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異世界湯けむり勇者 ~魔王討伐後に王国から領地も爵位ももらったけど全部妻子に継がせて前世で大好きだった源泉かけ流しの宿を異世界で本気再現したら七つの泉質を目当てに貴族も冒険者も押しかけてきます~  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 七泉の湯宿《朝霧亭》、開業までの十二日譚

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第8話♨宿にいていいと言われた日

翌朝、ユノは夜明けより早く目を覚ました。


 目を覚ました、というより、眠りが浅いまま朝になったという方が近い。


 粗末だが清潔な寝台。

 頭の下には藁ではなく、ちゃんと詰め物をした枕。

 肩にかかっているのは、破れていない毛布。

 壁の隙間風はあるが、昨夜の暖炉の熱がまだ少し残っている。


 それだけでも、これまでのユノからすれば充分すぎるほど“まともな寝場所”だった。


 だからこそ、落ち着かなかった。


 こんな場所で眠っていいのか。

 眠っているあいだに何か失敗していないか。

 朝起きたら「そこはおまえの場所ではない」と言われるのではないか。


 そういう考えが、眠りの底へ沈みきらないまま夜を漂っていた。


 やがて薄い光が窓の向こうに滲み始めると、ユノは跳ねるように起き上がった。


「……っ」


 慌てて毛布を畳む。

 寝台の皺を手で伸ばす。

 音を立てないように足を下ろす。


 先に起きて働いていなければならない。

 何か役に立たなければ、ここにいる理由がない。


 そう身体が先に動いた。


 だが小部屋の戸を開けると、廊下の向こうから、すでに別の足音がしていた。


「起きたか」


 低く落ち着いた声。

 アレクシスだった。


 朝の薄暗さの中でも、彼はもうきちんと身支度を整えている。外套はまだ羽織っていないが、袖をまくり、暖炉の火を見ていたらしい。手には水差し。まるで“宿主”の顔だった。


 ユノは反射的に背筋を伸ばした。


「す、すみません!」

「何がだ」

「え」

「起きたことがか?」

「ち、違います、その、勝手に部屋を出て……」

「出るなとは言っていない」

「…………」

「腹は減ったか」

「……え?」

「朝だ。腹は減る」

「…………た、たぶん」

「曖昧だな」

「……減ってます」

「そうか」


 それだけ言って、アレクシスは踵を返した。


「水を使うなら、表の桶だ。顔を洗ったら来い」

「は、はい!」


 怒られない。


 その事実が、ユノにはむしろ少し怖い。

 怒鳴られた方が、いつものこととして受け止められる。

 淡々と、当然みたいに“起きたか”と言われると、逆にどうしていいか分からない。


 桶の水は冷たかった。

 頬へあてると、昨夜の熱が少し引き、頭がはっきりする。


 顔を上げると、すでに外では職人たちが動き始めていた。木材を運ぶ音。石を積む音。誰かが笑い、誰かがあくびをする。まだ宿は建設途中だが、それでもこの場所は確かに“何かが始まる場所”の匂いを持っていた。


 ユノが小さく息をついて詰所へ戻ると、今度は別の声が飛んできた。


「おや、起きておったか、坊や」


 リューシェである。


 朝日に透ける金髪をざっくり後ろへ流し、椅子へ斜めに座っていた。相変わらず見た目はどう見ても若い娘だが、声の調子と座り方だけで“ただの娘ではない”と分かる類の雰囲気がある。


 その翠の目が、ユノを上から下まで見た。


「顔色は昨日よりましじゃの」

「……は、はい」

「肩はまだ強張っておる」

「す、すみません」

「なぜ謝る」

「え」

「わしは“強張っておる”と言うただけじゃ」

「…………」

「癖か」

「……たぶん」

「難儀じゃな」


 リューシェは机の上に置かれた皿を顎で示した。


「朝飯じゃ。主様が“まず食わせる”と言うておった」

「……僕、何か、します」

「食え」

「で、でも」

「食え」

「で、でも……」

「主様ー」

 と、リューシェがわざとらしく呼ぶ。

「坊やが“何かしないと食えぬ”病にかかっておるぞー」

「病ではない」

 と、アレクシスが奥から出てきた。

「ただ慣れていないだけだ」

「それを病と呼ぶこともある」

「あるのか?」

「今わしが決めた」

「便利だな、その理屈」

「長生きすると理屈は増える」


 朝食は簡素だった。


 昨日の試食の流れを引いたような、薄い塩の利いた汁。

 柔らかいパン。

 少しのチーズ。

 煮た根菜。


 派手さはない。だが湯上がりの翌朝には、妙にちょうどいい。


 ユノは、最初こそ遠慮していたが、アレクシスが当然の顔で自分の分を食べ始めるのを見て、少しずつ口をつけた。


「……うまい」

 と、小さく漏れる。

「聞こえたぞ」

 と、リューシェ。

「えっ」

「“うまい”と言うた」

「ち、違っ……」

「違わぬ。安心せい、うまいのは事実じゃ」

「そこ、からかうな」

 と、アレクシス。

「坊やがまた固くなる」

「主様、おぬし最近やたら坊やに甘いのう」

「普通だ」

「普通ではない」

「普通だ」

「はいはい」


 朝食のあと、ユノは所在なく立っていた。


 座っていていいと言われても落ち着かない。

 かといって勝手に動くのも怖い。

 何をしたら怒られず、何をしなければ役立たずと思われるのか、その線がまだ何も分からない。


 アレクシスはその様子を見て、しばらく考えたあと言った。


「では、簡単なことを頼む」

「は、はいっ!」

「そこに積んである布を分けてくれ」

「布……ですか」

「ああ。寝台用、拭い布、厨房用、窓掛け用。見ればだいたい分かる」

「わ、分かるでしょうか」

「分からなければ訊け」

「……はい」


 ユノは布束の前へ座り込み、おそるおそる広げ始めた。


 荒い麻布。

 柔らかな織り布。

 厚手の窓掛け向きの布。

 吸水の良い薄布。


 触ってみると、確かに違いは分かる。

 いや、むしろユノはこういう“手触りの違い”に妙に敏かった。これまでだって衣服や布を扱う雑用は多かったし、雑に扱えば何が怒られるかも、痛いほど知っている。


 気がつけば、四種類に分け終えていた。


 リューシェが覗き込む。


「ほう」

「……ち、違ってたら、すみません」

「いや、合っておる」

「え」

「主様」

「見た」

 と、アレクシス。

「窓掛け布と寝台布を分けた理由は?」

 ユノはびくりとした。試されているのだと思う。

「そ、その……こっちの方が、厚いのに、肌に引っかからなくて……」

「続けろ」

「寝るときは……こっちの方が、いいかなって……。でも窓に下げるなら、厚い方が……風を止めるかと」

「その通りだ」

「…………」

「何だその顔は」

「え、あ、え」

「褒められ慣れておらぬのじゃろ」

 と、リューシェ。

「主様、たまには“よくやった”とか言うてやれ」

「今ので充分ではないか」

「充分ではない。おぬしは言葉が足りん」

「そうか?」

「そうじゃ」


 アレクシスは少し考え、ユノへ向き直った。


「……よく分けた」

「っ……は、はい」


 たったそれだけで、ユノの耳まで赤くなる。

 リューシェがそれを見て、にやりとした。


「扱いやすいのう」

「からかうな」

「面白いものを面白いと言うて何が悪い」

「大体おまえは」

「おぬしよりは愛想があるぞ」

「否定できませんね」

 と、ベルノルトが帳簿の向こうで言った。

「おい」


 それからも、ユノには簡単な仕事が次々に与えられた。


 机を拭く。

 食器を並べる。

 湯桶を運ぶ。

 布を畳む。

 干した薬草を日陰へ移す。

 作業机の上を整える。


 どれも小さな仕事だ。

 だがユノは、驚くほど覚えが早かった。


「主様」

 と、リューシェが昼前に言った。

「何だ」

「坊や、なかなかできるぞ」

「見ている」

「掃除の筋がいい」

「筋?」

 と、ベルノルト。

「そんなものがあるんですか」

「ある」

 と、アレクシス。

「拭く順番、道具の置き方、埃の逃がし方、音の立てなさ」

「そんなところまで」

「見る」

「最近、本当に“見る”しか言ってないですね」


 ユノは、机の上の細かい道具を並べ直していた。

 並べ方が、妙にきれいなのだ。

 ただ整っているだけではない。次に使う者が手を伸ばしやすい向きに、さりげなく揃っている。


 アレクシスがそれを見て、ぽつりと言った。


「接客も覚えるかもしれんな」

「え?」

 と、ユノ。

「せ、接客?」

「嫌か?」

「い、嫌というか……僕、そんな……」

「見た目は向いておる」

 と、リューシェが間髪入れずに言う。

「主様、この坊や、看板係にぴったりじゃな」

「やめてください!」

 ユノが即座に叫ぶ。

「な、なんでですか!」

「なんで、と言われても、見れば分かる」

「分からなくていいです!」

「いや、分かるぞ」

 と、ベルノルト。

「黙って立ってるだけで、上等な宿の看板娘みたいです」

「ベルノルトさんまで!?」

「看板娘ではない」

 と、アレクシスが言った。

 ユノがほっとした顔をする。

「看板係だ」

「そこは否定してくださいよ!」

「娘ではないだろう」

「そこだけ正確なんですね!?」

「正確さは大事だ」

「主様、その理屈で押し切るの、本当に卑怯じゃぞ」

 と、リューシェが笑った。


 昼の軽食のあと、事件が起きた。


 事件といっても戦いではない。

 だがユノにとっては、十分に大事件だった。


 詰所の中で、湯飲みの一つを落としたのだ。


 かちゃん、と乾いた音。

 薄い陶器の縁が、見事に欠ける。


「……っ」


 ユノの顔から血の気が引く。


 次の瞬間にはもう、床へ膝をつき、割れた破片をかき集めていた。


「す、すみません……っ、すみません、ごめんなさい、僕、すぐ、片づけて――」

「手を切る」

 と、アレクシス。

「え」

「布を使え」

「で、でも、割ってしまって」

「割れたな」

「……はい」

「怪我はないか」

「え、あ……」

「ないかと聞いた」

「……な、ないです」

「ならそれでいい。片づける時だけ気をつけろ」

「…………」

「何だ」

「お、怒らないんですか」

「なぜ怒る」

「だって、割ったから……」

「使えば割れることもある」

「でも……」

「わざとではないだろう」

「……はい」

「なら次から気をつければいい」

「…………」

「坊や」

 と、リューシェ。

「主様はな、湯を汚されると怖いが、茶器が一つ欠けたくらいではそこまで怒らん」

「比較対象がおかしいですよ!」

 と、ベルノルト。

「でも、たぶん正しいんですよね……」

「正しい」

 と、アレクシス。

「茶器は替えがある。人の手は替えがない」

「……っ」


 ユノはまた、何も言えなくなる。


 その代わり、破片を包んだ布を抱えたまま、目元をぎゅっと固くした。泣きはしない。だが泣く少し手前の顔だ。


 リューシェが肩をすくめる。


「のう主様」

「何だ」

「おぬし、そういう時だけ妙に良いことを言うの、ずるいぞ」

「ずるいか?」

「ずるい」

「別に狙ってはいない」

「狙っておらぬから余計にじゃ」


 午後には、配膳の真似事も始まった。


 まだ本当の食堂もない。

 だが職人たちや出入りの者へ茶と軽食を出すことはある。

 ユノに盆を持たせてみると、これが驚くほど安定していた。


「軽い」

 と、アレクシス。

「何がです?」

 と、ベルノルト。

「足音だ」

「そこ見てるんですね」

「見る」

「やっぱりそれなんだ」

「配膳でどたどた歩く者は客を疲れさせる」

「そこまで考えるんですか」

「宿だぞ」

「便利な言葉ですね……宿」


 ユノは緊張でがちがちだったが、それでも盆を落とさず、声も小さいなりに聞き取れる程度には出せた。


「お、お茶です」

「おう、ありがとよ」

 と、木工親方ヘルマンが受け取り、

「ほう、昨日の拾い子か」

 と、石工頭ドミニクが言い、

「見た目が娘すぎるな」

 と、鍛冶師マルタが笑う。


「言わないでください……」

 と、ユノがしぼんだ声で言うと、

「声まで可愛いのう」

 と、リューシェが追い打ちをかける。


「やめてください!」

「よいではないか。武器になるぞ」

「武器にしたくありません!」

「主様、この坊や、本当に看板係向きじゃ」

「……確かに、顔は人を呼ぶ」

 と、アレクシスが真面目に言う。

「主様まで!?」

「だがそれで全部を済ませる気はない」

「そこだけちゃんとしてるの、逆にずるいですね」

 と、ベルノルト。


 日が傾く頃には、ユノの表情は朝より少しだけ柔らかくなっていた。


 まだびくびくはしている。

 物音に肩を揺らすし、人に呼ばれるとすぐ背筋が固くなる。

 けれど、完全に怯えきった顔ばかりではなくなっていた。


 何かを任される。

 やってみる。

 失敗しても、すぐには捨てられない。

 うまくいけば、短くても「いい」と言われる。


 その積み重ねが、少しずつユノの中の“ここにいてはいけない”を薄くしていた。


 夕方、暖炉の火が強くなり始めた頃。


 アレクシスは帳簿と布の束を片づけ終え、戸口近くに立つユノへ向き直った。


「話がある」

「は、はいっ」


 ユノの顔がまた緊張で固くなる。


 リューシェが椅子に深く座りながら小さく息をついた。


「そう固くなるな、坊や。追い出すなら主様はもっと面倒くさくない言い方をする」

「どういう意味だ」

「つまり、おぬしは変に前置きが多い時の方が真面目な話をする」

「そうか?」

「そうじゃ」

「それは少し分かるかもしれません」

 と、ベルノルト。

「おぬしまでか」


 アレクシスは一拍置いてから、短く告げた。


「ここにいたければいろ」


 ユノは瞬いた。


「……え」

「働くなら賃金も出す」

「……え」

「逃げたければ止めん」

「…………」

「返事は今でなくていい」

「…………」

「ただし、明日もここにいるなら、仕事は頼む」

「……ぼ、僕……」

「嫌か?」

「ち、違……」

 ユノの喉が詰まる。

「違います、違いますけど、あの、僕、そんな、いて、いいんですか」

「昨日も言った」

 と、アレクシス。

「決めるのはおまえだ」

「でも、僕、何も……」

「何も、ではない」

「え」

「布を分けた。茶器を片づけた。配膳もした」

「それは……当たり前の……」

「当たり前にできる者は貴重だ」

「…………」

「宿にはそういう者が要る」


 ユノの目に、また涙が浮いた。


 泣くまいと必死にこらえているのが、かえって分かる。


 リューシェが、珍しく優しい声で言った。


「のう、坊や」

「……はい」

「おぬし、ここで何か一つ失敗したくらいで、明日いきなり捨てられると思うておるじゃろ」

「…………」

「主様は、湯を無茶苦茶にされぬ限り、そういうことはせぬ」

「比較対象がやっぱりおかしいです!」

 と、ベルノルト。

「でもたぶん一番分かりやすい」

「おぬしも慣れてきたのう」

「嬉しくありません」


 アレクシスは、泣きそうな顔のユノを見て、少しだけ声を落とした。


「仕事をして、飯を食って、湯に入って、寝ろ。そうしてから考えればいい」

「……はい」

「そのくらいは、ここでしていい」

「……はい……」


 ユノは泣きそうになりながら、何度も頷いた。


 言葉にならないのだろう。

 “いていい”と言われることに、身体の方がまだ追いつかない。


 だからその代わり、ぎゅっと拳を握って、必死にうなずく。


「……よし」

 と、アレクシス。

「では明日からは、もう少し仕事を増やす」

「今そうなるんですね!?」

 と、ベルノルト。

「当然だ」

「主様、おぬしそういうところ、本当に容赦ないのう」

「働くなら仕事はいるだろう」

「正論ではある」

「正論ですが、もう少しこう、余韻とか……」

「余韻は飯の時にやれ」

「最近の旦那様、本当に全部が宿へ繋がってるな……」


 リューシェは笑いながら、頬杖をついた。


「まあ、よいではないか。坊や」

「……はい」

「明日から忙しいぞ」

「……はい」

「看板係の修業も始まるしな」

「始まりません!」

 ユノが即座に叫ぶ。

「まだ言うんですか!?」

「当然じゃ。見た目は武器だ」

「武器にしません!」

「主様、どう思う」

「接客の覚えは良さそうだ」

「肯定した!」

「だからそういう意味ではなく!」

「もう遅いのう」

「遅くありません!」


 詰所の中に、小さな笑いが広がった。


 昨日まで、その笑いの輪の外にいたはずのユノも、今はちゃんとその中にいる。

 まだ戸惑いながら。

 まだ泣きそうになりながら。

 それでも確かに、中にいる。


 宿はまだ建っていない。


 だが“また来たい場所”になる前に、ここはもう“いていい場所”になり始めていた。

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