第15話 食客たちの変化
八月(新暦九月)中旬___、朝から陽が強い。
大川(隅田川)の水面は白く光り、川面を渡って来る風にも、もう涼しさはない。
それでも川沿いには人が出ている。
荷を積んだ小舟、屋根船、魚を運ぶ舟。櫓をこぐ音が水の上に響いている。
ここは江戸・深川である。
夏の深川は、水の町である。
大川から枝分かれした川や堀が、町のあちこちへ入り込み、その水の上を、朝から晩まで舟が行き交っている。だから、深川の暑さには、ほかの町とは違うところがあった。
陽が高くなると、道の土は焼ける。
屋根瓦も熱を持つ。
白壁などは、まともに目を向けられないほど眩しい。
ところが、川の上だけは、陽の光を受けながらも、どこか湿った気配がある。
風が吹けば、その湿り気が町へ流れ込んで来る。
それが、夏の深川であった。
青年は甘酒を口に運びつつ、通りを見つめていた。
いつもと変わらぬ景色がそこにある。
江戸庶民にとっては異国船が来ようが、尊王攘夷を訴える者がいようが、自身の暮らしに響かなければ素知らぬ顔で日々を送る。
それが昨今の人斬りのお陰で、夜は早仕舞いする店が増えた。
「平助ではないか!」
この声に青年___、藤堂平助は手元から視線を上げた。
「久しぶりです。倉田さん」
平助の前にいたのは、同じ北辰一刀流道場で学んだ男であった。
「ここ最近、顔を見せないからどこぞに士官でもしたかと思うていたぞ」
「まさか。俺は今でも浪人ですよ」
「お前ほどの腕があれば、無理ではあるまいに。それとも、女ができたか?」
平助は、江戸三大道場には神田お玉ヶ池・玄武館にて、目録を得ている。
「そっちのほうはまだですよ」
平助にはまだ、色恋沙汰はない。
「まだまだ子どもだな。良ければ吉原へ連れていってやるぞ? いっぺん、女を抱いてみるといい。平助」
からかう倉田に、平助は苦笑いをする。
確かに年は十五だが、元服はとうにすませ、いざとなれば刀を抜く覚悟もできている。
「俺がここに来たのは、伊東さんに会うためですよ」
「若先生のほうか?」
「ええ。稽古をつけてもらおうかなって」
平助が会おうとしているその男は、深川中町の北辰一刀流道場・伊東道場の門弟だが、道場主の娘婿になっていた。
その名を伊東大蔵(のちの伊東甲子太郎)という。彼がこの江戸にて同流で慕うのは、この伊東である。
伊東大蔵は、そんな平助を笑顔で出迎えた。
「藤堂くん、久しぶりだ。君が来たのはいつ以来かな?」
「陸月(旧暦六月)の終わりに来て以来ですよ。伊東さん」
つまり、伊東道場に来たのは約二月ぶりである。
「もしかして君も、勤王派になったのかな?」
伊東大蔵は水戸へ遊学した際、水戸藩士から神道無念流剣術を学び、また、水戸学を学んで勤王思想に傾倒したという。
神道無念流も使えて北辰一刀流も使う太蔵に惹かれる平助だが、彼の目的は違った。
「伊東さんに稽古をつけてもらいに」
「それは構わないが、ならばわざわざ、市谷から来ることもあるまい。近くに住めばいい。よほど、君が住むところは居心地がいいと見える。なんといったかな、そこは」
「天然理心流、試衛館ですよ」
「ああ、そうだったね。だが君ほどの実力を、無名の道場で腐らせるのは惜しいねぇ」
大蔵にとっては、試衛館は一介の町道場であろう。
門弟は数えるほどしかおらず、それも下級武士か一般人である。だが平助は試衛館が気に入っていた。あそこは自由でいい。楽しくて、なにかが起きそうな気がする。そう、何かが。
「伊東さん、稽古は俺を殺す気でお願いできませんか?」
平助のこの言葉に、笑っていた大蔵が瞠目した。
だが平助に「殺す気で」という理由を聞いてくることはなく、再び笑んで「いいよ」と答えたのであった。
※※※
葉月も中盤となると、秋の香りがしてくる。
昼間の暑さは健在だが、それでも日が西へ傾けば少し冷たい風が庭を駆け抜ける。
歳三は奇妙な鳴き声で目を開けた。
半分開いた障子と廊下の間で、軍鶏がこっちを見ていた。
歳三は絶句して目を瞬かせたあと、声をあげた。
「おいっ!」
これに反応したのは当の軍鶏ではなく、畑帰りの井上源三郎だった。
刻限は申の七ツ半(午後五時)___、文机にはそれを覆う紙が広げられ、蚯蚓が這ったような線で図面が描かれている。どうやらこれを書いているうちにうたた寝をしたらしい。
紙にはいくつか墨が垂れた箇所があり、書き直し決定である。
「どうしたんだい? トシさん」
歳三より六つも年上で兄弟子である源三郎は、なんど「俺より年上だろう」といっても歳三のことをさんづけで呼ぶ。
「……まさか、あんたじゃねぇよなぁ? こいつを離したのは」
軍鶏は食うためにと勇が購入したものだが、この軍鶏は鍋にならずに生き延びた。総司が可哀想と言い出し、山南敬助と源三郎がこれに同意したのである。
雌鶏ならば卵を産むかもしれないが、歳三の目の前にいる軍鶏は雄ときた。四つ足の獣を食うのは忌み嫌われる世だが、鶏肉は飯屋で普通に提供される食材である。
卵を産まず、肉にもならぬ軍鶏は無用の存在となるはずが、近藤家の一員となった。
総司は新しい食客ができたと喜んでいたが、軍鶏の食客など聞いたことがない。
「ああ、そこにいたんだね。籠から逃げ出したんだよ」
源三郎はそういって、苦笑している。
庭では朝顔はもう花を閉じ、古びた手桶が井戸端に伏せてある。縁先には打ち水の跡が細く残り、その上を名もない小さな虫がひとつ、ひとつ、這っていた。
蜩が鳴き、庭の隅に植えられた柿の木で、葉が暮れかかった風にかすかに揺れ、その向こうの空だけが薄い茜色になっていた。
そろそろ夕餉のはずだが、飯時となると騒ぐ原田左之助たちの声がしない。
源三郎いわく、出かけているらしい。
「そうか」
「奇妙なことがあると思わないかい?」
「なにが?」
歳三は、落ちてくる前髪をかきあげていた。
歳三の髪は後頭部の高い位置で束ねて背に流しているが、きちんと結われていないためか、額に髪が落ちてくる。いまや髪が落ちてこなくてもかき上げるのが癖になり、おかげで落ちてこなくてすんでいる髪が落ちてくる。
「彼らがこの刻限に、三人揃って留守にしている。しかも、真面目な顔をして出かけて行くんだ。ほら、三十間堀で人が斬られただろう? あのときからだよ」
「源さん、あんたはなにを心配してるんだ? やつらがいないと静かでいいじゃねぇか。食い扶持が減ればここの懐も助かるぜ」
「彼らに限って馬鹿な真似はしないと、わたしも思っているよ」
「なら、放っておけよ」
歳三は源三郎に背を向けて、部屋に戻りかけた。
「トシさん」
「今度はなんだ?」
歳三は振り向かなかった。
「わたしが一番気になるのは、君だよ。トシさん」
「俺は別におかしくねぇよ」
「君は昔から、考え込むと押し黙るからね。なにか、隠していないかい?」
歳三の肩が、びくりと跳ね上がる。なぜこんなときだけ、正直なのか。
歳三は、源三郎に聞こえないよう舌打ちをした。
「ねぇよ。そんなに気を回していると老けるぜ? 源さん」
歳三の反応を、源三郎はどう思ったのだろう。
源三郎は一見穏やかそうに見えるが、こうみえて、郷里・日野にいた頃から勘は鋭かった。歳三が子供の頃、悪戯をしたその帰りに出くわすと、「また悪さをしたね」と見抜かれたものだ。
だが、歳三がしようしていることは悪戯ではない。
はたして源三郎は、歳三がしようとしていることをどう思うのだろう。今のように微笑むだろうか。それを確かめるのは容易いが、彼に打ち明けられない。おそらくまた気を揉み、心配してくるだろう。それが、歳三が子供の頃から知っている源三郎である。
「はは……、まだ老けたくないな」
源三郎が踵を返す音がする。
歳三は心のなかで詫びた。
すまねぇな。源さん。今回だけは、俺の意地を通させてくれ。
※※※
夕餉は、いつもの騒がしいものだった。
原田左之助と藤堂平助が膳の胡瓜の古漬けを盗ったどうだの揉め始め、永倉新八が呆れつつ仲裁に入る。
「まったく、飯ぐらい静かに食えんのか…」
「だってよぉ、永倉。平助のやつが俺の大好物を掻っ攫いやがるんだぜ?」
「いいじゃねぇか。古漬けならまだあるんだし」
「うるせぇ。最初の一口が大事なんだよ! 俺の古漬け、返しやがれ」
噛みつきかねない左之助の勢いに、平助は口に入っていたであろうそれを飲み込む。
「もう、食っちまったよ。大袈裟だなぁ、左之助さんは」
「美味しいですよね? この古漬け」
総司がそういって、箸で抓んで口に入れる。
「おお、総司。お前だけだぜ。この古漬けの味をわかるやつは。平助はろくに噛まずに丸呑みだぜ? 味わってやるというのが、礼儀ってもんだ」
「実にくだらん……」
新八がまた呆れ、近藤勇は大きな口を開けて飯をそのなかへ入れていた。
井上源三郎はそんなやり取りを苦笑しながら見ており、山南敬助といえば、表情一つ帰ることなく汁椀を口に運んでいる。
はたしてこの男の肚は、どうなっているのだろう。
歳三は汁椀に口をつけつつ、そんな敬助を窺い見た。
騒がしいと思っているのか、それとも新八のように下らないと思っているのか、はたまた、気にしていないのか、敬助の肚を覗いてみたい気がする歳三だが、このなかでもっとも警戒すべき男は敬助だろう。
彼は妙に勘が鋭いところがあるからだ。
そんな山南敬助が声を発したのは、左之助たちが飯を終えて部屋へ戻っていくのと同時だった。
「近藤さん」
「どうした? 山南さん」
「いえ、気のせいかと思うのですが……。妙な胸騒ぎが致します」
やっぱり、山南さんは勘が鋭いと、歳三は思った。
勇は眉を寄せただけだ。
「胸騒ぎ?」
「ええ」
警戒に入ったのか、歳三は黙っていられなくなった。
「また人斬り野郎が出るって、か? 山南さん」
「それもありますが……、違う何かが……」
「また始まったぜ、あんたの心配性が。こんなところで、なにが起きるっていうんだよ。誰かの恨みでもかってりゃあ、乗り込んでくるやつはいるだろうが……」
「土方さんは、いろんな所で恨みをかっていそうですねぇ」
横にいた総司が、面白そうに笑う。
「うるせぇ。恨みをかうほどのことは、俺はなにもしちゃあいねぇよ」
「どうでしょうねぇ……」
疑わしげな視線を寄越してくるが、歳三はいつものように鼻を鳴らした。
勇が床に着き、近藤家が静まり返る。
だがこの夜は、いつもなら寝息を立てている左之助たち三人は起きていた。
「___土方さん」
彼がいる部屋に歳三が入ると、新八が腰を浮かせた。
「気取られちゃいねぇな?」
「ああ。近藤さんも山南さんも、気づいていいない」
「俺のおかげだな」
平助が自信満々にいう。
「なんで、お前のおかげだよ」
左之助が口を開く。
「あの場合、左之助さんの古漬けを食わなきゃ、揉める理由がなかったからさ。妙に黙っていたら、怪しまれるじゃねぇか?」
「ふん。だからって、古漬けじゃなくてもいいだろうが」
原田左之助、意外に執念深い男である。
「だが、山南さんはなにか起こると思っているぜ。源さんは山南さんほどじゃねぇが、心配性なのは同じだ」
歳三の言葉に、彼らの顔が引き締まった。
「じゃあ、やめるのか?」
新八が聞いてくる。
「いや、やる。斎藤、お前はどうなんだ?」
この夜は、斎藤一も来ていた。
相変わらず刀を抱いて隅にいたが、その眼はその刀身の如く、危ういものを宿していた。
「……やりますよ。ですが、土方さん。我々はここの門弟ではありませんが、あなたは内弟子の立場、破門になりかねませんが?」
「覚悟の上だ」
「わたしを、お忘れなく」
障子が開いて、総司が入ってきた。
「近藤さんに気づかれなかっただろうな? 総司」
「ええ。厠から出てきた所とすれ違いましたが、いつもの近藤先生でしたよ」
このときの総司もいつもの無邪気さは消えて、真剣だった。
手勢は揃った。
「じゃあ、始めるぜ?」
歳三の言葉に、一同が頷いた。




