第2話 刀は武士の魂
江戸の夜明けは、いつも人の営みより半刻ほど早い。
東の空が白みはじめると、庭の草木は夜露をたっぷりと含み、百日紅の枝先からは雫が音もなく落ちた。朝顔は垣にからみつき、藍や薄紫の花をいくつも開いている。
豆腐売りの売り声と同時に目が覚めた歳三だが、稽古が始まるまでまだ刻がたっぷりある。
歳三は顔を洗うため、草履に足を入れて井戸に向かった。
井戸で汲んだ水を手桶へ移す音が、しん、と静まった朝にひときわ冴えて聞こえた。
庭を渡る風には青葉の匂いがあった。竹がさらさらと葉を鳴らし、柿の葉がわずかに揺れる。その風も、日の出とともにどこかへ逃げてしまうのを、この季節になると身にしみて知る。
蝉が一匹、ためらうように鳴き、やがて二匹、三匹と声が重なっていく。
空はもう青くなりはじめていた。
歳三は稽古着に着替えて道場に向かうと、総司が素振りをしていた。
「お早いですね。土方さん」
歳三に気づいた総司の口元から笑みがこぼれる。
「たまたま、目が覚めちまったのさ」
「で、稽古をしようと? 感心感心」
子どもを相手にする言い方に、歳三は怒気が込み上げたが堪えて木刀を構えた。
「お前に褒められても嬉しくねぇよ」
天然理心流の木刀は、他流に比べ重く太い。初めて手にするものは振り下ろすことに苦労するだろう。だがこの重さが足腰を強くするのである。
真剣を手にしてみればわかるが、刀は天然理心流の木刀ほど重くないものの、ずっしりと重みを伝えてくる。刀でこの重みである。さらに脇差しを加えて腰に差せば重みは増す。
今でも初めて真剣を手にしたときの驚きは、歳三の記憶に残っている。
歳三がまだ、日野の地で家業の一つを手伝いつつ、剣術を習いに佐藤道場に通っていた頃である。
歳三の義兄・佐藤彦五郎は、日野宿を焼く大火にみまわれた際、盗人によって母親が眼前で斬殺されるのを見て武芸の必要性を感じ、嘉永三年に天然理心流三代目宗家・近藤周助の門人となったという。自邸東側の一角に日野宿では初となる出稽古用の道場を設け、これが佐藤道場である。
いつもの通り佐藤道場に来ていた歳三は、彦五郎に蔵に案内され、一振りの刀を渡された。持ってみろというのである。
「どうだ、初めて刀を持った感想は? 歳三」
「侍は、こんな重いものを腰に差しているのか?」
手渡れた刀はどこにでもある普通の刀だというが、まだ十六の、真剣とは縁遠い農家の末っ子の歳三には感動よりも驚きでしかなかった。
「俺は侍じゃねぇが、小島どのが言っていた。刀は武士の魂なんだってな」
彦五郎のいう小島とは、多摩・小野路村(現在の東京都町田市小野路町)の名主・小島鹿之助のことで、歳三の親戚にあたる。
「武士の魂?」
「侍がなぜ刀を大小二本差しているのか、その理由は武士の身分証明だけじゃねぇ。武士としての誇りと覚悟だ」
武士は刀を自身の一部としているという。脇差しは大刀を玄関で預けた際の室内での急な応戦、切腹の際の介錯や自決の手段として欠かせないものだという。
「刀は人の命をたやすく奪っちまう。容易く人の命を奪う凶器であることをその重みで伝えているんだ。抜刀した瞬間、そこになにがあると思う? 歳三」
彦五郎の問いに、歳三はゆっくりと顔を上げた。
「死……か」
「そうだ。斬り合いになるだろうな。正当な理由がなく人を斬れば、腹を切らなきゃならねぇ。それが武士としての責任の取り方ってやつだ。その重みはな、いついかなる時も、武士として恥じぬ振る舞いをせよと伝えているのさ。その覚悟、お前ぇにあるか? 武士になるとはそういうこった」
あれから数年、今や歳三は刀を差す身になった。
だが、今の己には納得していない。
「武士になってなにがしてぇ? トシよ」
長兄から問われたその答えは、まだ出ていない。
農家の末っ子だった男が、そう簡単に武士になれるわけがない。生まれや血筋は変えられないとしても、武士になるその答えがどこかにある気がする。だから、諦めない。歳三は木刀を振り続けた。
「ところで例の人斬り、昨晩も出たそうですよ」
総司が隣で木刀を振る。
「昨晩の呼び子笛はそれでか」
歳三が床に入ってまもなく、捕り方の呼び子笛が聞こえてきたのだ。捕り物があったのだろうと察したが、まさか例の人斬りが現れたとは。
「やはり気になりますねぇ、下手人の腕」
その人斬りは、一刀両断のもとに相手を仕留めるらしい。
ゆえに遺骸の惨状は自身番の番人が腰を抜かすほど酷いらしい。
この江戸には、武士の魂を自ら穢すやつがいる。歳三にいわせれば、武士の皮を被った鬼畜である。
総司の顔を見ると、目つきが変わっていた。歳三は、確認のため聞いてみた。
「まさか、こっちから会いに行こうっていうんじゃねぇだろうな? 総司」
「いけませんか?」
やっぱりな、と歳三は思った。
「あのな、相手は人斬りだぜ? 野郎は人を斬ることに、なんとも思っちゃいねぇだろうよ」
「わたしはやられたりしませんよ、土方さん」
木刀を振り下ろし、総司は言う。
「そういう問題じゃねぇ。俺より試衛館に長くいるお前がここの掟を知らないわけがねぇだろ」
「そういえばありましたね。私闘せざることって一文が」
剣は喧嘩のために使うな___、というのが試衛館代々の掟だと歳三は聞いている。
たとえ相手が非道な者でも、役人でもなんでもない者が手をだすことは破門扱いになってしまうのだ。
歳三は軽く舌打ちをすると稽古場の隅に座り、着用していた防具の紐を解いていた。
「___凄いなぁ、沖田さんは」
自分に話しかられていると思わなかった歳三は、反応に遅れた。
振り仰ぐと、胴丸を着用し、木刀を手にした青年が立っていた。
(この男、誰だったか……)
門弟のひとりには違わないだろうが、歳三はこの青年の名前が思い出せない。
青年の視線は歳三に話しかけておきながら一度も視線を向けることはなく、総司に向けられたままだ。
「立ち合ってみたらいい。総司は相手してくれるぜ」
「いえ、今はやめておきます。でもわたしなら___」
青年はそこまでいいかけ、奥に消えてしまった。はたして彼は、何をいいたかったのか。
「おかしな野郎だ」
外に出ると、恨めしいまでの日差しに当てられた。
今日も、熱くなりそうである。




