第12話 門外不出の豊玉発句集
「総司!!」
牛の九ツ半(午後一時)___、近藤家の八畳間で大の字になっていた原田左之助は、この声に飛び起きた。
「な、なんだぁ!?」
「いつものあれじゃねぇの。鬼ごっこさ」
壁にもたれかかり、書を捲っていた藤堂平助が答えた。
「またかよ……。よくもまぁ、凝りもせずにやるこった」
怒鳴り声は歳三だろう。
いまや定番となった歳三と総司の、追いつ追われつの鬼ごっこ。原因がなにかはわからないがこの声量である。総司が何かしたのは間違いないだろう。
この怒声に、蝉と風鈴の音も止まった。
この日も朝から恨めしいほどの日差しが降り注ぎ、廊下には皮だけが残された西瓜と、酒徳利が転がっている。
「すぐにここに来るぜ。匿ってくれとか言いに」
平助が、面白げに笑う。
「毎回、隠れ場所にされちゃ構わねぇな。なぁ?永倉」
「俺は知らん」
刀に打ち粉を叩いていた永倉新八は、左之助から視線を外した 。
「それが同部屋の相手に対する言葉かよ。お前のほうが冷静に対処できるだろうが」
「左之助さんは、土方さんに睨まれると、蛇に睨まれた蛙になるからな」
どうやら平助も、追ってくるだろう歳三の対処はしないらしい。
「けっ。薄情な奴らだぜ」
総司が駆け込んできて隠れると、追ってきた歳三の対応をするのは左之助だった。
「永倉さん、平助、原田さん!」
「よぉ、総司。また怒らせたのか? 土方さんを」
平助の言葉を、総司は否定しなかった。こうなると、なにをしたのか気になるがそれどころではない。
「隠れますので、よろしく」
そう言って押し入れに隠れる総司に、左之助はため息をついた。
「よろしくって、なぁ……」
いい加減ばれそうなものだが、巻き添えを食らうのは左之助たちも同じである。
総司が隠れてまもなく、障子が激しく開いた。
平助のいうとおり、蛇に睨まれた蛙となった左之助は、生唾を飲んだ。
「……総司はいるか?」
歳三の目が怖い。
「そ、総司…? いや……、来ていねぇ。な、なぁ? 永倉、平助」
ふたりからの返事はない。この野郎、と思った左之助だが、歳三の目と合ってしまえばそらすこともできない。
歳三は踵を返し、総司も部屋から出ていった。
一気に体力を失ったような感じがする左之助は再び大の字になり、鳴るのを止めていた風鈴も、蝉もその音を響き始めた。
今日も暑くなりそうである。
※※※
近藤家の奥に位置する歳三の部屋は、六畳ほどの座敷であった。
畳はところどころ擦り切れ、縁の糸も日に焼けて色が褪せている。床の間には掛け軸が一本、古びた柱には小さな傷がいくつも残っていた。
障子を通して、午後の淡い光が差し込んでいる。
部屋の隅には文机が置かれ、その上に硯と筆、何枚かの書き損じが重ねてある。脇には刀掛けがあり、大小の刀が一本ずつ、静かに横たわっていた。
入門半年あまりの内弟子には、贅沢すぎる部屋だ。
この部屋に、よく忍び込む者がいる。
盗られて困るような高価なものはないのだが、見られて困るものならある。
文机に置かれた黒漆の文箱、僅かにずれた蓋が中身を覗かせていた。
だが蓋をずらしたのは、歳三ではない。
「梅の花、一輪咲いても梅は梅」
背後から聞こえてきた声に、歳三の拳に力が入った。
「ようやく、出てきやがったか。まいどまいど、盗み読みしやがって……!」
「みなさんに聞こえますよ? 豊玉先生」
この野郎と歳三は思ったが、事実だけになにもいえない。
文箱から覗いているのは、鶯色の表紙がついた俳句本である。その名を、豊玉発句集。
歳三の祖父は三月亭石巴という俳人で、それなりの実力者であったらしい。このため、土方家には連句(俳諧の連歌)を嗜む文化的な一面があった。
その影響を受けて、歳三が自分の句を認めたのが豊玉発句集である。
豊玉の字は、歳三の本名である義豊の一字からつけたのだが、この趣味は実家と佐藤家しか知らない。だから油断していたのかもしれない。
まさかこの江戸で、よりにもよって、総司に盗み読みされるとは。
一度ならまだしも、何度もやられるため、総司を追い回すのが常になった。歳三のこの趣味は勇も知らないため、この追いかけっこのわけを聞かれたときはごまかすのがやっとだ。
「隠し場所、変えたほうがいいですよ?」
「誰にも、喋っちゃいねぇだろうな?」
「いってませんって。そこまでわたしの口は軽くないですよ」
「もし、誰かに喋ってみやがれ。その口、引き裂いてやる」
「縫うだの裂くだの、どっちも嫌だなぁ。吾妻橋の餡ころ餅が食べられなくなる。でももったいないなぁ。あんな面白いものを隠しておくなんて」
まったく反省していない総司に、怒る気も失せて、歳三は舌打ちをした。
すると総司が「あ、忘れていました」と言った。なんでも、近藤勇が歳三を呼んでいるらしい。
「馬鹿野郎っ! それを先にいえ!!」
歳三の怒声は、再び近藤家に響き渡ったのである。
※※※
この日___、その女はある男を探していた。
国を逃げるように出て、この江戸で夫婦になろうと誓った男を。
「少し出てくる」と言って、男が家を出たのが一年前。
それっきり男は帰ってこなかった。他に女ができたのだという者もいる。ならば諦めもつく。それだけ自分にはなんの価値もなかっただけのこと。
だが、残酷な記憶が女の時を止めてしまった。受け入れがたいそれが、女の足をこの日も動かす。
刻限は暮れ六つ。
紀伊国橋に女は立った。
川面には夕焼けの名残が細く揺れ、荷を積んだ小舟が、櫓の音を響かせながらゆっくりと下ってゆく。橋の上では魚を抱えた男たちが行き交い、魚河岸のあたりからは、生魚と水の入り混じった匂いが風に乗ってきた。
黒ずんだ土塀の脇を抜け、軒先に吊された提灯の明かりを横目に、細い路地へ入ってゆく。夕餉の支度をする家々から、味噌を煮る匂いや焼いた魚の煙が流れてくる。
「この男を……見かけませんでしたか」
懐から取り出した小さな紙片を、女は通りがかった老人に見せた。
老人は目を細め、しばらく考えてから首を振った。
「さあて……」
女は黙って頭を下げた。
空には、細い月が出ていた。
家々の屋根が青黒く重なり、その向こうから、寺の鐘が一つ鳴った。
やがて人気も絶えて、堀の柳が風に揺れた。
「新十郎さま」
女の心が跳ねた。
柳の下に、男がいた。
やっと会えた。女はそう思った。
二人同時に近づき、男が女の脇を通り過ぎた。
男が去っていく。
わかっていたのだ。男はいくら待っても帰らないことは。
そしてもう、女が男を待つことはできないことを知る。すれ違った男は女が待っていた男ではなかった。
だがこれでいい。
「新十郎さま、やっとあなたの妻に……」
それが女の、最後の言葉となった。




