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第5話 人斬りの大義名分

 盛夏の江戸ほど、暑さというものをむき出しに見せる町はない。

 朝のうちはまだしも、巳《み》の刻(午前十時)を過ぎるころになると、照り返しを受けた土の道は白く乾き、瓦屋根は火鉢のように熱をため込む。風はあるにはあるが、生ぬるく、町家の軒をくぐっても、涼しさなど運んではこない。

 天秤棒を担いだ魚河岸の男衆は、手拭いを鉢巻きに締め、裸同然の姿で大声を張り上げている。その威勢だけが、暑さを押し返しているようなものだ。

 桶の中では魚が銀色の腹をひるがえし、水しぶきが飛ぶ。そのわずかな涼が、見ている者の喉を鳴らす。

 町を歩く者はみな、日陰を選ぶ。寺の築地塀の陰、呉服屋の深い軒先、柳の並ぶ堀端、人の足は自然とそうした場所へ吸い寄せられていく。

 茶店では冷やした甘酒をすすり、井戸水で冷やした西瓜が切り分けられている。硝子などまだ珍しい時代である。青い瀬戸の鉢に盛られた西瓜の赤が、いかにも涼しげに見えるだけで、客は銭を払う。

 犬は腹を土につけ、猫は縁の下へ潜り込んだ。人も獣も、暑さには勝てぬ。

 それでも江戸という町は休まない。

 飛脚は汗を滝のように流しながら駆け抜け、町娘は手拭いを肩へ掛けて打ち水をし、その水が石畳を濡らしたと思えば、あっという間に白い湯気となって消えてしまう。

 干の空に浮かぶ雲は入道雲。真っ白な峰が天高く積み重なり、その下では蝉が、命を削るように鳴いている。その声は、町中の屋根という屋根へ降り注ぎ、暑さをいっそう濃くする。

 だが空は知らぬ顔で青く澄み、陽は容赦なく江戸の町を照らし続ける。

 それでも夕方になれば、隅田川から風が渡る。

 昼間はあれほど焼けつくようだった町が、川風をひと息吸い込んだだけで、生き返ったような顔を見せる。


「すっかり遅くなっちゃいましたねぇ」

 日本橋を渡りつつ、隣にいた総司が呑気そうに言い放つ。

「誰のせいだと思ってやがる」

「わたしの所為ですか? せっかくのお誘いを断るのは失礼じゃありませんか。土方さんは相変わらず融通が利きませんねぇ」

 いつものように多摩に出稽古に向かった歳三だが、この日は総司と一緒だった。

 だが出稽古先で茶と茶菓子を勧められ、歳三は帰るつもりだったが総司がこれに応じた。ひとりで帰ろうとすると袴を引っ張られ、一緒にお相伴になろうという。

 お陰で日本橋にたどり着いたときには、夜になっていた。

 今頃、近藤勇が心配しているかもしれない。

 歳三は、日本橋の欄干へ手を置いた。

 昼には焼けるようだった擬宝珠も、夜露をうっすらとまとい、掌へひやりとした感触を返してくる。

 今宵は月もない。星だけが、黒々とした天蓋へ針で突いたように散っている。

 橋の上に立つと、江戸という町が息をひそめているのがわかる。

 昼の日本橋は、人の波である。

 魚河岸へ急ぐ棒手振り、大八車を曳く男、越後屋へ出入りする番頭衆、諸国から来た旅人、肩が触れぬほどの賑わいも、夜更けには夢であったかと思えるほど静まり返る。

 橋の下を流れる日本橋川は、音もなく黒い。

 荷を積んだ高瀬舟が一艘、提灯を船首へひとつ吊し、櫓のきしむ音だけを残して、ゆっくりと闇の奥へ吸い込まれてゆく。

 その灯が消えると、橋の上はいよいよ暗くなる。

 町家の軒先には油を惜しむように行灯がひとつずつ灯っているが、その明かりは人の顔を照らすほどにも及ばない。だから江戸の夜は、闇そのものが町を歩いている。

 どこか遠くで拍子木を打ち「火の用心」という夜番の声が聞こえてくる。

 拍子木の乾いた音が日本橋から京橋へ、本町へ、神田へと渡ってゆく。それに応えるように、犬が二声三声吠え、また静寂が戻る。

 真夏とはいえ、川の上を渡る風だけは別である。昼の熱を忘れたように、水の匂いを含んで頬を撫でてゆく。

 橋の中央へ立てば、江戸城の方角は闇の塊でしかない。家屋敷も町家も寺も、すべてが夜という一枚の羽織をまとっている。


「ねぇ? 土方さん」

「なんだ」

「蕎麦、食べていきません?」

 総司をみれば、ある方向を指差している。そこには二八蕎麦の屋台があり、湯気がのぼっているのがわかる。

「お前なぁ……」

 呆れつつも腹の虫には勝てず向かおうとしたのだが、二人の足がぴたりと同時に止まる。

 総司が「臭いませんか?」と聞いてくる。その口調は先ほどまでの軽口ではなく、真剣である。

「ああ」

 歳三も、その臭いを嗅ぎ取った。鼓動が速まる。臭いの先にあるものが、頭に浮かんでいるものでないことを祈りつつ、足は路地へ向いてしまう。

「……当たりですね」

 二人の勘は一致していた。

 道の真ん中に、町人がひとり倒れていた。

 二人が嗅ぎ取った臭いは、血の臭いだったのである。

 路地は狭い。

 両側の板塀が肩を寄せ合うように続き、なお暗いその場所へ夏の夜気がじっと澱んでいる。どこかで流した打ち水の匂いが、湿った土の香りと混じって鼻をつく。

 男は、その路地の奥に倒れていた。

 片膝を折り、片腕を胸の下へ巻き込み、頬を土へつけている。

 草履は片方が三尺ばかり先へ転がり、泥酔して寝転んでいる様子ではない。

 先に動いたのは、総司だった。

 やはり死んでいるらしく、胸元に刀で裂かれた一筋、傷はそれだけだという。

「浪人のようだな」

 総司に遅れて歳三も死体の傍らに立った。

 両腕を組み、死体を見下ろす。

 まだ若い。三十を少し越えたばかりであろう。

 頬には無精髭が伸び、日に焼けた手は固く節くれ立っている。

 刀は抜かれた形跡もない。争った様子もない。

 ただ一太刀。それだけで終わっている。

 斬った者は、怒りに任せた素人ではあるまい。斬るべきところを知っている者の太刀である。

 夜の闇は何も語らない。だが、語らぬ闇ほど、人を欺くものはない。

 江戸という町は、人情の町である。

 その一方で、人ひとりが消えたくらいでは、翌朝になれば魚河岸の声は響き、豆腐屋は笛を吹き、町人はいつものように暖簾をくぐる。だからこそ、こうした路地裏には、ときとして人の業だけが置き去りにされる。

 朝日が差せば、この男の亡骸も白日の下へさらされる。

 だが、この闇の中で何が起きたのかを知っているのは、斬った者と、黙して流れる夜風だけであった。


「まだ血が乾ききっていない。やられたばかりのようですね。でも変だなぁ」

 提灯を手に死体の前で屈んでいた総司が、異変に気づく。

「なにがだ」

「この切り口ですよ。例の人斬りのやり口は確か袈裟懸《けさが》けが多いと聞きましたが、このご遺体は横から払っています」

「人斬り野郎はもうひとりいるってか?」

 これまでの人斬りは、刀を右上に高く構え、敵の左肩から右腰に向かって斜めに振り下ろす袈裟斬りらしい。だがこの死体は、胴を横から斬られている。

 つまり人斬りは、もうひとりいるということになる。

「どおりで捕まらない筈ですね」

「まさかと思うが……」

 歳三の勘は、新たなものを教えていた。

 案の定、二三人の浪人が別の路地から出てきた。おそらく下手人はこの男たちだろう。すでに抜刀し、切っ先が向けられている。

「今宵の土方さん、勘が冴えてますねぇ」

「お前、実戦の経験はあるのか?」

「いいえ、これが初めてです。そういう、土方さんこそあるんですか?」

「ねぇよ」

 背中合わせに会話をしつつ、歳三は覚悟を決めた。


                    ※※※


 抜き打ちは、雷より速かった。

 銀の一閃が闇を裂き、鋼と鋼が噛み合う甲高い音が路地に響く。火花が散る。


「お前、何者だ?」

「……」

 男たちは答えず、再度斬りかかってきた。

「どうやら、名無しの権兵衛さんのようですよ。しかも、剣が荒い。基本がなっていませんねぇ」

「総司、挑発するんじゃねぇ」

 近くで見れば男たちは、天狗の面をつけていた。

 そしてようやく、男の一人が口を開いた。

「これは天誅なのだ。世直し党として、成敗してなにが悪い」

「ふざけるんじゃねぇ……! 刀を手にしていねぇ者まで斬るやつが、世のためなんど語るんじゃねぇ!!」

 天狗面の男たちは悪びれもせず、刀を振りかぶった。

「わたしもこういう男は嫌いですね。近藤先生のところにいなければ一太刀浴びせているんですけどね!」

 近藤勇は総司のことを、試衛館一の鬼才という。

 総司の剣先が、男の一人の顔を掠めた。仮面が二つに割れ、地に転げ落ちる。

 提灯の灯りに男の顔が晒され、歳三は瞠目《どうもく》した。

「引くぞ! 藤倉っ」

 男たちは総司の剣捌きに完全に押され、負けと察したか駆け出していく。

 深追いしないのも、総司は心得ていた。

 


 ___これは天誅なのだ。成敗してなにが悪い。


 歳三は自室にて、抜き身の刀を見つめていた。

 昨晩は一睡もできず、初めての実戦の興奮よりも、怒りが勝って寝付けなかったのである。天狗面の男たちは、己の非道を正当化していた。しかも鼻で笑って言い放ったのだ。 刀身に映る己の目には、まだ怒りが滲んでいた。

「土方さん、入っていいですか?」

「……ああ」

 障子がすっと開いて、総司が入ってくる。

「ずいぶんと古びた刀ですねぇ。昨晩はそれで、やっていたんですか?」

「うるせぇな。これしかなかったんだよ」

 歳三の刀は、義兄・佐藤彦五郎からもらったものである。というより、好きなものをもっていけといわれ、蔵の中から探し出した一振りなのだが。

 総司がふと、冷えた胡瓜を懐から差し出してくる。

 なんでも厨から失敬してきたという。

「お前は河童《かっぱ》か」

「ちゃんと、井上さんに断ってきましたよ。それにしても、状況は最悪です。人斬りが三人になっちゃいました」

 総司は胡瓜を齧りながら、視線を天井に運ぶ。

「これからも、あんなのが増えるだろうよ。世の中の所為にして、憂さ晴らしに人を斬る輩《やから》が」

「殺された方は浮かばれませんね……」

「総司、俺は二三日、留守にする」

「どちらかにお出かけで?」

「多摩に、な」

 いつもの総司ならいろいろ追求してくるが、このときはなにもいわなかった。

 この頃の浅川の土手には、牛革草《ぎゅうかくそう》(ミソソバ)がたくさん茂っていることだろう。だが歳三の目的は、牛革草ではなかったが。  

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