬところで静かに秤へかけたように思えた。
男は何も言わなかった。
ただその眼は昏く、不気味であった。
秋風が、道端の枯れすすきを揺らした。
歳三も、無言で脇を通り過ぎた。もし斬りつけてこようものなら、どうしようかと思いながら。
真剣と木刀では、殺される確率は高い。
しかも剣術の腕は、実戦に対してはまだまだである。
それ以降、歳三が彼と出会うことはなかった。いつしか男の記憶も遠ざかっていたのだが___。
歳三は自室で刀を握った。
左手で鍔と鞘を握り、親指で鍔を押し上げる。鯉口から鈨が外れ、右手で一気に引き抜く。
歳三の初の実戦は、以外も早く訪れた。
総司と多摩に出稽古に出かけ、その帰りに遭遇した二三人の人斬りとの実戦である。
彼らは天狗面をつけ、世のためだと人斬りを正当化するとんでもない輩だったが、その中のひとりの面が割れ、顔が露わになった。
その男の左頬には刀傷があり、歳三は多摩で出会った浪人を思い出したのである。
「___物騒だなぁ……。今の土方さんの目は、今にも誰かをやりそうだ」
障子の縁を背に、総司が立っていた。
外は暮れなずみ、雲が茜に染まっていた。
軒下の風鈴が鳴り、簾が揺れる。
「俺は、人斬りなんぞにならねぇよ」
「でもなにかを考えている。土方さんが部屋に籠るのは、ご趣味の発句か、考え事ですからねぇ。その眼から、後者ですね」
「あの野郎はやっぱり、俺の知っているやつだったよ」
「あの野郎というと、天狗面の? 確か、藤倉とか呼ばれていましたね」
「あの男、あっち(多摩)でも人を斬ってやがった……」
「土方さんの薬売り家業は、無駄ではなかったというわけですか」
「やつは、甲源一刀流の道場に出入りをしていたよ」
「甲源一刀流? それにしては、彼らの腕はなっていませでしたよ?」
「稽古なんぞろくにしていなかったそうだ。博打と女のほうに忙しかったらしい」
「それはなんとも……」
「問題はその野郎が、人を斬って逃げたってことだ。しかも斬られたのは、八王子の名主だ。八州廻りが必死に探し回っているが、捕まらねぇらしい。そりゃあそうだぜ。野郎はこの江戸にいるんだからな」
八王子は甲州街道十一番目の宿場で、日野の隣の宿場である。
男の名は、藤倉誠之助というらしい。
八州廻りとは、正式名を関東取締出役という。
関八州(上野・下野・常陸・上総・下総・安房・武蔵・相模一円)において無宿人や浪人が増加して治安が悪化し、天領(幕府直轄領)や私領(飛び地、諸大名領、旗本領、寺社領など)が各地に散在していたため広域的な取り締まりが難しい状況になっていたため、勘定奉行配下の八州廻りができたという。
「顔を隠したくなるわけですねぇ」
「だがあの野郎、まだ誰かを斬っている気がする」
「そりゃあ、人斬りですからねぇ」
「そういう意味じゃねぇ。俺が奴と出会ったのは一年前だが、あの時の野郎の眼は、そこらへんにいる侍の眼じゃなかった。それが今やっとわかったよ。あの眼は、人を斬り、そのことに罪悪感なんぞねぇ眼だってな」
一年前に、歳三とすれ違った刀傷の浪人。
まさかこの江戸で再会するとは思っていなかったが、歳三に戦慄を走らせた眼の意味をなんとなくわかったような気がする歳三であった。
「で、どうするんです?」
抜いた刀を鞘へ戻すと、そう総司が聞いてきた。
「どうもしねぇよ。また奴らと遭遇すれば、また一戦ってなるだろが」
そう、自分は八州廻りでなければ、町方でもない。江戸の片隅にいる、中途半端な男である。人を斬ったことなどなく、その覚悟すらない。だから彼らと対峙したとき、押されたのだ。総司が一緒でなければ、おそらく斬られて死んでいただろう。
だが、再び遭遇すれば___。
歳三は、刀に視線を落とす。
今度はやれるだろうか。人を斬れるだろうか。
人斬りのように情容赦なく誰構わず斬るのでなく、身を守るための剣。それが、今の自分にできるのだろうか。まだ真の武士かどんなものかわからず、農民の出の自分に。
「ほらまた、眼が怖いですよ。土方さん」
総司が茶化す。
「うるせぇな。お前と違って俺はいろいろ考えることがあるんだよ」
歳三は刀を畳に置くと、額に落ちる髪を乱暴にかきあげた。
「でも___」
障子の外に出て行きかけた総司が、言葉を区切る。
「嫌いじゃないですよ。剣を抜いたときの土方さんの眼は。以前のような眼のままだったら、わたしはとうに土方さんのことは嫌いになっていましたよ」
「総司?」
「あ、発句の方も頑張ってください。楽しみが減るので」
「くそがきっ!!」
思わず身近にあった書を投げつけたが障子が閉まり、総司に当たることはなかった。
※※※
「さぁさあ皆の衆ご覧あれ♪死に損ね左之助の腹踊り。腹に刻んだ一文字、みなきゃ損損、御覧じろ♪」
試衛館の稽古場で、原田左之助がそう唄って踊っていた。
普通の剣術道場ならば、神聖とする稽古場で酒盛りなどないだろうが、試衛館次期四代目・近藤勇まで酒盛りの一員になっていたのだから、試衛館は平和である。
「まだ始まったよ、左之助さんの腹踊り」
藤堂平助が呆れつつも、笑っている。
原田左之助は自身がいうとおり、死に損ね左之助といわれているらしい。
そのわけは切腹し、あの世へ行きかけたからだという。なにかやらかして切腹に至ったのかと思いきや、酒の場で口論となり、その勢いで腹を切ったというのだから呆れる。
どうも左之助の腹踊りは、酒の酔いが回ると始めるらしい。
歳三は黙々と、盃に口をつけていた。
本当は下戸で、おかげで盃の酒は一向に減らない。
「そんな顔で飲んでいて、上手いか? 土方さん」
食客のなかで山南敬助に次ぐ冷静な永倉新八がそう聞いてきたが、味わっていないため、美味くも不味くもない。
「近藤先生、新しい門弟が増えたとか。お喜び申し上げます」
その山南敬助が勇の前に座り、酌をし始めた。
「なになにまだまだだよ、山南さん。うちは、義父どのの名で保っていられる」
「ご謙遜を。近藤先生の腕にはこの山南敬助、感服しております」
ふたりの会話に、歳三は酒の味が不味くなったのを覚えた。
本音にしろ、おべっかにしろ、歳三はどうも背筋がむず痒くなるような褒め言葉は苦手である。
「よくもまぁ、舌の回るこった」
「聞こえますよ。土方さん」
隣で膳の魚を箸で突っついていた総司が、くすっと笑う。
「聞こえねぇよ。原田のばかでけぇ声で、俺の声なんぞ届かねぇよ」
「確かに土方さんに、あれはできませんね。寧ろ、やらないでほしいですね。空から雷さまが落ちてきてしまう。いや、お天道様かな」
確かに歳三には、山南敬助の真似事はできない。
「どっちも落ちてこねぇよ。人をなんだと思っていやがる」
「鬼」
「ふんっ。鬼で結構。だが、俺の仏頂面はともかく、もうひとり眉間にしわを寄せている野郎がいるじゃねぇか。滅多に表情を変えねぇあいつが」
「ああ、一くんですか……」
総司がいう一くんとは、斎藤一のことである。
年は総司のふたつ下らしい。
その斎藤一は皿盛りの輪から外れ、稽古場の隅にいた。
いつもの間にかいて、いつの間にか消えている男でこうした宴に加わることはないのだが、この中の誰かに引っ張ってこられたらしい。
「一、そんなところにいねぇで、こっちへ来いよ」
藤堂平助が斎藤一の存在に気づいて声をかけるが、動く気はないらしく、
「……いい」
そう言って眉間に、新たなしわを作る。
嫌なことがあったのか、それとも望まぬ場に連れてこられのが面白くないのか、この男がなにを考えているか、歳三もさっぱりわからない。
そのうち、酒盛りは自然にお開きになった。
左之助は大の字になって酔いつぶれ、平助も新八も眠り、斎藤一は出ていき、起きているのは歳三と勇、総司だけになった。
どこからか、季節を間違えた秋虫の鳴き声が聞こえてきた。
「なぁ? トシ」
勇が膳に、盃を静かに置いた。
「なんだ? 近藤さん」
「俺たちは、武士になれたのかな。義父どのに引っ張ってもらわねば、俺は農民のままだった。刀を差す身にはなったが、士分じゃねぇ。四代目なんぞ持ち上げられても、土臭さはそう簡単に消えるもんじゃない」
「近藤さんともあろう者が、弱気を」
「確かに俺は、お前と真の武士になろうと誓った。だかな、トシ。上(幕府)は、俺たちのことなど見向きもしねぇだろうよ」
どうやら勇は、誰かに出自のことをいわれたらしい。
「近藤さん、あんたは俺にこうも言ったんだぜ。そんなやつらを見返してやろう。農民の俺たちが武士になってもいいじゃねぇか、ってな。近藤さん、夢っていうのはな、叶えなきゃ、夢は夢で終わるんだぜ。諦めたら終わりなんだよ、近藤さん。俺は信じている。いつか俺たちが歩む道が来ることを。だから、あんたも負けんじゃねぇ。田舎モンだとか、農民上がりなんぞほざくやつなどほっておけ。どんと胸張っていればいいんだよ。違うか? 近藤さん」
「土方さんは、たまには良いことをいいますねぇ」
総司が、団扇をひらひらさせつつ口を挟む。
「たまにには、余計だ」
「トシ、なろう! 真の武士に。俺はもう迷わん。ふたりで目指そうじゃないか」
「ああ、ずるいですよ。わたしもいるのに」
「お前はガキだからなぁ……」
「そういう土方さんも、中身は子どもじゃないですかぁ」
「総司!」
「お前ら、いい相棒だな」
「冗談じゃねぇ。こんなくそがき」
総司が、あっかんべーをする。やはり、子どもだと思う歳三であった。




