第10話 腕は天然理心流、夢は我流
___土方さん。
そう呼ばれて、歳三は目を開けた。
視界に入ったのは、澄み切った青空である。吹き抜ける風が土手の草を撫でていく。
歳三にとって、見慣れた光景だった。
甲州街道を跨ぐ多摩川、その川岸で一服している渡し船の船頭、歳三はその多摩川をこれまで何度も越えている。
空には雲が少なく、焼けつくような陽が川面へ落ちている。
浅瀬で小石を撫でながら水が流れ、川原にはところどころに青い草が茂っている。
多摩川は、この日も何も知らぬ顔で流れていた。
江戸へ向かう者も、江戸を離れる者も、この川を渡ってゆく。
商人も、旅人も、武士も、百姓も。
それぞれに行く先があり、それぞれに事情がある。
けれど川は、人の事情などにはかかわりがない。ただ、夏の陽を受けて光りながら、とうとうと流れている。
「寝ちまったか……」
起き上がった歳三は、嘆息混じりに呟いた。
どうやら故郷を前に、眠ってしまったらしい。
この多摩川を渡れば、その故郷・日野である。
渡し場に他の客はおらず、船頭は暇そうである。
「事情は同じようだな」
商売は、客がいなければ稼ぎにならない。
実家の手伝いで始めた薬売りの仕事は売れるときは売れるが、そう毎日売れはしない。担いでいる薬箱は売れ残りで重く、体力を剣術で使えば疲労もたまろうというものである。
剣術道場の道草は、この日が初めてではない。
骨折に打ち身、捻挫に効く石田散薬は、こうした場がいい売り込み先となる。それだけなら歳三に仕事を任せた兄たちはなにもいわないが、木刀を持ち歩くのが気に入らないらしい。それはそうだ。歳三の目的は、腕を磨くためなのだから。
義兄・佐藤彦五郎の道場で磨いている剣、天然理心流の腕はまだまだである。
この多摩は幕府直轄領であるにも関わらず、悪党もいる。
そんな悪党から財と身を守るため、剣術を学ぶのは珍しいことではない。
そういう目的なら兄たちは、とやかくいわなかったであろう。
だが___。
「そろそろ、帰らねぇとな」
油を売っていると、また兄たちに何をいわれることやら。
腰を上げた歳三に、船頭も動き出す。
そのとき、誰かが歳三の着物の端を掴んだ。
「誰だ? お前」
振り向いた先にいたのは、まだ十そこそこの少年だった。
その少年を見たとき歳三は妙な感じがした。
背丈は年頃の者としてはさほど高くなく、痩せている。
髪は歳三と同じように後頭部の高い位置で束ねただけで、袴に刀を差している。
どうやら武士の子らしいが、身分は高くは見えない。にこにこと笑っているが、どこか挑戦的にも見えた。
「帰ってこれなくなるよ」
「俺の家は、向こう岸なんだよ」
少年は歳三の着物の端を掴んだまま、言った。
「諦めるの?」
「なに……」
その言葉を歳三は以前、聞いたことがあった。
___諦めるわけ? その程度なの? 歳三さんは。
生意気な目で、その人物は言った。
佐藤道場に、江戸から出稽古にやってきたという小柄な少年___。
その少年に、歳三はあっさりと木刀を叩き落とされた。
「お前……、名は?」
少年の顔が、その相手と重なる。
「___宗次郎」
その瞬間、周りの景色は真っ黒に塗りつぶされ、多摩川だけがそこにあった。
いや、多摩川ではない。
それがなんなのかわかったとき、歳三は可笑しくなった。
「まさか、三途の川を見るとは思いもしなかったぜ」
死人は、三途の川を渡ってあの世へ行くのだという。だが自分は、死んではいない。危うく行きかけたが。
そう、川を渡れば諦めたことなる。悔いを残したまま向こうへは行けない。
自分が帰る所は、こんな幻の世界ではない。騒がしい同居人がいる、江戸市谷の試衛館。
なぜ死にかけたかわからかったが、自分はまだ終われない。
歳三は川へ背を向けた。
___まだ叶いもしねぇ夢を追っているのか、お前ぇは。
背後で兄の声がした。
「やってみなきゃわからねぇじゃねぇか。俺は我流で武士になる。誰の手本もいらねぇ。俺は俺がこうと決めた武士になる。そうなったら、鼻で笑ったやつがどんな顔をするか楽しみだぜ。戦国の世ならともかく、この世で農民上がりが武士になる。なっていけねぇ法はねぇぜ。こんな楽しいこと、捨てられるかよ」
歳三の言葉に、兄からの答えはない。引き留めようとする手もない。
それでいい。
我流の夢は叶えてこそ意味がある。
歳三はそう思っている。
さぁ、帰るんだ。
あいつらのいる所へ。試衛館へ。
※※※
「お目覚めですか? 土方さん」」
歳三が目を覚ましたとき、部屋には総司がいた。
見慣れた天井のしみにホッとするも、まだ状況ができない歳三であった。
「なにがあった?」
体を起こしかけた歳三だが、左肩に激痛が走り抜け呻く。
「無理はしないほうが良いですよ。斬られたので」
総司によれば、歳三は三日も眠っていたらしい。
その前の人斬りたちとの対峙での歳三の最後の記憶は、総司の背後から斬りつけようとしていた狐面の男だった。
どうやら歳三は間に飛び込んだのはいいものの、その男の刀が歳三の左肩を掠めたらしい。
「___それでそのあとはどうなったんだ?」
「夜鳴き蕎麦屋が通りかかりましてね、彼らは一目散に逃げ出しましたよ。でも、土方さん? 近藤先生にはバレちゃいましたよ? 二度も人斬りと対峙したことが」
「総司」
「なんです?」
障子の外に出て行きかけた総司が振り返る。
「礼をいうぜ」
「はい?」
三途の川を渡りかけた歳三を引き止めた宗次郎という少年___。
その名は総司がかつて名乗っていた名だった。
多摩でがむしゃらに木刀を振っていた頃、歳三の木刀をあっさり叩き落としたのは、この総司である。
いつしか歳三を呼ぶ「歳三さん」から「土方さん」になっていたが、総司がいなければ天狗になっていた当時のままで、とうに三途の川を渡っていた。
やはり、こいつには敵わない。
剣の腕はまだまだだと、歳三は改めて実感する。
「土方さんから礼をいわれるなんて、気味悪いなぁ」
総司はいつものように軽口をいい、部屋を出ていく。
俺は諦めねぇ。剣術も、夢も。
手本なき武士の道___。
我流で追うその夢が、形になる日はまだ遠いだろう。
それでも諦めない。
俺はこの世に帰ってきた。道はまだつながっている。
開いた障子から覗く青く澄んだ空を見上げながら、歳三は夢実現への決意を新たにしたのであった。




