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『浮浪雲晴明事件場  第4巻』  作者: 智利


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第4巻 第二章 「もう一人の浮浪雲」


夜は、まだ終わらない。



ほんのわずかに白んだ空は、もう元に戻っていた。


朝は来なかったことにされた。


まるで最初から“存在しなかった”かのように。



「……しつこいな」


浮浪雲晴明は、黒門の裏路地を歩いていた。


人はいる。


だが、誰一人として彼を見ない。


ぶつかりそうになっても、避けない。


ただ、すり抜ける。



“存在していないもの”のように。



「慣れてきたんが腹立つわ」


小さく笑う。


その笑いは、どこか乾いていた。



角を曲がる。


いつもの小さな立ち飲み屋。


暖簾は出ている。


灯りもついている。



「……入れるか?」


試しに、手を伸ばす。


暖簾に触れる。


感触はある。



中に入る。



店主がいる。


客もいる。


笑い声もある。


酒の匂いもする。



だが──


誰も、こちらを見ない。



「まあ、そうやろな」


カウンターに座る。


椅子の軋む音は、鳴らない。



「……ん?」


そのときだった。



視界の奥に、違和感。



カウンターの一番端。



“誰か”が座っている。



酒を飲んでいる。


煙草をくわえている。


足を組んでいる。



その姿に、見覚えがあった。



いや。



見覚えどころではない。



「……は?」



それは──



“浮浪雲晴明”だった。



まったく同じ顔。


同じ体格。


同じ癖。



だが、違う。



あちらは──



“見られている”。



店主が話しかける。


客が笑う。


酒が出る。



世界の中に、ちゃんといる。



「……なんや、それ」


思わず、声が漏れる。



すると。



そいつが、ゆっくりと顔を上げた。



目が合う。



初めて、“見られた”。



その瞬間。


空気が変わる。



周囲の音が、わずかに歪む。



「……誰や、お前」



低い声。


落ち着いた声。



まるで鏡が喋っているようだった。



浮浪雲は、何も言わない。



言葉が、出てこない。



「聞いとるんや」


もう一人の浮浪雲が立ち上がる。



「ここ、俺の席やぞ」



店主も客も、気づかない。



二人だけの空間。



「……俺の席、やと?」


ようやく口が動く。



「せや」



近づいてくる。



距離が縮まる。



同じ顔が、目の前にある。



だが。



決定的に違うものがあった。



“重さ”。



あちらには、重さがある。



こちらには、ない。



「お前、軽いな」


もう一人が、ぽつりと言う。



「存在が、薄い」



ぐっと胸に何かが刺さる。



「……当たり前やろ」



浮浪雲は、笑う。



「そっちが本物や」



「俺は、外れた側や」



沈黙。



もう一人の浮浪雲は、じっと見ている。



「外れた?」



「何からや」



「……世界からや」



一瞬。



ほんのわずかに。



もう一人の表情が揺れた。



「……ほう」



煙草に火をつける。



火が、ちゃんと燃える。



「おもろいこと言うやないか」



煙を吐く。



「ほな、試してみるか」



「何をや」



「どっちが“本物”かや」



その瞬間。



店の中の空気が、重くなる。



グラスが微かに震える。



だが誰も気づかない。



「決め方は簡単や」



もう一人が言う。



「“どっちが観測されるか”や」



一歩、踏み出す。



「この世界に残るんは、一人でええ」



浮浪雲は、動かない。



だが、その目は静かだった。



「……ほな、聞くけどな」



ゆっくりと、言う。



「お前、“朝”知っとるか?」



空気が止まる。



もう一人の浮浪雲の目が、わずかに細くなる。



「……朝?」



「なんや、それ」



その一言で。



すべてが、決まった。



浮浪雲は、笑った。



深く、静かに。



「やっぱりな」



一歩、踏み出す。



「お前、“ここ”のもんや」



指で、自分の胸を軽く叩く。



「俺は違う」



「俺は、“朝を見た側”や」



その瞬間。



ほんのわずかに。



空気が、揺れた。



もう一人の浮浪雲の輪郭が、微かに歪む。



「……ふざけるな」



声が低くなる。



「見えへんもんは、存在せえへん」



「それがこの世界や」



浮浪雲は、首を振る。



「逆や」



「見ようとせんから、存在せえへんのや」



沈黙。



長い、長い沈黙。



そして。



もう一人が、笑った。



「……ええやん」



「ほな、証明してみい」



その目は、冷たい。



「お前の“朝”が、ほんまにあるんか」



その瞬間。



店の灯りが、揺れた。



外の夜が、わずかに濃くなる。



まるで。



“世界が試している”かのように。



浮浪雲は、煙草に火をつける。



火は、ついた。



「ええで」



ゆっくりと、煙を吐く。



「見せたるわ」



その目は、静かに燃えていた。



“朝を取り戻す者”の目だった。

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