第4巻 第4章「観測の代償
街は、静かすぎた。
音がないわけではない。風は吹いているし、どこかで何かが軋む気配もある。
だが——
“意味のある音”が存在しなかった。
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浮浪雲は立ち止まった。
目の前には、同じ顔の男がいる。
「……お前、まだ迷ってるのか」
その声は、自分のものだった。
だが、温度が違う。
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「迷ってるんやない」
浮浪雲は煙草に火をつける。
「選んでる最中や」
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もう一人の浮浪雲は、わずかに笑った。
「それが迷いって言うんやで」
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沈黙。
煙がゆっくりと空に溶けていく。
だがその空は——
どこか“固定されていない”。
まるで、誰も見ていない世界のように。
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「なあ」
もう一人が口を開く。
「お前、自分が何やと思ってる?」
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浮浪雲は答えない。
答えを持っていないからではない。
“答えが一つではない”と知っているからだ。
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「人間か?」
「観測者か?」
「それとも——ただの残りカスか?」
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その言葉に、初めて空気が歪んだ。
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「……残りカス、か」
浮浪雲は小さく笑った。
「ええ表現やな」
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「せやろ?」
もう一人の自分は、歩み寄る。
「お前はな、“選ばれた側”やない」
「選ばれなかった世界の集合体や」
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——ドクン
胸の奥が、わずかに脈打つ。
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「お前が強い理由、教えたろか?」
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距離が縮まる。
鏡のように同じ顔が、目の前に並ぶ。
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「全部、捨てられてきたからや」
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「選ばれへんかった可能性」
「消された記憶」
「なかったことにされた人間関係」
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「それら全部が、お前の中に残っとる」
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「せやから——“外側”を知ってる」
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浮浪雲は、煙を吐いた。
ゆっくりと。
逃げるでもなく、抗うでもなく。
ただ、受け止めるように。
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「ほな、聞くわ」
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視線をまっすぐに向ける。
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「その代償は、なんや?」
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一瞬、世界が止まった。
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そして——
もう一人の浮浪雲が、初めて表情を変えた。
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「簡単や」
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その声は、やけに静かだった。
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「“一つの自分”に戻れへん」
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空が、ひび割れた。
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景色がズレる。
ビルの位置が変わる。
遠くにいたはずの人影が、急に近くに現れる。
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世界が——
“重なり始めていた”。
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「もう始まっとるで」
もう一人が囁く。
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「観測が、崩れとる」
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「お前が“全部を知ろうとした”せいや」
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浮浪雲は、ゆっくりと目を閉じた。
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脳裏に浮かぶ。
無数の自分。
笑っている自分。怒っている自分。誰かを失った自分。何も持たなかった自分。
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そして——
“ここに立っている自分”。
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「……なるほどな」
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目を開く。
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「ええやん」
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その一言に、空気が変わった。
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「全部、背負ったるわ」
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「それで壊れるなら——」
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煙草を地面に落とし、踏み消す。
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「その程度の世界やったってことや」
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沈黙。
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次の瞬間——
もう一人の浮浪雲が、静かに笑った。
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「……やっぱりお前は、外れとるな」
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「せやから、おもろい」
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世界が、大きく歪む。
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境界が消え、過去と現在と別の未来が、ひとつに混ざる。
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観測は、もはや機能していない。
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だが——
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その中心に、浮浪雲は立っていた。
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ひとりで。
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いや——
無数の“自分”と共に。
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