第4巻 第三章 「分岐する現実」
夜が、裂けた。
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黒門の路地。
そのはずだった。
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だが、次の瞬間。
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浮浪雲の足元の“影”が、増えた。
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一つではない。
二つでもない。
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無数。
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「……は?」
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足を止める。
だが、止まったのは“身体”だけだった。
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意識が、滑る。
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景色が、重なる。
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同じ場所。
だが、違う“現実”。
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一つ目。
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雨が降っている黒門。
誰もいない。
店は閉まり、看板は壊れている。
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二つ目。
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昼間の黒門。
観光客で溢れ、笑い声が響く。
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三つ目。
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血の匂いがする黒門。
地面に人が倒れている。
誰も助けない。
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四つ目。
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何もない黒門。
建物すら存在しない。
ただの更地。
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「……おい」
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声が、重なって聞こえる。
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振り向く。
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そこにいたのは──
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“浮浪雲”だった。
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一人ではない。
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五人。
十人。
いや──
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数えきれない。
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それぞれが、違う顔をしている。
だが、すべて“自分”だ。
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「遅かったな」
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一人が言う。
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「ここは“分岐点”や」
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別の一人が笑う。
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「選ばなかった道が、全部ここにある」
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浮浪雲は、何も言わない。
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理解している。
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これは幻ではない。
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“現実”だ。
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「……全部、俺か」
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「せや」
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一人が近づく。
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スーツ姿。
ネクタイを締めている。
目は死んでいる。
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「看護師をやめて、普通に生きた俺や」
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別の一人。
筋肉質で、日焼けしている。
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「海外行って、帰ってこなかった俺や」
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さらに一人。
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ボロボロの服。
酒の匂い。
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「全部投げて、落ちた俺や」
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沈黙。
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浮浪雲は、目を閉じる。
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すべて、あり得た。
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すべて、“選ばなかった”。
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「……で?」
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目を開ける。
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「何が言いたい」
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その瞬間。
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空間が、歪む。
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全員が、同時にこちらを見る。
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「“どれが本物や?”」
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声が重なる。
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「どれが“お前”や?」
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心臓が、わずかに跳ねる。
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だが。
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浮浪雲は、笑った。
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「全部ちゃうな」
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一歩、前に出る。
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「全部、“途中”や」
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沈黙。
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「お前らは、“選ばれへんかった俺”や」
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指を向ける。
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「せやけどな」
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ゆっくりと、言う。
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「俺は、“今ここにおる俺”や」
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空気が、変わる。
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何人かが、顔を歪める。
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「逃げとるだけやろ」
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「現実から外れて」
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「責任からも外れて」
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「観測されへんとこに逃げただけや」
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言葉が刺さる。
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だが、浮浪雲は動かない。
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「……せやな」
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あっさり認める。
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「逃げたかもしれん」
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煙草に火をつける。
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火は、つく。
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「でもな」
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煙を吐く。
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「見たもんは、消えへん」
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全員が、止まる。
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「俺は、“朝”を見た」
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その一言で。
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空間が揺れる。
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一人が叫ぶ。
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「そんなもん存在せえへん!」
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別の一人。
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「この世界は夜や!」
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「最初からそうや!」
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「変えられへん!」
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浮浪雲は、静かに首を振る。
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「変えられるで」
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一歩、踏み出す。
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「観たらええだけや」
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沈黙。
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長い沈黙。
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そして。
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一人が、ぽつりと呟く。
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「……怖いんや」
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空気が、止まる。
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「変わるのが」
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「違う世界を見るのが」
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「自分が“違う自分”になるのが」
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その声は、小さかった。
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だが、本音だった。
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浮浪雲は、その一人を見つめる。
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「……せやろな」
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優しく言う。
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「人間やからな」
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一歩、近づく。
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「でもな」
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手を、そっと差し出す。
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「それでも、見てみたいやろ」
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その瞬間。
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ほんのわずかに。
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空が、白んだ。
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ほんの一瞬。
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だが確かに。
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“朝”が、そこにあった。
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数人が、息を呑む。
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だが。
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次の瞬間。
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世界が、揺れる。
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激しく。
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強制的に。
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光が、潰される。
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「……あかんか」
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浮浪雲が呟く。
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上から、声が落ちてくる。
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「干渉するな」
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低い声。
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冷たい声。
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「分岐は管理されている」
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「逸脱は許可されない」
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浮浪雲は、空を見上げる。
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そこには──
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“何もない”。
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だが、確かに“いる”。
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「……出てきたな」
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口元が歪む。
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「黒幕」
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声が、笑った。
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「君はまだ理解していない」
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「これは“人間の選択”だ」
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「我々は、それを整えているだけだ」
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沈黙。
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浮浪雲の目が、静かに細くなる。
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「……ほな」
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ゆっくりと言う。
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「そいつ、引きずり出したるわ」
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その瞬間。
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すべての“浮浪雲”が消えた。
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一人になる。
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夜の中で。
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だが。
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その目は、もう揺れていなかった。




