第18話 兆候~江戸に吹く攘夷という名の風
九月(新暦十月)になった。
夏の盛りが過ぎ、暑さがようやく江戸の町から抜けてゆく頃である。
朝夕の風には、もう冷たさがあった。
夏のころの入道雲は姿を消し、淡い青空のところどころに、薄い雲が刷毛で掃いたように流れている。
日本橋の往来は、相変わらず賑やかだった。
日本橋に立つと、江戸に来たのだと実感させられる。ここは江戸から諸国へ向かう起点であり、諸国から江戸に着く到達点である。
佐藤道場へ出稽古に行っていた歳三は、何度か宿場女郎に袖を引かれかけるも、足早に甲州街道を進み、日本橋に立った。
「お早いお帰りで」
市谷橋を渡る手前で、歳三に声をかけてきた青年がいた。
試衛館に何度か出入りしている、心形刀流宗家・練武館の伊庭八郎である。
“伊庭の小天狗”、“伊庭の麒麟児”と噂されているとあって剣術の腕はいいそうだが、口の方も達者だった。
妙ににやけた表情の伊庭八郎に、歳三は呆れた。
「なんて面してやがる」
「どこぞの女と添い寝してくるんじゃないかと思っていたもんですからねぇ」
「あのな、俺は遊びで行っていたんじゃねぇんだ」
この青年、年は総司と変わらないくせに、色恋の話となると口が回る。
確かに甲州街道の宿場には給仕をしつつ、客と寝る宿場女郎がいるが、歳三の趣味ではなかった。といって、吉原にいくほど金もない。女遊びはとうに覚えたが、現在の歳三には武士になる夢以外、女は二の次だったのである。
「怖いねぇ……。冗談だよ」
伊庭八郎はそういって、眉尻を下げた。
「で、何の用だ?」
「飯屋にいたんだけどさ。物騒な話を聞いちゃってね」
彼曰く、ふたりの侍が伊庭の斜めに座っていたという。
家紋入りの羽織を揃って着ており、飯屋には場違いなふたりに見えたらしい。
「人を斬ろうって話でもしてたか」
「さすがは土方さんだ。当たりだよ」
当てずっぽうで言った言葉を肯定され、歳三は伊庭を振り返った。
「先の御老中、松平伊賀守さまを斬ろうっていうんだ。あとは、よく聞こえなかったが」
「伊庭、なにをいっているかわかってるか? 幕閣の人間が誰かに聞かれるなんざ……」
「あり得ない話じゃないぜ。一部の過激な攘夷派にとってはな」
松平伊賀守――、正しくは松平忠固といい、安政四年まで老中だった男だという。
同年、この国は米国と日米修好条約を締結したという。
この締結を決断したのが、時の老中・松平伊賀守忠固だったらしい。問題は、伊賀守が朝廷の勅許を得ることなく、条約締結に至ったことらしい。
歳三には幕府の事情などさっぱりだが、人斬り騒動が下火になりつつあるこの江戸で、今度は幕閣の人間が襲われるかもしれぬという伊庭の話に、やりきれないものが胸に立ちこめた。
この日も江戸の町は、見た目にはいつもと変わらない。
表通りを駕籠がゆく。商家の軒先では番頭が帳面を繰り、奉公人が箒を使い店先を掃くなど、行き交う人々の表情は様々である。
誰もが、昨日と同じ今日を生きているように見えた。
だが開国によって、一部の人間の心がふたつに割れたようだ。
御公儀に従い、開国を受け入れるか。
朝廷を尊び、異国を退けるか。
あるとき総司が「土方さんは、どっちなんです?」と聞いてきた。
歳三は尊皇であるが、攘夷だの開国だの考えたことはなかった。
幕府が攘夷に腰を上げ、再び鎖国しない限り、武力行使に出てくる過激攘夷派は止められないだろうと伊庭はいう。
「いったい、どうなるんだろうねぇ。この国は」
伊庭八郎がそういって、踵を返す。
(伊庭の野郎……、余計なことをいいやがって)
物騒な話を吹き込まれ、もやもやする羽目になった歳三の心。
見上げた空は、素知らぬ顔で青く澄んでいた。
※※※
この日この男は、九段坂近くの飯屋に向かっていた。
通りから少し引っ込んだところにその店はあり、間口は三間にも足りない。
古びた暖簾が一枚、軒先から垂れていて、風が吹くたびに「ねぎま」と染め抜いた文字が、ゆらりと揺れる。
店の中へ入ると、土間に置いた炭火の匂いが鼻についた。
小上がりの畳は衝立で区切られ、七輪に小鍋が乗せられている。鮪の脂身と葱が、醤油と酒、それに出汁とで煮られ、香りが湯気に混じって、狭い店いっぱいに漂っている。
「おいでなせぇなし」
「人と待ち合わせている。先に来ていると思うのだが」
板場から出てきた亭主にいうと、二階の座敷を案内された。
少し軋む階段を上り、彼の視界にその男が入った。
「桂さん」
その男は引き攣った顔で、桂小五郎を出迎えた。
「君、ひとりか? 久坂くん」
「高杉はあとから来ます」
小五郎が待ち合わせていたのは、ともに長州藩士の久坂玄瑞と、高杉晋作だった。
「桂さん、もはや我慢の限界です。幕府は未だに異国のいいなりだ……っ」
なるほど、久坂の顔が険しいのはそれか――と、小五郎は思った。
「君の気持ちはわかるが、今はそのときではない」
小五郎はそう久坂を諭す。
現在の幕府に力で訴えるのは容易いだろう。だが、長州藩は黙っていないだろう。現在の長州藩の藩論は攘夷ではない。つまり久坂の行動は独断となる。
「腹を斬れっていうなら斬りますよ」
「君ひとりが腹を切ってすむ話ではない。殿まで御腹を召さねばならん」
そう、幕府は藩主・毛利敬親公に責を問うてくるだろう。
「藩のお偉方は、ことの重大さがわかっておられないのだ……! 帝を蔑ろにし、異国に諂う幕府を放っておけると思いますか!? 桂さん。幕府は、松蔭先生まで処罰しようとしているのに!」
久坂は激高した。
小五郎は松下村塾の門下生ではなかったが、吉田松陰は小五郎にとっても師であった。それに、帝の意向を聞くことなく、条約締結に至った幕府にも憤りをおぼえる。
小五郎は、両腕を組んだ。
わかっているのだ。久坂たちを制したところで、攘夷の風はやまないことを。
そして彼自身もまた――。




