第6話 多摩の薬売りと石田散薬
甲州街道九番目の宿場、府中。
多摩川を渡船で越えてきた男は、菅笠を指先で僅かに押し上げて空を見上げた。
朝から空は薄墨を流したような曇りであった。
夏の雲が高く空を覆い、陽はその向こうにあるはずなのに、街道には柔らかな明るさだけが落ちている。
男は笠の紐を少しゆるめた。
照りつける陽がないだけで、足どりが違う。
わらじが踏む土は、昨夜の露をわずかに含み、乾ききった道より歩きやすい。
甲州街道はゆるやかに野を抜け、畑のあいだを縫うように続いている。青々とした稲は風に身をまかせ、波のように揺れた。その音は、耳を澄まさねば聞こえぬほど静かである。
風というものは不思議なもので、姿は見えぬが、草も木も、それに従う。道ばたの榎が葉を鳴らし、葛の葉が裏返る。そのたびに湿り気を帯びた土の匂いが立ちのぼった。
どこかで牛が鳴く。
畑にいる百姓が鍬を止めて街道を眺め、男と目が合うと、黙って軽くうなずく。
遠くの山並みは、薄曇りの空に溶け込み、墨でぼかしたように霞んでいた。
男は、薬売りである。
片手に石田散薬と黒々と書かれた幟を持ち、薬の木箱を背負いながら、慣れた足取りで道を歩いていた。
石田散薬は骨折や打ち身、捻挫、筋肉痛、また切り傷等に効用がある。この石田散薬を男の実家で製造していた。実家は薬屋ではなかったが、男が生まれるずっと以前から作っていたらしい。
男は笠をかぶり直し、また一歩を踏み出した。
やがて、甲源一刀流の剣術道場・丹波道場が視界に入った。
「なんだ? お前は」
応対に現れた男は胡乱に眉を寄せた。なんでも丹波道場の師範代らしい。
「見ての通りの薬売りで」
「いらん。帰れ! 薬売り風情が来る所ではないわっ」
男の声に、道場主らしき男が出てくる。
「何事だ……? 後藤」
「先生、この薬売りが押しかけて来まして……」
道場主・丹波新九郎は、訝しんだ。
「お前、剣術をやるのか?」
丹波の視線は、男の木刀に注がれている。
普通の薬売りは持ち歩かないだろうが、男の場合は常に薬箱に括り付けてあるのだ。
「嗜む程度で。最近は物騒でございますから」
「一理ある。後藤、相手をしてやれ」
多摩の多くは、藩主が支配する土地ではなく、幕府直轄地・天領である。ここの者たちにとって、幕府は遠い存在ではなく、直接の領主という意識がある。
彼らは自衛意識が強く、他の流派がひろまったのはそうした経緯があるのだろう。
「……ええ、いいですよ。薬売りごときが剣術の真似事とは笑わせる。剣術がどのようなものか教えてやりますよ。丹波先生」
後藤の蔑む目と笑みに、男がどう思ったか、彼は知る由もないだろう。
※※※
武州・多摩には、天然理心流をはじめ、柳生新陰流、神道無念流、柳剛流などの剣術流派が広まっており、甲源一刀もその一つである。
門弟の多くは八王子千人同心が多かったが、丹波道場の門弟は府中宿では多い方である。 丹波新九郎は稽古場の、一段高い板の間に腰を下ろした。
(変わった薬売りだ……)
丹波道場に現れた薬売り。
菅笠を外せば、髪は総髪で髷は背に垂らしている。ただ、いい顔をしていると新九郎は思った。精悍な顔立ちに均等の取れた肢体、木刀を構えた薬売りの目は、決して嗜むといった薬売りの言葉以上のものを宿していた。
だが、所詮は薬売りである。すぐに終わるだろう。新九郎はそう思っていた。
おそらく相手をしている後藤も、周りで見守っている門弟も同じことを思っていることだろう。
やがて、後藤が一歩、踏みこんだ。小さな仕掛けである。
だが、それを待っていたかのように、薬売りの木刀が、すっと上がる。
次の瞬間、乾いた音が道場に響いた。
面が、きれいに決まったのである。
打たれたのは薬売りではなく、後藤だった。
片膝を板の間につき、薬屋を忌ま忌ましそうに睨んだ。
「薬売り風情が……っ」
「人を見た目で判断するからだ」
薬売りは木刀の先を、後藤の顔面に突きつけている。
この男、本気の目をしてやがる。新九郎はそう思った。
「貴様……っ」
立ち上がり、竹刀を握り直した後藤に対し、新九郎は声を上げていた。
「やめろ! 後藤」
「しかし、先生」
「この男の言うとおりだ。人を見た目で判断したこちらの負けだ」
もしこれが真剣ならば、後藤は間違いなく死んでいただろう。
聞けば薬売りの流派は、天然理心流だという。
「剣は、どこで学んだ?」
「今は江戸で学んでおります」
菅笠を被り、薬箱を背負った薬売りは僅かに笑みを浮かべた。
「江戸?」
「天然理心流宗家の試衛館ですよ。丹波先生」
「名を聞いておこうか」
外に出ていこうとするその背に、新九郎はそう聞いた。
「……土方歳三」
その名を聞いた途端、新九郎は思い出した。
以前この多摩で、剣術道場を訪れては門弟相手に挑む薬売りがいたことを。その名は土方歳三___と。
※※※
昼の暑さがようやくほどけ、庭の木々が長い影を落としはじめるころ、総司は縁側へ腰を下ろした。
畳には、まだ昼の日差しのぬくもりが残っている。
庭先へは、打ち水をしたばかりであった。濡れた土が夕風を受け、何ともいえぬ匂いを立ちのぼらせる。青葉の匂いでもなく、土の匂いでもない。夏の暮れどきだけが持つ、やさしい湿り気である。
西の空は茜に染まり、その上には薄く藍色が重なっている。
雲は夕陽を受けて淡く紅を帯び、風に押されるでもなく、ゆるやかに流れていた。
総司は子供の頃から、空を眺めるが好きだった。
空は地上の騒ぎなど無関心で、それでいて様々な景色を見せる。
柿の木で、蜩が鳴いていた。
裏木戸の外に、草履の音がゆっくりと近づいてきた。
裏木戸を出入り口としている人間は限られる。
近藤勇は表から出入りするため、彼ではない。
食客の四人は邸内にいる。斎藤一は帰ったばかりで、内弟子の井上源三郎は夕餉の手伝いで厨にいる。ならば、残るのはひとりしかいない。
「お帰りなさい。商売繁盛でなによりです」
裏木戸を開けて入ってきた男に、総司は笑いかけた。
「なにが?」
総司の想像通り、入ってきたのは歳三であった。
どこでなにをしてきたのか察しがついていた総司は、口角を上げた。
「またどこぞの道場で一手とかいって、薬を売りつけてきたんでしょう? あくどいなぁ」
「馬鹿野郎。そんなことはしてきてねぇよ」
「あの薬、うちの門弟にも渡したでしょう。腹下しにも利くって、初めて聞きましたよ」
「ここの奴らからは、金は取ってねぇよ。それに土方家の石田散薬は、なんにでも利く万能薬だぜ」
「本当ですかねぇ……」
総司が初めて歳三に会ったとき、彼は薬売りをしていた。
なんでも実家の手伝いらしい。
歳三の実家、日野宿石田村の土方家では、石田散薬の製法が代々引き継がれているという。妙だったのは、薬箱に括り付けてあった木刀である。
思えば歳三と立ち合ったのは、そのときが最初で、それっきりだ。
「近藤さんは?」
「部屋にいますよ。あ、近藤先生には里帰りと伝えてあります。まさか、薬売りに化けて出かけましたなぁんて言えませんし。言ったら、天狗面との立ち合いを話さないといけなくなりますからね」
二三日留守にすると歳三がいったとき、総司は天狗面の手がかりを探しに行くんだなと思った。確かに薬売りに化ければ怪しまれないだろうが、薬を売りつけられた道場主は災難だろう。打ち身や骨折に効くとしても、はたして腹下しに効くのだろうか。
「お前は時折、勘が鋭くなりやがる」
「誰かさんは表情にでるからわかりやすいだけですよ」
「けっ」
「で? 手がかりは掴めたんですか? 土方さん」
風が少し強くなった。
簾がさらさらと鳴り、風鈴が一つ、小さく澄んだ音を立てた。
総司と歳三の背で束ねた髪が揺れ、サラサラと靡く。
「ああ……」
歳三が答えるまで間があいた。
天狗面の男たちと対峙し、ひとりの面が割れたとき、歳三は驚いた顔をしていた。
知っている男だったかもしれないと総司は思ったが、歳三には今日まで聞くことはしなかった。おそらくこの男は、勇に話すことはないだろう。
天狗面の人斬りと対峙したことはもちろん、その中に見知った男がいたことも。
それは勇を巻き込みたくないという、歳三の想いなのだろう。
「ふたりとも、こんなところで何やってんだ?」
振り向けば原田左之助を真ん中に、永倉新八、藤堂平助が斜め横に立っていた。そろそろ夕餉とあって、出てきたらしい。
彼らの腹は、寺の鐘より正確である。
「なんでもありませんよ。ねぇ? 土方さん」
「ああ」
「金儲けの話なら、俺たちも混ぜろよ。土方さん、総司」
食客三人の声が背後から追ってくる。
(今夜は何事もないといいな……)
空を横目に、総司は心からそう思うのであった。




