第13話 斉藤一の憤り
牛の刻(午後十二時)を、少しまわった頃である。
浅草観音堂から雷門のほうへ抜ける道には、もう、焼けつくような陽が落ちていた。
往来の土は乾いて白く、草履で歩くたびに細かな埃がふわりと舞う。
軒先には葭簀が張り出され、その下に入るとほんのわずかではあるが、肌に触れる風が違った。
茶店では冷やした甘酒が売られ、桶の中で井戸水に浸した西瓜が赤い腹を覗かせていた。
往来では手拭いで首筋の汗を拭う男、裸足で走りまわる子供、荷を担いだ飛脚が暑さに顔をしかめながら人を縫って行く。
一膳飯屋を出て市谷へ向かっていた斎藤一は、強い日差しに目を細めた。
今年の夏は一段と暑く、嫌な汗が首筋から胸元に流れる。
江戸育ちの一にとって、江戸の町は庭みたいなものである。ただ彼の剣術流派・無外流の道場は少なく、稽古をするのは一苦労なのだが。
そんな一の足が、市谷堀(江戸城外濠)で止まる。堀に架かる市谷橋のたもとに、人集りができていたからだ。
市谷橋は江戸城外濠門・市谷御門へ通じる橋であり、市谷への入口である。
桜の時期であれば賑わう場だが、今は夏である。
橋の方から、瓦版売りの威勢の良い声が聞こえてくる。
「昨夜も人斬りが現れたって話だ。しかも斬られたのは女だっていうじゃねぇか」
人斬りと聞いて、一の胸に鬱憤が重なる。
「公方(将軍)さまのお膝元で堂々と人斬りとは、まったく物騒な世になったもんだ。さぁ、買った! 買った!」
瓦版の売り声が、響き渡る。
未だ捕まらぬ人斬りに対し、幕府への非難にも聞こえかねないが、周囲に町方はみあたらない。
鎖国から開国に転じて五年___、世が騒がしくなったのは確かだろう。
いずれこの江戸にも、異人がやってくるという者もいる。それこそ帝のおわす京にでも踏み込もうとするならば、異人と異国船排斥を叫ぶ攘夷派は黙っていないだろう。
その想いはわからぬではないが、一の場合は力づくで幕府の腰を攘夷に立たせようとは思わない。
ただ、剣を必死に学ぶ身として、その剣が人を斬るために使われていることが許せない。といって、手を出すこともできない。
人を斬るとはどういうことか___、侍の家に生まれれば、元服と同時に切腹の作法を習う。正当な理由なく人を斬れば、その罪を負わねばならぬ。なのに彼らは逃げ続け、人を斬り続けている。
一は代金を瓦版売りに渡し、一枚手に入れる。
斬られたのは、三十路(三十歳)ほどの武家の女のようだ。斬られたのは昨晩、場所は三十間堀だとある。
(昨晩……?)
一は眉を寄せた。
ただでさえ人斬りが横行する夜に、女はひとりでなにをしていたのか。
疑問と憤りを胸に、一が試衛館に着くまで半刻(一時間)かかった。
「よぉ、斎藤。どうした? 今日はやけに怖い顔をして」
一が近藤家の裏木戸を開けて入ったとき、廊下を歩いてきた永倉新八が一に気づいた。
試衛館にいる食客のなかで、山南敬助に次いで冷静沈着なのはこの男だろう。原田左之助や藤堂平助と一緒にいる事が多いが、二人と違って騒ぎはせず、暇さえあれば素振りをしている男である。
声をかけてきたのが新八で良かったと思いつつ、一は口を開いた。
「……近藤さんは?」
「近藤さんなら、部屋にいると思うが?」
「会いたいと伝えてほしい。土方さんも呼んでくれると助かる」
「別に構わんが……」
新八は一瞬眉を寄せたが、追及してくることはしなかった。
※※※
近藤先生が呼んでいる___。
そう総司から聞いた歳三は、勇の部屋を訪ねた。
勇の部屋には斎藤一がいた。
(珍しいことがあるもんだ。こいつが俺たちの前で、感情丸出しにするとは)
普段なら滅多に感情を顔に出さない斎藤一が、畳を睨みつけている。眉間に小さなしわを刻むことがあっても、ここまでの顔は歳三も見たことはなかった。
勇を見れば一ほどではないものの、難しげな表情をしていた。
「近藤さん、なにかあったか?」
「トシ、野郎はついに女にまで手を出した」
「野郎?」
「例の人斬りです。土方さん」
答えたのは一である。
「いつ」
「昨晩らしい。その女は、ひとりで歩いているところをやられたようだ」
勇はそういって、唸った。
向かい合う勇と一の間の畳には、瓦版が置かれている。持ち込んだのは、一らしい。
「妙じゃねぇか。これまで人斬りが狙っていたのは侍か、大店の主ばかりだ。なぜ、女を斬らなきゃならねぇ?」
昨晩は雨が降っていた。
ここ半月降っていなかったため、天の恵みとなったが。
「俺に聞くなよ……」
勇が眉尻を下げ、一が再び口を開く。
「理由はともかく___、刀が人を斬るためのものとされていることです。幕府の目は我々にいっそう厳しくなるでしょう」
現在の江戸に増え続け始めた幕府非難の攘夷派と、非道に走る浪人たち。
幕府は彼らの取り締まりに、躍起になっているという。
「冗談じゃねぇ……! やつらと一緒になどされてたまるかっ。浪人が皆、人斬りにされちゃあ敵わねぇぜ。斎藤、お前も同じだろうが。やつらには腸が煮えくり返っているんだろう?」
「ええ。だから悔しいんですよ、土方さん。彼らに対して、何もできない自分が」
己の罪を悔いることもなく、いまだ捕縛されぬ人斬り。
歳三は一と違って士分ではないが、その一同様に刀が人を斬るためにされていることに腹が立つ。人を斬るのは最終手段であって、そこに正当な理由があった場合だ。
それにしても___。
「お前が口達者な野郎だったとは思わなかったぜ、斎藤。なぁ?近藤さん」
「わたしは、総司のように口は軽くはありません」
総司と比べられるのが嫌いらしく、一がむきになる。
「あいつはガキだからな」
「誰がガキですって?」
障子の外からしてくる声に、歳三は舌打ちをした。
「総司、立ち聞きするんじゃねぇ」
「してませんよ。通りかかったら、たまたま聞こえたんです。土方さんの声は、廊下まで筒抜けですよ?」
障子を開けた総司は、ちゃっかりと話の輪に入ってきた。
「けっ」
「今日は一くんもいるんですねぇ。機嫌が凄く悪そうに見えるのはなぜでしょう?」
刺激している自覚があるのかないのか、総司はみたらし団子を手に首を傾げた。
一の眉間のしわが深くなる。
「その一くんはやめてくれないか……」
「どうして? わたしより二つ年下でしょ? あ、食べる?」
食べかけの団子を差し出され、一の視線は壁に向く。
「いらん……っ」
確かに斎藤一は総司の二つ年下だが、歳三には総司のほうが子どもに見えた。
「それで斬られたというその女、何処の誰だったんだ?」
「斬られた場所は三十間堀の汐留橋近くだそうだ」
総司に呆れつつ落ちてきた髪をかき上げた歳三だが、勇のその言葉にぴたりとその手を止めた。
「三十間堀の汐留橋近く……?」
「ああ、そう瓦版に書いてあるが?」
三十間堀は汐留川に架かる新橋(芝口橋)と、汐留橋寄りの間から京橋近くの三ツ橋の合流地点に至る船入堀である。つまり、汐留川と京橋川を南北に繋ぐ堀である。
歳三は、まさかと思った。
「その女、三十路ぐらいの武家の女じゃねぇだろうな?」
勇が瞠目し、答えた。
「知り合いか? トシ」




