第14話 汐留橋
歳三がその女に会ったのは、今から半月前のことである。
歳三はその日、刀を求めるため芝日影町(現・港区新橋二、三丁目)に来ていた。新品で良い刀を求めるなら日本橋久松町(現・中央区久松町)だが金にそんな余裕はなく、安価な刀にしたのである。
江戸には幕府・大名家の御用達の御用刀屋と、市中の武士や豪商を顧客とする町刀屋があるが、歳三が行くのは当然、町刀屋である。なにせ江戸に来る際、義兄・佐藤彦五郎から当座の資金としてもらった金子である。これ以上は無駄にはできない。
ただ数件立ち寄った刀屋で散々こちらの容姿と懐状況を値踏みされ、錆つきの刀を差し出してきたときは思わず怒鳴りかけたが。
この日も江戸は、蝉の声に包まれていた。
日本橋から延びる往来には、荷を積んだ大八車が行き交い、魚を売る声、豆腐を売る声、遠くで鳴る鍛冶屋の槌の音までが、暑さの中に溶け込んでいる。
陽は高く、白い。瓦屋根も、黒く磨かれた柱も、往来の乾いた土も、照りつける光を一身に受けていた。
市谷へ向かい始めたのは八ツ半(午後三時)、南の空に雲が出ていた。最初は、薄い煙のようだった。それが見る間に重なり合い、紫がかった灰色となって、江戸の町の上へ広がってゆく。
嫌な風が吹いた。
歳三は空を見上げ、眉を寄せる。
商家では店先の商品を奥へ運び込み、魚屋では濡れては困る荷を急いで片づける。往来を急ぐ者は歩調を速め、駕籠かきたちは軒下を探して足を向けた。
三十間堀まで来たとき、最初の一滴が落ちた。乾いた土の上で、黒い小さな丸をつくった。二滴、三滴。やがて、それが一面に広がった。
「ちっ。やっぱり降ってきやがった……」
来るときは晴れていたため傘など持っておらず、このまま行くにはまだ先は遠い。
大粒の雨が瓦を打ち、軒先から滝のように流れ落ちる。往来の土はたちまち黒く濡れ、浅い窪みに水が溜まり、そこへさらに雨粒が落ちて、無数の輪をつくった。
雨は町の姿を変えてゆく。
長屋の前を流れる溝には水が勢いよく走り、柳の枝は重たそうに垂れ下がった。
格子戸には雨粒が細かく並び、店先の木桶には水が溜まってゆく。
大通りの向こうが霞み、向かいの家さえ白い雨の幕の向こうに消えてしまう。
汐留橋を渡った歳三は、急いで近くの軒下に駆け込んだ。
聞いた話によると汐留橋は、かの赤穂浪士が吉良邸への討ち入り後、泉岳寺へ向かうときに渡った橋らしい。
駆けるたびに水が跳ね、素足と袴が濡れた。
そんな歳三の背で、戸が開く音がした。
顔を覗かせたのは女だった。
着ているのは黒襟(町人の着物の襟)の着物ではなく、質素な木綿の小袖である。島田髷だったが若くは見えない。
「どうぞ、中へ。そこでは濡れてしまいますゆえ」
話し方から、武家の匂いがした。見れば帯は絹で、帯締めはしていなかった。
女は三十路を越していた。
顔立ちは、むしろ地味なほうである。卵形の顔に、やや細い眉。鼻筋はすっきり通っているが、口元には愛嬌よりも静かな品があった。
髪は若い娘の島田髷より低く、その髪は艶があり、鼈甲の簪を一本、挿しているだけで、櫛も派手なものではない。それでも、である。
「お使いくださいませ」
女はそういって、水の入った桶を上がり框の手前に置いた。
座敷に上がれというのだ。
「あんた___」
歳三の声に、女が顔を上げた。その顔に警戒心はない。
「なにか?」
「女ひとりの家にこんなやつをいれて、なんとも思わなねぇのか?」
「困っている方を、放っておけませぬ。それともあなた様は、無体をされる方なのでございますか?」
逆に問われ、歳三は言葉に窮した。
歳三に女を襲う趣味はない。関係をもった女がいたことはいたが、同意の上であった。
女は志乃と名乗った。生まれは飛騨国(現在の岐阜県北部)、父は飛騨高山藩家老だという。
「どうして江戸に? 向こうにいりゃあ、何不自由なく暮らせていられただろうに。……すまねぇな。こんな形をしちゃあいるが、俺は元は多摩農民だ。口のほうもこんなだ」
「かまいませぬ。わたしが国を出たのは、逃げてきたからなのでございます」
志乃いわく、彼女は男と逃げてきたという。
男の名は新十郎といい、藩の下級武士で無役だという。ふたりは恋仲にあったそうだが、身分が違いすぎた。当然、藩の家老職にある志乃の父は許さないであろう。ゆえに、ふたりは逃げてきたという。貧しいながらも、新十郎との生活は幸せだったと志乃は語る。
だが部屋の中に、その新十郎の匂いがしない。
男と暮らしているならば、何かしらの匂いや持ち物がありそうなものだが。
歳三が驚かされたのは、志乃の次の言葉である。
「新十郎さまは一年前、所用で出かけられたのです」
「何処へ?」
志乃は静かに首を振る。その顔は悲しげである。
江戸にきて半年、新十郎はよく外出するようになったという。帰ってくるのが夜遅くになるのがあったらしい。彼が何処へ出かけ、なにをしているのか志乃は知らなかったらしい。それが一年前、新十郎は志乃にこういったという。
「今日は早く帰って参ります。志乃どのの好きな桔梗屋の草餅を土産に。それと___戻ったら志乃どのに話があります」
彼がなにを自分に言いたかったのか、志乃には今でもわからないという。
口さがないものは、新十郎に女ができたのだという。家老の娘という地位を利用されたのだという者もいたそうだ。
「で、あんたは今もその男を待っているわけか」
「馬鹿な女と、お笑いくださいませ。ですが、忘れられないのでございます。新十郎さまに女の人ができたのなら諦めがつきます。あの方が幸せなら、わたくしはお恨みも致しませぬ。でも___」
膝においた志乃の手が震えている。
一年前になにがあったのか、志乃が話すまで少し間があいた。
「……あの日も___、こんな雨が降っておりました」
※※※
早く帰ってくると告げた新十郎の言葉に、志乃の心は久しぶりに躍った。彼の好きな鯉料理を作ろう。向かい膳でとりとめない話をして、枕を並べて寝る。まだ契を交わしていないが、新十郎と過ごせるそのひとときは、志乃には充分だった。
暮れ六つ間近、雨が降り出した。
新十郎は傘を持っていない。
志乃は家で待っていられず、傘をもって迎えに出た。
「新十郎さま」
三十間堀に架かる橋の上を、こちらに向かって歩いてくる新十郎がいた。
ふたりの間は一町(一〇〇メートル強)ほど離れていたであろう。
だが、橋には新十郎だけではなかった。反対から浪人笠の男が渡ってきたからだ。
そのとき志乃には、なにが起きたのかわからなかった。滝のような雨である。浪人笠の侍が通り過ぎると同時に、新十郎の体が大きく崩れ落ちた。
志乃が駆け寄ったとき、新十郎はもう息はしていなかった。彼の着ていた着物は胸から袴まで血に染まり、橋のほうまでその血が流れて雨に流されていく。
志乃の夢は儚く消えた。
だがこの残酷な結末が、志乃の記憶を擦り替えた。
志乃のなかで、新十郎は生きたまま。新十郎が家を出たままの記憶で止まっている。
ゆえに雨が降ると思ってしまうのだ。
新十郎が帰ってくる。汐留橋を渡って帰ってくる。ほら、今だって___。
歳三が軒下に立ったとき、志乃が家の戸を開けたのはそう思ったからだ。
雨音が静かになった。
「……斬った男の顔は見たのか?」
雨に打たれた歳三を部屋に入れた志乃は、再び首を降った。
雨は霧のように周囲を霞ませ、新十郎の身になにがあったのかさえわからなかったのだから。
「いいえ。御弔いも許してもらえませんでした」
「なぜだ?」
「新十郎さまは、幕臣の方を襲撃しようとしていた疑いがあるそうでございます。密談の仲間に加わっていたとか」
自身番に運ばれた新十郎の遺骸を引き取りに行ったが、同心にそう言われた。
遺骸がなければ墓もできない。せめて遺骸を墓に収めれば彼の死を受け入れられたであろう。
「信じたのか? あんたは、その役人の話を」
「新十郎さまはお優しい方だったゆえ、頼まれるといやと言えなかったのでございましょう。ですが、土方さま。わたくしには今も新十郎さまは生きているのです。忘れられるわけがございません。雨がなにもかも荒らし流してくれるとは限りませぬ。そうでございませんか? 土方さま」
あの日以来、涙も出なくなった。悲しいのに、寂しいのに、涙が出ない。
散々泣いて枯れてしまったのか、声を出して泣いたのはあの日だけ。
忘れられるわけがない。
雨は残酷な光景を思い出させるとともに、橋を渡って帰ってくる新十郎の姿を思い出させる。彼女の中では橋を渡る新十郎がおり、真実が隠される。そうしてこれからも、彼女は彼を待ち続けるのだ。
雨が降れば、彼が汐留橋を渡って帰ってくる。そして今度こそいうのだ。
わたしを妻にしてくださいませ、と。
※※※
汐留橋で、ひとりの女が死んだ。
恋い慕う男を待ち続けた女の末路は、なんと哀れなことだろう。
汐留橋で何者に斬られて死んだのは、間違いなく志乃だ。
確かめたわけではないが、歳三の勘がそう告げている。
おそらく彼女は傘をもち、汐留橋に向かったに違いない。すでに殺されている男なのに生きていると思い続け、雨になると迎えにでるという志乃。
その志乃が無惨に散った。
なにゆえ、彼女は死なねばならぬ。なにゆえ、斬られなければならぬ。
歳三は畳を睨み続けた。
怒りで拳が震え、強く噛み締めたのか唇から血が出た。
志乃との縁はたった一度。これは恋慕でなく、無惨に人が斬られ、それをなんとも思っていない者に対する憤怒だ。
「許せねぇ……!」
歳三に初めて、殺意が芽生えた瞬間である。
「___怖いなぁ」
歳三の背後で、呑気そうな総司の声がした。
「……何の用だ?」
振り返ると、障子の縁にもたれかかっている総司がいた。
「土方さんの目、あの人斬りと同じだ」
「総司!」
「でも、嫌いじゃないですよ。目は殺気を帯びていますが、人斬りにはならない。剣とはどういうものか知っていますからね」
貶してみたり煽てみたりと、この青年が本当はなにを考えているのか歳三にはわからない。
「けっ」
「でも心配だなぁ。あの刀、相当古そうですが折れませんか? そうなったら今度こそ、あっちへ行きますよ? 土方さん」
刀掛けには、刀屋が渋々出してきた刀がある。
総司のいう“あっち”とは、冥土のことだろう。
「ふん。そうなった閻魔の顔に小便かけて帰ってくるさ」
「あっちでも一騒動起こす気で? あっちの住人にとっては、それは迷惑でしょうね」
はじめはいつものようにからかいに来たのかと思った歳三だが、座った総司の目は笑っていなかった。剣を構えたときの、真面目な目になっている。
「総司、お前は来るんじゃねぇ」
「まさか一人で立ち向かうつもりですか? わたしには会いに行くなと言った癖に」
「大先生(試衛館三代目・近藤周助)と近藤さんを悲しませることになる。お前の腕は間違いなく天才さ。その腕を汚すとあっちゃあ、悲しませるだろうが」
「汚れませんよ。試衛館の掟は喧嘩に使用ならずですが、土方さんがやろうとしているのは喧嘩ではないでしょう? 正当な理由があるならば、侍の道理にも適っています」
「もしかすると、相手の命を奪うことになるんだぜ? どんな下衆野郎だろうと、人の命には変わりねぇ。俺は破門は覚悟の上だが、捕縛されりゃあ、三尺高い台の上で空を見上げるだろうよ」
名家の武士なら評定所の沙汰で切腹となるが、浪人となると奉行所の沙汰を受ける。刑は打首獄門となり、首は晒し首となる。
武士にとって、もっとも屈辱的な刑罰である。
それだけ、人を斬るということの罪は大きい。
だが、総司は笑って答えた。
「そうならない気がします。わたしの勘、当たるんですよ。土方さん」
歳三はため息をつき、前髪をかきあげた。
「……わかったよ。だが、近藤さんにいうんじゃねぇぞ。あの人のことだ。俺も行くと言い出しかねねぇ。それと、山南さんにもいうなよ。止めるのは間違いねぇからな」
「でも、ふたりだけでは心もとないですねぇ」
「試衛館に障害にならねぇ人間ならいるじゃねぇか。うちの掟とは無関係な野郎がすぐ近くに」
歳三の頭に浮かんでいるのは、少なくとも三人である。
「話したんですか? あの人たちに」
「いや。断られば仕方ねぇが、腕のほうはそんじょそこらのやつより立つだろうぜ」
歳三は、覚悟を決めた。
無惨に殺された志乃とその男のため、刀を穢す非道な行いを止めるため、俺は刀を抜く。
そんな歳三たちを、月は黙って見下ろしていた。




