第19話 源さんの胡瓜の古漬け
試衛館――、正確には近藤周助宅の朝餉の膳には、必ず乗るものがある。
井上源三郎が内弟子となり、厨での賄いを始めた頃から漬けている胡瓜の古漬けである。朝鳴きの鶏より早起きの源三郎は、起きるとまず蔵から古漬けの入った瓶を持ち出すのが日課だった。
だが、この日の膳に古漬けは乗らなかった。
「くぅ~っ、俺の朝一番の楽しみが……っ」
古漬けが大好物だという原田左之助が、泣いた。
「大袈裟なやつだ」
隣にいた永倉新八がいつものように呆れ、源三郎が眉尻を下げ、申し訳ないという表情で近藤勇の横にいた。
「あんたのせいじゃねぇよ、源さん。悪いのは瓶をひっくり返して逃げた鼠だ」
歳三としては古漬けの代わりに膳の主役となった、たくわんに満足していた。
今朝――、厠から出た歳三は、蔵から出てきた源三郎を見かけた。
近藤家の蔵は大きいものではなく、入っているのは漬物の樽、周助が集めたという古道具、稽古用の防具などだ。しかも錠前は壊れたまま放置され、不用心極まりない蔵である。
人が出入り自由なら鼠も同じで、ありがたくない土産を残しては去って行く。
その鼠が、昨晩も出たらしい。
「ああ、そうとも。また漬ければいいだけの話だ」
勇は相変わらず、楽観的だった。
「そうなんですが……、あの瓶が割れまして……」
「あの瓶……?」
いつもなら口籠もらない源三郎が、珍しく言いにくそうにしていた。勇の顔を窺っては、言葉を探している感じである。
「あ、思い出した」
総司が先に思い出し、続いて歳三も思い出した。
確かに、源三郎が言い淀む筈だった。
その瓶を買ったのは勇なのだが、当人はそのことをすっかり忘れている。問題は、購入した際のきっかけである。
「なんだよ、総司。あ、って」
藤堂平助が汁椀から顔をあげ、首を傾げた。
「少々、いわくつきの瓶なんですよ」
「ただの瓶にしか、俺には見えなかったが? なぁ? トシ」
勇に話を寄越され、歳三は別のことに呆れていた。
(そのただの瓶を三両も出して買ったのは、あんたなんだよ。近藤さん)
事情を知る総司と源三郎も、歳三と同じことを喉まで出かかっていることだろう。
すんだ話をきれいに忘れるという、ある意味羨ましい勇の性格なのだが。
空はすっかり、秋を纏っていた。
朝の名残をわずかに含んだ青が、頭上から遠いところまで澄み渡っている。夏の空にあった重たさはなく、どこまでも抜けてゆくような青さである。
白い雲が、ひとつ浮かんでいた。
大きく盛り上がることもなく、細長くほどけながら、風に押されてゆっくりと流れている。
ある一人の訪問者が勇を訪ねてきたのは、古漬け騒動から三日後のことだった。
※※※
「いつぞやはご贔屓にしていただき、ありがたく存じます」
人の良さそうな笑みを浮かべ、その男は頭を下げたという。
辰の刻(午前八時)――、すでに朝稽古が終わり、一段落したときのことである。風呂敷包みを背負った男が勇を訪ねてきたと、総司がいった。
「何者だ? そいつ」
稽古場にて、防具の紐を解いていた歳三は顔を上げた。
「以前に来たあの、古道具屋ですよ」
「また、来たのか!?」
その古道具屋が最初にやってきたのは、二ヶ月前だった。
別に来ることは問題はないのだが、困る事情が当の勇本人ではなく、歳三にあった。
「追い返すわけにはいかないでしょう。害があれば違いますが」
「で、近藤さんはまた、あれか?」
「たぶん、上機嫌になっているでしょうねぇ」
歳三がこの古道具屋を歓迎しない理由を知る総司は、苦笑していた。
「また妙なものに、手を出さねぇといいんだが」
「近藤先生は、褒め言葉には弱いですからねぇ」
問題は、それなのである。
その勇といえば――。
「いやいや、滅相もない。某など」
歳三の心配をよそに、勇が豪快に笑う声が聞こえてくる。
いつもは歳三と同じ多摩訛りの勇が侍言葉になるのは、決まって誰かに担がれたか、褒められたかで、やはりこのときも古道具屋の饒舌に乗らされているようだ。
「今度はなにを買うと思います? 土方さん」
総司が聞き耳を立てつつ、面白げに笑っている。
「お前な、そうやって笑っていられるが、このままだと間違いなく天井に穴が開くぜ」
「そういえば、雨漏りの修繕、まだでしたっけ」
天井だけではない。壊れかけた裏木戸、崩れかけた土塀、今にも落ちそうな一部の床板、試衛館も近藤家も直すところはたくさんある。
歳三はなにも、買うなとはいっていない。よく確かめもせずに買うなと、いいたいのである。
二ヶ月前――、神田鍋町(現・千代田区鍛冶町二丁目)に店があるという古道具屋『たぬき堂』の主が、やってきた。
もともとこの店は、勇の養父にして試衛館現道場主・近藤周助が通っていたらしく、掘り出し物もあるらしい。
そんな養父の影響を受けたか、床の間の掛け軸から鉄瓶など、この『たぬき堂』で購入していた。この店主の訪問が、のちの騒動のきっかけとなるとは、このとき誰も思いもしなかったであろう。
この客が帰り、勇はひとつの瓶を抱えて嬉しげにいった。
「名のある窯で焼かれたものだそうだ」
その場にいた歳三と総司は、しばし沈黙した。
歳三がどう思ったかといえば――、
(俺の実家の納屋で、いくつか転がっているやつじゃねぇか……)
聞けば三両もしたという。
勇はそれを、床の間に飾った。
しばらくして、近藤周助を訪ねてきた茶飲みの老人が床の間をみるや――、
「漬物用の瓶を、なにゆえ床の間に?」
勇はなんともいえない顔になり、総司は必死に笑いを堪え、歳三は歳三で軽い頭痛に悩まされる羽目になった。
それが、鼠によって割られた古漬けの瓶なのである。
勇はそんなことがあったことなど忘れ、またも同じ相手の話に乗っている。
「総司、いまから近藤さんの部屋に行って、近藤さんを止めてこい」
歳三は総司に指示するが、総司はもう笑い始めていた。
「え、嫌ですよ。また面白くなるのに」
「面白がるんじゃねぇ。たぶん、近藤さんのあの性格は直らねぇぜ。人がいいのはいいことだが、場合によりけりだ」
豪放磊落で人たらしな近藤勇。
その反面、人に乗せられやすい。
そんな勇に惹かれ、歳三は江戸に来た。
ともに真の武士になろうと誓った男は、過去の失敗など引きずらないのだろう。
数日後、朝餉の膳に胡瓜の古漬けが乗った。
源三郎が漬ける胡瓜の古漬けは、独特の味付けがあるらしい。
半士半農の井上家では、胡瓜の古漬けをよく漬けていたという。
そんな源三郎が以前より大きめの瓶を抱えて、蔵へ向かっていく。
勇が割れた瓶の代わりに買ったものだと、源三郎はいう。
「それは、よかったな。源さん」
歳三はそう答えて、源三郎の背を見送った。
試衛館のなかは、外の騒動に比べて平和で長閑である。
このままでいたいと思う反面、ここから巣立つ日はやってくるだろう。
空はこの日も高く、刷毛で掃いたような雲が空の青を薄くしていた。




