第16話 家族の一員
この日も、朝から蝉が鳴いていた。
それでも庭を吹き抜ける風は秋は間近と告げ、軒下の風鈴を揺らしていく。
彼は部屋のなかで、文机の前に座して墨を擦っていた。
静かな場で墨をするのは、心が落ち着く。それは剣を構えたときも同じである。
決して迷わず、全神経を集中させる___。
それがこれまでの、当たり前としてきた彼の日常だった。
なのに、いくら墨を擦り続けても心が安定せぬ。
不安でかつ、焦り。そして嫉妬にも似たみょうな感情。
だがそれらを認めてしまえば、己が己でなくなる。いつからこんな男になったのかと己を嘆くも、複雑に絡み始めたそれらは簡単には解けてはくれない。
___あんたは、真面目すぎるんだよ。山南さん。
彼にそういったのは、現在厄介になっている近藤周助宅に隣接した試衛館の内弟子、土方歳三である。
山南敬助は天然理心流門下ではなく、北辰一刀流である。
ここに来るまでは、まさか彼らと寝食をともにするとは思いもしなかった。そうここに来なければ、この内にある妙なものは湧かなかったかも知れぬ。
___一手、わたしと勝負をしていただきたい。
そう言ったのは、山南敬助自身である。
北辰一刀流対天然理心流___、天然理心流宗家次期四代目を継ぐという近藤勇に、敬助は勝負を挑んだのである。
勝てるという自信が、敬助にあった。だが、結果は敬助の負けだった。
男が男に惚れるという言葉があるが、敬助は勇に惚れた。彼の人格に惚れた。
嫌なら出ていけばいいのだ。ここは、敬助が昔から望む静かな場ではない。
騒がしい連中がおり、神聖な稽古場で酒盛りをはじめたときは敬助は驚いた。
よほど自分の顔は面妖と見えたのか、歳三が口を開いた。
「まったく、騒がしい野郎たちだぜ。ま、俺は慣れちまったけどな」
歳三は騒ぐ彼らを制止もせず、口元に笑みを浮かべつつ盃を口に運んでいた。
「土方どの」
「その“どの”はよしてくれ。俺はそんなに偉くはねぇよ。百姓上がりの半端な野郎だぜ」「しかし、これは……」
「すぐに終わるさ。それに、ここの主は近藤さんだ。あの人がいいって言ってるんだから、放っておけよ。真面目なのは立派なことだが、山南さん。ここではな、肩なんぞ張る必要はねぇんだ」
真面目すぎるといわれたのは、この時である。
いつも仏頂面と総司がいう男が、笑った。
思えば敬助は、笑った記憶がない。あったかも知れないが、それがいつなのか思い出せない。学問と剣術に追われ、気がつけば二十三歳。立ち止まってみれば、己はなにを目指していたのか。
敬助は墨を擦る手を止めた。
静かになっていいはずなのに、落ち着けない。
昼の日はまだ強く、縁側には白い日差しが落ち、その先の庭は明るすぎるほど明るい。
蜩が鳴き、それに混じって秋には早い、せっかちな秋虫が鳴く。
(水でも、頂いてくるとしようか)
その水が心にあるものを洗い流してくれるとは思っていないが、ここに座っていても更に心が重くなるような気がして、敬助は立ち上がった。
敬助が向かったのは井戸ではなく、厨である。井戸水でもよかったが、なぜか足は厨に向いた。
厨には、竈の前に井上源三郎がいた。
試衛館内弟子であるにも関わらず、庭の畑の世話から飯炊きまでする源三郎に、敬助はこれにも脅かされた。
「珍しいですね、山南さん。こんなところに来るなんて」
厨にいた井上源三郎が、水瓶から汲んだ水を敬助に渡す。
「今日は随分、静かなようですが……」
上がり框に腰を下ろした敬助は、水を一口飲んでほっと息を吐く。
「永倉くんと藤堂くんが揃って出かけ行きましたからね」
源三郎いわく、永倉新八と藤堂平助は口入屋に行き、総司は多摩に出稽古、勇も小野路村へ出かけているらしい。
敬助は原田左之助が大の字で寝ているのを見かけたが、どおりで静かなはずである。
「そういえば、トシさんも朝から見かけませんね」
トシこと歳三の話になると、源三郎の口がほころぶ。なんでも同じ郷里らしい。
「彼はどこへ?」
「さぁ、どこでしょうね。彼の行動だけは、謎です」
「心配にならないんですか?」
「心配ですよ。彼だけじゃない。ここにいるみんなのことが心配になります。不安で仕方ないことなど、多々です。なにせ、個性的面々が多いですからね。ここは」
そう言って笑う源三郎に、敬助は手元から視線を上げた。
源三郎は敬助に背を向けてしまっている。竈の前にしゃがみ、火吹き竹で竈の火を煽っている。飯炊きなど人を雇えばいいものを敬助は思うが、これが源三郎は好きらしい。
米の炊ける匂いと、竈で薪が爆ぜる音がする。
そう、不安なのだ。
敬助の心を占めているもの、それは不安だった。
いつも騒いでいる人間がいないと不安になる。何処で何をしようが勝手だと思う反面、気になってしまう。ゆえに、落ち着かないのだ。
だが源三郎は、みんなのことが心配といいながら、その表情は沈んではいない。日頃の日課をこなし、剣術の稽古にも励む。
その理由を源三郎の背に問えば、意外な答えが返ってくる。
「彼らを信頼し、信じているからでしょうねぇ」
敬助は瞠目した。
源三郎いわく、勇は近藤家にいるものは俺の家族だと言っているという。
ただの同居人ではなく、内弟子も食客も、同じ屋根の下で暮らす家族なのだと。
確かにここには、温もりがある。他の道場にはない、温もりが。
源三郎は、最後に言った。
「彼らを信じてあげてください、山南さん。家族を」
※※※
戌の五ツ半___。
近藤家は、ひっそりと闇の中に沈んでいた。
試衛館も今は灯りもなく、黒い影となっている。
いまだ、懐事情が厳しい屋敷である。屋敷といっても、門は人ひとりが身をかがめずに通れるほどの粗末な冠木門で、黒ずんだ柱には幾筋もの雨垂れの跡が残っている。土塀はところどころ崩れ、門からの細い通路には細い草が伸びている。
だがこの男の頭にあるのは、居住するこの近藤家の末ではない。
歳三は月明かりを頼りに、広げた紙面を睨んでいた。
己で作成したそれには新たにバツ印が加えられ、自ずと目は目標を絞り始める。
だが、やろうとしていることは命懸けなのに、心は高鳴っていた。
まるで、これから悪戯をしようとしている子どものように。
歳三は子供の頃、近所の子どもと悪戯の密談をしたことがあった。地面に棒切れで線を描き、肥溜めの場所や納屋、いざというときの落ち合い場所など記しては仲間に指示をした。まるで、バラガキに戻った感じもするが、これは悪戯ではない。
まさかバラガキ時代の才が、活かされるときがくるとは思ってもみなかったが。
今宵は、見事な満月である。
屋根の向こうから昇った月は梅の枝の間に白く浮かび、その光は座敷まで伸びて、障子の桟の影を畳へ落としている。
そんな障子の外、長身の男が立った。
原田左之助である。
いつもなら大の字で高いびきの男が、怪訝な顔で立っている。
「どうした? 原田」
「……帰ってくる途中で、妙なもんを見ちまってよ」
「妙なもの……?」
左之助は空になった自身の酒を買いに、江戸本町(現・中央区日本橋本町二・三丁目)の酒屋へ行っていたという。
一頻り話し終えた左之助は、
「な、妙だろ? 土方さん」
と、同意を求めてきた。
歳三は両腕を組むと、視線を畳に広げた紙面に落とす。そして、ついに一点に注がれる。自然に口が緩む。
「原田、お手柄だ」
「へ?」
「永倉たちに伝えろ。的は絞られたってな」
歳三の指示に、原田は「あいよ」と返事をして出ていく。
このとき歳三の計画は、実行に向かって開始されようとしていた。




