第4話 尊王攘夷
その日彼は道場へ向かうため、いつものように九段坂上(現在の靖国神社境内)の急坂を上がっていた。
この日も厳しい暑さとなったが日陰となれば暑さも違い、坂を上がる足も少しは軽くなった。ただいつもと違ったのは、ふたりの町方同心(奉行所役人)が坂の上から降りてきたことだ。
男は妙な胸騒ぎを覚え、逸る鼓動が彼を急かせた。
やがて神道無念流の道場、練兵館が見えてくる。
練兵館は敷地の南西部一帯に百畳敷きの道場と三十畳敷きの寄宿所があり、異国船来航以来の尚武の気風もあって、隆盛を誇っていた。
「先生!」
「どうした? 桂、そんなに血相を変えて」
障子を開けるなり声を上げた男に、部屋の主は視線を上げた。
練兵館初代道場主・斎藤弥九郎は、自室で茶を啜っていた。
このとき弥太郎は還暦を過ぎ、道場主は息子の新太郎(二代目・斎藤弥九郎)である。 桂こと桂小五郎は、腰から刀を抜くと弥九郎の左側に座した。
「ここへ来る途中、町方とすれ違いました」
「ああ、そのことか。例の人斬りの剣は知っているな? そのことで来たのよ」
「まさか、うちの門弟が下手人だと思われているのですか?」
憤る小五郎に対し、弥九郎の顔にしわが深く刻まれる。
神道無念流は稽古によって心身を鍛えることを重視する流派であったが、練兵館の場合は、斎藤弥九郎の隠居所で行っていた練兵(軍事訓練)などで、より鍛錬を重視する傾向があった。
さらに神道無念流剣術の特徴は、「力の剣法」と言われる如く、竹刀稽古では略打(軽く打つこと)を許さず、したたかに「真を打つ」渾身の一撃のみを一本とした点にある。 そのため、他流よりも防具を牛革などで頑丈にしていた。
「うちにそんなやつはいない。顔を洗って出直してこいって言ってやったよ。だがな、このご時世だ。お上(幕府)の目は、攘夷派に対しては厳しくなるだろうよ」
練兵館道場の板壁に、大きく貼り出された道場訓にはこういう一文がある。
___わたくしの意趣、遺恨等に決して用うるべからず。
だが、世は変わりつつある。
尊王攘夷___。
米国をはじめ英国などの異国に対し、次々と港を開き、異人にこの日の本の地を踏ませた徳川幕府。帝のおわす神国を穢す行為を許せないのは、小五郎とて同じである。ゆえに「異人は即刻払うべし」と攘夷の狼煙のあげる必要がある。
だが幕府はいまだその腰をあげぬ。あげぬどころか攘夷派を煙たがり、ご政道を避難する不届きな輩と思っているようだ。
小五郎の胸騒ぎは、このことである。
彼は長州藩に属しており、藩邸もここから近い。それがあってか、ここには長州藩士が多く在籍している。それは長州藩が神道無念流を高く評価しているからだそうなのだが、長州藩士の中には攘夷派が何人かいるのである。
特に小五郎の身近に、である。
「ところで先生、例の人斬りの手口について町方はなんと?」
「切り口から、かなりの腕らしい。うちの者でないにしろ、関係ねぇ町民までめった斬りとは武士の風上にもおけん」
弥九郎はそういって、残りの茶を苦々しく啜ったのであった。
※※※
小暑に入り、暑さは一段と増した七月初旬。
この日、近藤勇は自身番に呼ばれていった。どうやら昨晩も人斬りが出たらしい。
「試衛館が疑わたようですね」
そういったのは、試衛館食客のひとりである山南敬助である。
彼の流派は北辰一刀流で、近藤勇に勝負を挑んだが惨敗して以来、試衛館食客になったという男である。
どうやら町方は、試衛館の誰かが人斬りだと思っているようで、歳三は憤った。
「冗談じゃねぇ! 町道場なら他にもあるじゃねぇか。なんで試衛館なんだよ!」
「わたしに吠えられても困ります」
「ふん、よく落ち着いていられるじゃねぇか? 山南さんよ。人斬り野郎と試衛館の人間が一緒にされているんだぜ?」
これに、真横で水飴を舐めていた総司が割り込んできた。
「土方さん、ただでさえ暑いのに部屋の気を熱くしないでもらえます? まだ一緒にされているとはわからないじゃありませんか」
「だからお前はガキだっていうんだよ。まったく町方はどこに目をつけてやがる」
「わたしとしても、近藤先生をお守りしたい。門弟の不始末を負わせたくありませんから」
敬助の言葉に、歳三は唇を噛み締めた。
「腹なんぞ切らせたりしねぇよ。あのひとはこれからもっと上にいく人だからな」
「もっと上?」
総司が瞠目し、首を傾げる。
「ああ、一介の道場主で終わるような人じゃねぇよ。近藤さんは」
これは勘だ。
豪放磊落で人たらしの勇だが、いつか大物になるような気がする歳三である。
「ではわたしはこれで」
そう言って腰を浮かせた敬助に、総司が声をかける。
「どちらかにお出かけですか? 山南さん」
「ええ、深川中町まで。そこにある道場で稽古を頼まれまして」
深川は大川を越えた東に位置するが、この市谷甲良屋敷町からはかなりある。この暑い中ご苦労なこったと心のなかで思いつつ、歳三は障子の外に出ていく敬助を横目で見送った。
「さすが、北辰一刀流ですね」
「けっ、北辰一刀流がなんぼのものか知らねぇが、興味ねぇな」
「土方さんのご趣味は、剣術より自画自賛の発句でしたねぇ」
知られたくない話題を持ち出され、歳三の怒気が再度込み上げた。
「総司! その口、縫われてぇか!?」
「うーん……、縫われるのは嫌だなぁ……。痛いし」
総司の態度に相手にしているのは馬鹿馬鹿しくなり、歳三は番茶の入った湯呑に手を伸ばした。
いまだ大手を振って、江戸市中を闊歩している人斬り。
そんな奴と同類とみなされては、我慢にもほどがあるというものだ。
だが手を出せば、それは人斬りと同じだ。それこそ、試衛館に累が及ぶ。
試行錯誤してみたものの、打開策は浮かばす、学のなさを痛感するだけであった。
勇が帰ってきたのは、暮れ六ツ近くであった。
勇がいうには殺されたのは浪人だったらしい。
「じゃ、斬り合いになっただろうよ」
盃を口に運んだ歳三だったが、次の勇の言葉にその手はぴたりと止まった。
「いや、そうならなかったようだ」
「どういうことだ?」
「その浪人、刀を抜いていないのだ」
「刀を抜いていない? まさか、抜く前にやられたっていうのか?」
「ああ。それも真正面からな」
侍が無抵抗のまま真正面から斬られる___、普通はありえない話である。少なくとも応戦しようと鯉口を切るが、その形跡もなかったらしい。
勇いわく、刀を抜こうとしたが、抜くよりも先に斬られたのだろうという。
「その下手人、ばけもんかなにかか?」
「ばけもんかわからんが、腕はかなりのものだろう。正体もいまだわかっておらん。トシ、こりゃあこの先も、やつはやるぞ」
勇の目はいつになく真剣だ。人斬りが許せないのは勇も同じらしい。
「近藤さん。あんたの目、今にも斬ろうって感じだぜ。やめな」
「トシ、でもな……」
「あんたになにがあったら、試衛館はどうなるんだ? これから四代目を継ごうというあんたを、人斬りになんぞさせられるかよ」
歳三の説得に、勇は肩を落とした。
「……トシ、俺たちは無力だな……」
「近藤さん、まだこれからだぜ。俺たちはまだ真の武士になっちゃいねぇ。上の者を見返してやるといったのは、あんただぜ」
「そうだったな……」
「しっかりしてくれよ。四代目」
勇の盃に酌をし、歳三はそういって勇に檄を飛ばした。
七月も末の二十七日___、江戸から離れた横浜の港近くで、異人が襲撃されという。異人を許さずという尊王攘夷の火は、対岸の火事ではなかった。
「どうなるんでしょうねぇ。この国は」
縁側で垂らした足をぶらつかせながら、総司がつぶやいた。
「俺にしたら、やつらも人斬りと変わらねぇな」
国を憂う気持ちはわからないではないが、それでなにが変わるというのか。
(俺なら、違うことに刀を使う)
空を見上げれば入道雲が大きく育っている。
もうすぐ雨になる。
江戸に漂う血腥い気を洗い流してくれればいいのだが___、今はそう思う歳三であった。




