第3話 六間堀幽霊騒動
九ツ半(午後一時)___、天頂に昇った陽の強い日差しは一段と暑く、やる気と体力を削いでいく。
試衛館の食客(居候)・原田左之助は、縁側の柱にもたれかかり酒を飲んでいた。
彼は以前、伊予松山藩の武家奉公人(中間)だったが出奔し、江戸に来た。国元にいれば、現在のように金に困ることもなく、浪人にもならずにすんだのだが。
蝉が忙しなく鳴く中、庭では同じく食客の永倉新八が木刀で素振りをしている。
「このクソ暑い中、素振りとはご苦労なこった」
「武士たるもの、日頃の鍛錬は必須」
酒ばかり飲んでいる左之助を戒めたかったのか、永倉新八は切っ先を向けてきた。
永倉新八は松前藩出身らしい。剣術好きが講じて脱藩したというから驚きである。
剣の流派は、神道無念流である。
左之助は渋面をつくると、片手を振った。
「はいはい、何度も聞いたぜ、その台詞。でもよぉ、腕を磨いたところでどうするんだ? どこぞに士官口でも見つけたか?」
「そのようなものはない」
「ならそのへんでやめとけ。腹が減るだけだぞ?」
新八は答えない。
左之助は剣術より、大阪で会得した種田流の長槍を得意としていた。
以前この庭で長槍を振り回し、塀に穴を開けて以来控えている。居候している手前、まずいと、左之助なりに反省しているのである。
郷里を離れて流れ着いた江戸。
左之助も新八も士官する気はなく、妙な縁で試衛館の食客となった。飯が食えて畳で寝られることにはありがたいが、いかんせん懐が厳しい。
お陰で懐だけは、寒々しいことこの上ない。
口入屋で紹介してもらい、掘割での荷下ろしで得た銭は、またたく間に酒に消えた。
そんな彼の視界に、小柄な人物が枝折り戸を開けて入ってくるのが見えた。
同じく食客の、藤堂平助である。
年は総司と変わらないだろう。この江戸育ちで、神田於玉ヶ池は北辰一刀流・玄武館の門弟となり、北辰一刀流目録を十代半ばで取得したらしい。
「よぉ、平助。このクソ暑い中散歩か?」
「そんなわけないじゃん。道場で一汗流してきたのさ」
左之助は眉間を押さえ、
「ここにもいたか、剣術馬鹿が……」
と唸った。確かに武士たるもの、剣の腕を磨くのは大事だが、今の世で武士が刀を抜くことはめったにない。武士もいまや、金なのである。
「左之助さんに言われたくないなぁ。ねぇ? 新八さん」
平助の言葉に、新八も同意する。
左之助は舌打ちをし、酒徳利を手にすると湯呑に注いだ。
「その道場で面白い話を聞いてきたんだけどさ」
「面白い話?」
話題を変えた平助に、素振りを終えた新八が汗をふきつつ、眉を寄せた。
「六間堀に首のない幽霊がでるんだってさ」
「ぶっ……!」
ちょうど湯呑の酒を口に入れた左之助は吹き出した。
「大丈夫かよ? 左之助さん」
「六間堀といえば、確か殺しがあったな」
咽る左之助を無視し、新八が視線を天に運ぶ。
ふたりともなんという話をし始めるんだと、左之助は思ったが、新八の話のほうは事実のようだ。
六間堀は本所・深川辺りにある堀で、大川(隅田川)と並行する形で位置している。
新八は殺しがあった話を、顔見知りの同門から聞いたという。
「あ、その話、俺も聞いたよ。遺骸には首がなかったとか……」
「お前らなぁ……!!」
堪らず叫んだ左之助だが、平助の目が据わった。
「左之助さん、幽霊が怖いんだ」
「ば、ばかやろう! こ、怖くねぇよ……!」
「ふう~ん」
新八まで疑わしそうな視線を寄越し、左之助は酒徳利ごと口に運んだのであった。
※※※
昼の陽は、容赦がない。
日本橋から神田へ抜ける往来は、白く乾いた土埃が照り返し、下駄の歯が踏むたびに細かな砂が舞い上がる。魚河岸から流れてきた潮の匂いに、醤油を煮る香り、胡麻油で揚げ物をする匂いが入り交じり、それらを熱い風が町じゅうへ運んでいた。
町家の軒先には簾が垂れ、打ち水をしたばかりの石畳だけが、ひととき涼しげな色を見せている。しかし、その水も間もなく陽に吸われ、跡形もなく乾いてしまう。
豆腐屋は桶を片づけ、鍛冶屋の槌音も昼餉どきだけは途絶えた。
人足たちは日陰を選んで腰をおろし、手拭いで首筋の汗をぬぐいながら、冷えた茶をすすっている。どこの店先でも、猫が腹を投げ出して眠り、犬でさえ舌を垂らして動こうとはしない。
ただ、風鈴だけは律儀であった。ときおり吹き抜ける南風に、ちりん、とひとつ鳴る。その澄んだ音が、炎のような暑さの中をすっと通り抜けると、人は思わず顔を上げる。
江戸の夏とは、こういうものらしい。
暑さは厳しいが、誰もそれに腹を立てはしない。打ち水をし、簾を掛け、冷やした西瓜を切り、夕刻になれば橋の上へ出て川風を待つ。季節には逆らわず、折り合いをつけて暮らす。それが江戸の町人というものだった。
空には、入道雲がゆっくりと育っている。
あの雲が夕刻まで残れば、ひと雨来るかもしれない。
一膳飯屋の軒先から空を見上げた歳三は、試衛館へ向かって一歩踏み出した。
(尊王攘夷か……)
歳三は一膳飯屋の客たちの会話を思い出す。
昨今は、先の開国に不満を持ったものが「異人は即刻払うべし」と叫んでいるらしい。
だが江戸庶民にとって怖いのは、辻斬りのようで、客たちの会話も半分以上はまたどこぞで人が斬られたという話であった。
歳三が試衛館に帰ってきたのは、未の八ツ(午後二時)であった。
近藤家の裏木戸から入り、庭に出たときだ。
「お帰りですか? 土方さん」
誰もいないと思っていなかった歳三は、半歩飛び退いて振り返った。
そこには塀を背にして、一人の男が立っていた。
「斎藤、いつからそこにいた!?」
「半刻前から」
斎藤と歳三が呼んだ男は、表情を変えることなく答えた。
彼は食客ではなかったが、試衛館に出入りを繰り返している剣客で、名を斎藤一という。この男、寡黙な上に綺麗に気配を消し去るため、こうして驚かされるのは歳三ではなかった。その斎藤一がこの日は珍しく多弁になった。
「六間堀に首なしの幽霊が出るだぁ!?」
思わず声が大きくなる歳三だが、一は相変わらずの無表情である。
「ええ。さきほどもそこで原田さんたちも話していましたよ」
「斎藤、その話を俺が信じると思うか? 総司の奴なら面白がるだろうが」
歳三は踵を返したが、
「ええ。わたしも信じていません。ですが、その幽霊が人斬りに遭って死んだ者なら、どうです?」
「なんだと……?」
思わず再び振り向いた歳三である。
「下手人は間違いなく侍でしょう。首を斬り落とすなど、よほど刀が丈夫か、あるいはかなりの腕か……」
「斎藤、だからって俺たちになにもできねぇよ」
「はたして、このままでいいんでしょうか?」
「なにがいいたい……?」
「あなたのいう通り、我々は無力です。ですが、このまま流されていいのでしょうか? 剣の腕を磨くたびに、わたしはそう思うんです。そしてかの人斬りに言ってやりたいんですよ。剣は、闇雲に人を斬るためのものではない、と」
斎藤一は、言うだけ言うと「では」と一礼して、歳三がくぐってきた裏木戸から出ていった。
歳三ひとりになった庭に、風が吹き抜ける。
斎藤一は表情を変えず感情も外に出さない男だが、最後の言葉だけは違った。明らかに憤慨していた。
確かにこのままなにもせず、時の流れに身を任せつづけていいのか。だがそれでは、真の武士になれないのではないか。
腰の刀は重みを伝えてくるだけで、なにも語らない。
それはいつなのか、とは。
「___いつまでそこに立っているんです? 干からびますよ」
縁側の方角からかけられる声に、歳三は渋面になる。
そこには、総司がにこにこと笑いながら立っていた。
「なにを笑っていやがる?」
「わたしはてっきり、今宵はあちらのほうだと思っていたんですけどねぇ……」
珍しく遠出した歳三に対し、総司の軽口は今日も冴えていた。
「ガキのくせに、妙な勘繰りをするんじゃねぇ」
「すぐに子ども扱いをする。わたしだって、あそこがどういうところか知っていますよ」
総司のいう“あちら”とは、吉原遊廓のことだろう。
「一度も行ってねぇよ」
事実である。女との経験はあるが、まだ遊女との縁はなかった。
「隠すことないと思いますよ。大先生は昔、行かれたことがあるそうですから」
「あのな……」
歳三が日本橋辺りまで足を伸ばしたのは、知り合いを訪ねたためである。
そこは商家で、以前は府中宿で小さな飯屋を商っていたのだが、歳三より遅れること数カ月後に、江戸に越してきたという。
主の勘兵は上方生まれで、多摩に移っても訛りがなかなか抜けないと笑う。
「でも驚きましたで。土方はんが、お侍になりはったとは。以前は薬売りでしたさかい」
「俺も驚いているよ。親父さんがこの江戸に来ているとはな」
歳三は江戸に来る以前は、実家の手伝いの一つ、薬の行商をしていた。特に売り込み先は、多摩に散る他流の剣術道場なのだが。
「やはり江戸はええですな。活気が違いますよって。お陰で繁盛させてもろうてます」
「だったら、いろんな話を聞くんじゃねぇのか?」
「と、いいますと?」
「妙な侍がうろついているとか、まぁ、いろいろだ」
「ご浪人さんなら、ここにもお見えになりますが……」
勘兵の口が、ふいに重くなった。
「なんだ?」
「いえ、大きな声では……。幕府の腰抜けとかなんとか……、物騒な話は勘弁でっせ」
会話を耳にしたらしい勘兵は、そう言って眉尻を下げた。
庭に目をやれば、孟宗竹が試衛館に通じる枝折り戸近くに立てかけてあるのが視界に入った。
(あのとき植えた竹も、青々と茂っているだろうよ)
歳三が武士になる夢を抱き、願いをかけて実家に植えた矢竹。
あれから十年、目の前の孟宗竹のように切られていなければ、青々と茂り、夏の日差しにも負けず、己の身の丈ぐらいには成長していることだろう。
孟宗竹を持ち込んだのは総司である。
七夕飾りに使うらしい。
月は七月(新暦八月)、七日は七夕である。




