第9話 黒染めの日本橋川
安政六年___、この年、長州(現・山口県)から江戸に檻送されてきた男がいた。檻送とは、罪人、囚人などをに入れて送ることをいう。
檻送されてきた男の名は、吉田松陰という。
この日、神道無念流・練兵館門弟にして長州藩士・高杉晋作は、道場での稽古を終えると、九段坂に近い軍鶏鍋屋の暖簾を潜った。
「おいでなせぇまし」
軍鶏鍋屋の亭主が奥から出てくる。
「来ているか?」
刻限は未の刻___、客はまだ少ない。小上がりの畳で、二三人の客が鍋を突いているだけである。今や常連となりつつある晋作に、亭主も心得たもので、丸まった背を更に丸くして答えた。
「へい。二階のほうに」
亭主は店が練兵館と長州藩上屋敷が近いのかわからないが、長州藩士と聞くと店の二階を使ってもらっているらしい。一般の客と一緒にさせては申し訳ないという配慮なのか、晋作たちのような者たちにとっては好都合であった。
「___高杉」
階段を上がっていくと、晋作を待っていた男が腰を浮かせた。この男の名を、久坂玄瑞という。彼もまた、長州藩士である。
「状況は深刻だ」
晋作は腕を組んだ。
「おのれ……っ。掃部頭め」
激昂する玄瑞を、晋作は制した。
「落ち着け、久坂」
「落ち着いていられるか。なんとしても、松蔭先生をお救いせねば」
師___、吉田松陰。
晋作も久坂玄瑞も、松蔭が長州・萩城下に開設した松下村塾の門下生であった。
その松蔭が現在、伝馬町牢屋敷に捕らわれているのである。
この頃の幕府は、反幕府派を徹底的に取り締まり、幕政から外された者もいるという。(安政の大獄)
これを押し進めていたのが掃部頭こと、大老・井伊直弼である。
昨年の安政五年、幕府は朝廷に無勅許で、米国との日米修好通商条約を締結した。
無勅許の条約締結決行は大老本人ではなかったらしいが、一部の幕臣や大名が幕府を非難するに至ったのは、これがきっかけらしい。
そもそも帝(孝明天皇)は、大の異人嫌いという。
帝が座す京まで異人に踏み込まれては、晋作とて我慢ならぬ。
今の幕府は、異国に対し弱腰である。
長州藩は未だ攘夷に動かず静観し続け、松蔭を二度も野山獄(長州藩によって萩に設けられた獄屋敷)に幽閉している。
今回の江戸檻送は、大老の政策の巻き添えになったと晋作と玄瑞は見ている。
特に玄瑞は、松蔭の義弟である。ただ些か、血の気が多すぎるのだが。
「策はあるのか? 牢屋敷には迂闊に近づけんぞ。殿(長州藩十三代藩主・毛利敬親)が危機に晒される」
松蔭救出は藩命ではない。これが幕府に目を付けられれば、長州藩自体が危険視される。当然、敬親公対し幕府は、厳しく接してくるだろう。
「口で言ってもわからんのだ! 我が長州藩も、幕府も」
玄瑞は悔しげに、拳を壁に叩きつけた。
外で、蝉が鳴いている。
自分たち攘夷派に対し、早く攘夷を決行しろといわれているかのような気がする晋作であった。
※※※
日本橋界隈は武家屋敷が立ち並ぶ山手に対して、下町を代表する地域だという。江戸でもっとも賑わうのはここかも知れない。
老舗の商店が数多く軒を連ねており、薬問屋が多く軒を連ねていた。
日本橋は江戸の入り口だが、諸国へ向かうのも日本橋を渡る。
南へ向かえば江戸・日本橋から小田原、駿府、浜松、宮、桑名、草津を経て、京都・三条大橋までの東海道、北へ向かえば日本橋から、千住、宇都宮、今市を経て、日光までの日光街道。さらに日光街道を経て、宇都宮より陸奥・白河までの奥州街道、北西へ向かえば日本橋から高崎、下諏訪、木曽路の妻籠を経て、草津までの中仙道、そして西へ向かえば、内藤新宿、八王子、甲府を経て、下諏訪で中山道に合流する甲州街道に至る。
そんな日本橋も、夜ともなると闇の中となる。
道に人影はなく、店の軒下の行燈もいつしか一つ、また一つと消え、残った明かりが道の上へ細くこぼれている。
「ねぇ、土方さん。もっと遅く歩きません?」
掘割を歩く歳三の背後に、総司が訴えてくる。
「うるせぇ。黙って歩け。だからお前と出歩くは嫌なんだよ」
「たくあん飯を、二杯もおかわりしたのはどこの誰ですかぁ」
この日は小野路村まで出稽古へ出かけたのだが、夕餉にまで誘われた。歳三は断ろうとしたが、総司がこれに応じた。またも総司に袴の端を引っ張られ、歳三はやむを得ず馳走になった。そこで出されたのが、たくわん飯だったのである。
単に白飯にたくあんを刻んだものが乗っているだけなのだが、歳三はたくあんが好物だった。要は、たくあんの誘惑に負けたのだが。
夜の日本橋川は、昼間とはまるで違って見える。
両側の黒い土蔵や家々が水面へ身を乗り出すようにして並んでいるが、その軒先から漏れる明かりも今夜は一つもない。
休むことなく動いているのは川の水だけで、暗い流れが川底を這っている。
ところどころに浮かぶ木の葉が水の流れに押されて岸へ寄ったかと思うと、また離れてゆく。舟宿の戸口も固く閉ざされ、縄をかけられた小舟が一艘、岸につながれているばかりである。
そんな日本橋川に架かる江戸橋を渡ると、本材木町に入る。
本材木町は、江戸橋南詰から白魚橋北詰まで続く町である。江戸城下の建設資材を扱う材木商が道三河岸から移り、楓川沿いに店を構えたいう。
今朝___、総司は妙なことを言った。
嫌な予感がする、と。
総司のこうした勘は恐ろしいほど当たるため、歳三の足が速いのはそのせいかも知れない。ただでさえ昨今の江戸の町は人斬りが現れ、物騒である。
辻を曲がったところで、歳三は足を止めて舌打ちをした。
できれば遭遇したくない相手が、道に立っていたからだ。
「総司。お前の勘、当たったようだぜ。人斬り野郎のお出ましだ」
「またですかぁ? どうしてこうも遭遇するんでしょうねぇ」
「お前が引き寄せているんじゃねぇのか?」
「わたしじゃなく、土方さんでは?」
人斬りを前にしているとは思えぬ総司の口調だが、右手の親指は刀の鍔に添えられ、鯉口を切る体制に入っていた。
男が鯉口を切る音に、先ほどまで聞こえていた水音が消え、風も止んだ。
ようやく雲間から顔を出した月が、男を照らす。
人斬りは四人もいた。
天狗面と狐面をつけ、以前出会った男たちではないようだ。
「あの狐面、王子稲荷のものですよ。土方さん」
王子稲荷は武州豊島・王子村(現・東京都北区中部)にある稲荷神社のことらしい。総司は以前、王子稲荷の祭礼・狐の行列見物に行ったことがあるという。
「ふざけた野郎だ……」
歳三の言葉は総司に対しではない。その狐面を被った人斬りにである。
天狗面の男たちが先に動いた。
白刃がきらめき、火花が散る。
「お稲荷さまに変わって世直しですか? 罰が当たりますよ」
男の剣を受けた総司だが、その眼はいつもの明るい彼ではなかった。
だが、総司は気づいていなかった。狐面の男がその背後に立とうとしていたのを。
真剣を使った実戦では、たとえ複数による乱戦でも、剣を振るう場合は対面するのが当時の作法だという。だが、背中を向けている相手を斬りつけるのは卑怯な振る舞いとされる。
「総司!!」
ついこの数日前に総司と交わした会話が、歳三の脳裏に浮かぶ。
「罰が当たりますよ」
「罰なんぞ、クソくらえだ」
試衛館裏の稲荷の祠。
これは、その罰なのだろうか。
歳三の問いに、月も答えてはくれなかった。




