第8話♨宿にいていいと言われた日
翌朝、ユノは夜明けより早く目を覚ました。
目を覚ました、というより、眠りが浅いまま朝になったという方が近い。
粗末だが清潔な寝台。
頭の下には藁ではなく、ちゃんと詰め物をした枕。
肩にかかっているのは、破れていない毛布。
壁の隙間風はあるが、昨夜の暖炉の熱がまだ少し残っている。
それだけでも、これまでのユノからすれば充分すぎるほど“まともな寝場所”だった。
だからこそ、落ち着かなかった。
こんな場所で眠っていいのか。
眠っているあいだに何か失敗していないか。
朝起きたら「そこはおまえの場所ではない」と言われるのではないか。
そういう考えが、眠りの底へ沈みきらないまま夜を漂っていた。
やがて薄い光が窓の向こうに滲み始めると、ユノは跳ねるように起き上がった。
「……っ」
慌てて毛布を畳む。
寝台の皺を手で伸ばす。
音を立てないように足を下ろす。
先に起きて働いていなければならない。
何か役に立たなければ、ここにいる理由がない。
そう身体が先に動いた。
だが小部屋の戸を開けると、廊下の向こうから、すでに別の足音がしていた。
「起きたか」
低く落ち着いた声。
アレクシスだった。
朝の薄暗さの中でも、彼はもうきちんと身支度を整えている。外套はまだ羽織っていないが、袖をまくり、暖炉の火を見ていたらしい。手には水差し。まるで“宿主”の顔だった。
ユノは反射的に背筋を伸ばした。
「す、すみません!」
「何がだ」
「え」
「起きたことがか?」
「ち、違います、その、勝手に部屋を出て……」
「出るなとは言っていない」
「…………」
「腹は減ったか」
「……え?」
「朝だ。腹は減る」
「…………た、たぶん」
「曖昧だな」
「……減ってます」
「そうか」
それだけ言って、アレクシスは踵を返した。
「水を使うなら、表の桶だ。顔を洗ったら来い」
「は、はい!」
怒られない。
その事実が、ユノにはむしろ少し怖い。
怒鳴られた方が、いつものこととして受け止められる。
淡々と、当然みたいに“起きたか”と言われると、逆にどうしていいか分からない。
桶の水は冷たかった。
頬へあてると、昨夜の熱が少し引き、頭がはっきりする。
顔を上げると、すでに外では職人たちが動き始めていた。木材を運ぶ音。石を積む音。誰かが笑い、誰かがあくびをする。まだ宿は建設途中だが、それでもこの場所は確かに“何かが始まる場所”の匂いを持っていた。
ユノが小さく息をついて詰所へ戻ると、今度は別の声が飛んできた。
「おや、起きておったか、坊や」
リューシェである。
朝日に透ける金髪をざっくり後ろへ流し、椅子へ斜めに座っていた。相変わらず見た目はどう見ても若い娘だが、声の調子と座り方だけで“ただの娘ではない”と分かる類の雰囲気がある。
その翠の目が、ユノを上から下まで見た。
「顔色は昨日よりましじゃの」
「……は、はい」
「肩はまだ強張っておる」
「す、すみません」
「なぜ謝る」
「え」
「わしは“強張っておる”と言うただけじゃ」
「…………」
「癖か」
「……たぶん」
「難儀じゃな」
リューシェは机の上に置かれた皿を顎で示した。
「朝飯じゃ。主様が“まず食わせる”と言うておった」
「……僕、何か、します」
「食え」
「で、でも」
「食え」
「で、でも……」
「主様ー」
と、リューシェがわざとらしく呼ぶ。
「坊やが“何かしないと食えぬ”病にかかっておるぞー」
「病ではない」
と、アレクシスが奥から出てきた。
「ただ慣れていないだけだ」
「それを病と呼ぶこともある」
「あるのか?」
「今わしが決めた」
「便利だな、その理屈」
「長生きすると理屈は増える」
朝食は簡素だった。
昨日の試食の流れを引いたような、薄い塩の利いた汁。
柔らかいパン。
少しのチーズ。
煮た根菜。
派手さはない。だが湯上がりの翌朝には、妙にちょうどいい。
ユノは、最初こそ遠慮していたが、アレクシスが当然の顔で自分の分を食べ始めるのを見て、少しずつ口をつけた。
「……うまい」
と、小さく漏れる。
「聞こえたぞ」
と、リューシェ。
「えっ」
「“うまい”と言うた」
「ち、違っ……」
「違わぬ。安心せい、うまいのは事実じゃ」
「そこ、からかうな」
と、アレクシス。
「坊やがまた固くなる」
「主様、おぬし最近やたら坊やに甘いのう」
「普通だ」
「普通ではない」
「普通だ」
「はいはい」
朝食のあと、ユノは所在なく立っていた。
座っていていいと言われても落ち着かない。
かといって勝手に動くのも怖い。
何をしたら怒られず、何をしなければ役立たずと思われるのか、その線がまだ何も分からない。
アレクシスはその様子を見て、しばらく考えたあと言った。
「では、簡単なことを頼む」
「は、はいっ!」
「そこに積んである布を分けてくれ」
「布……ですか」
「ああ。寝台用、拭い布、厨房用、窓掛け用。見ればだいたい分かる」
「わ、分かるでしょうか」
「分からなければ訊け」
「……はい」
ユノは布束の前へ座り込み、おそるおそる広げ始めた。
荒い麻布。
柔らかな織り布。
厚手の窓掛け向きの布。
吸水の良い薄布。
触ってみると、確かに違いは分かる。
いや、むしろユノはこういう“手触りの違い”に妙に敏かった。これまでだって衣服や布を扱う雑用は多かったし、雑に扱えば何が怒られるかも、痛いほど知っている。
気がつけば、四種類に分け終えていた。
リューシェが覗き込む。
「ほう」
「……ち、違ってたら、すみません」
「いや、合っておる」
「え」
「主様」
「見た」
と、アレクシス。
「窓掛け布と寝台布を分けた理由は?」
ユノはびくりとした。試されているのだと思う。
「そ、その……こっちの方が、厚いのに、肌に引っかからなくて……」
「続けろ」
「寝るときは……こっちの方が、いいかなって……。でも窓に下げるなら、厚い方が……風を止めるかと」
「その通りだ」
「…………」
「何だその顔は」
「え、あ、え」
「褒められ慣れておらぬのじゃろ」
と、リューシェ。
「主様、たまには“よくやった”とか言うてやれ」
「今ので充分ではないか」
「充分ではない。おぬしは言葉が足りん」
「そうか?」
「そうじゃ」
アレクシスは少し考え、ユノへ向き直った。
「……よく分けた」
「っ……は、はい」
たったそれだけで、ユノの耳まで赤くなる。
リューシェがそれを見て、にやりとした。
「扱いやすいのう」
「からかうな」
「面白いものを面白いと言うて何が悪い」
「大体おまえは」
「おぬしよりは愛想があるぞ」
「否定できませんね」
と、ベルノルトが帳簿の向こうで言った。
「おい」
それからも、ユノには簡単な仕事が次々に与えられた。
机を拭く。
食器を並べる。
湯桶を運ぶ。
布を畳む。
干した薬草を日陰へ移す。
作業机の上を整える。
どれも小さな仕事だ。
だがユノは、驚くほど覚えが早かった。
「主様」
と、リューシェが昼前に言った。
「何だ」
「坊や、なかなかできるぞ」
「見ている」
「掃除の筋がいい」
「筋?」
と、ベルノルト。
「そんなものがあるんですか」
「ある」
と、アレクシス。
「拭く順番、道具の置き方、埃の逃がし方、音の立てなさ」
「そんなところまで」
「見る」
「最近、本当に“見る”しか言ってないですね」
ユノは、机の上の細かい道具を並べ直していた。
並べ方が、妙にきれいなのだ。
ただ整っているだけではない。次に使う者が手を伸ばしやすい向きに、さりげなく揃っている。
アレクシスがそれを見て、ぽつりと言った。
「接客も覚えるかもしれんな」
「え?」
と、ユノ。
「せ、接客?」
「嫌か?」
「い、嫌というか……僕、そんな……」
「見た目は向いておる」
と、リューシェが間髪入れずに言う。
「主様、この坊や、看板係にぴったりじゃな」
「やめてください!」
ユノが即座に叫ぶ。
「な、なんでですか!」
「なんで、と言われても、見れば分かる」
「分からなくていいです!」
「いや、分かるぞ」
と、ベルノルト。
「黙って立ってるだけで、上等な宿の看板娘みたいです」
「ベルノルトさんまで!?」
「看板娘ではない」
と、アレクシスが言った。
ユノがほっとした顔をする。
「看板係だ」
「そこは否定してくださいよ!」
「娘ではないだろう」
「そこだけ正確なんですね!?」
「正確さは大事だ」
「主様、その理屈で押し切るの、本当に卑怯じゃぞ」
と、リューシェが笑った。
昼の軽食のあと、事件が起きた。
事件といっても戦いではない。
だがユノにとっては、十分に大事件だった。
詰所の中で、湯飲みの一つを落としたのだ。
かちゃん、と乾いた音。
薄い陶器の縁が、見事に欠ける。
「……っ」
ユノの顔から血の気が引く。
次の瞬間にはもう、床へ膝をつき、割れた破片をかき集めていた。
「す、すみません……っ、すみません、ごめんなさい、僕、すぐ、片づけて――」
「手を切る」
と、アレクシス。
「え」
「布を使え」
「で、でも、割ってしまって」
「割れたな」
「……はい」
「怪我はないか」
「え、あ……」
「ないかと聞いた」
「……な、ないです」
「ならそれでいい。片づける時だけ気をつけろ」
「…………」
「何だ」
「お、怒らないんですか」
「なぜ怒る」
「だって、割ったから……」
「使えば割れることもある」
「でも……」
「わざとではないだろう」
「……はい」
「なら次から気をつければいい」
「…………」
「坊や」
と、リューシェ。
「主様はな、湯を汚されると怖いが、茶器が一つ欠けたくらいではそこまで怒らん」
「比較対象がおかしいですよ!」
と、ベルノルト。
「でも、たぶん正しいんですよね……」
「正しい」
と、アレクシス。
「茶器は替えがある。人の手は替えがない」
「……っ」
ユノはまた、何も言えなくなる。
その代わり、破片を包んだ布を抱えたまま、目元をぎゅっと固くした。泣きはしない。だが泣く少し手前の顔だ。
リューシェが肩をすくめる。
「のう主様」
「何だ」
「おぬし、そういう時だけ妙に良いことを言うの、ずるいぞ」
「ずるいか?」
「ずるい」
「別に狙ってはいない」
「狙っておらぬから余計にじゃ」
午後には、配膳の真似事も始まった。
まだ本当の食堂もない。
だが職人たちや出入りの者へ茶と軽食を出すことはある。
ユノに盆を持たせてみると、これが驚くほど安定していた。
「軽い」
と、アレクシス。
「何がです?」
と、ベルノルト。
「足音だ」
「そこ見てるんですね」
「見る」
「やっぱりそれなんだ」
「配膳でどたどた歩く者は客を疲れさせる」
「そこまで考えるんですか」
「宿だぞ」
「便利な言葉ですね……宿」
ユノは緊張でがちがちだったが、それでも盆を落とさず、声も小さいなりに聞き取れる程度には出せた。
「お、お茶です」
「おう、ありがとよ」
と、木工親方ヘルマンが受け取り、
「ほう、昨日の拾い子か」
と、石工頭ドミニクが言い、
「見た目が娘すぎるな」
と、鍛冶師マルタが笑う。
「言わないでください……」
と、ユノがしぼんだ声で言うと、
「声まで可愛いのう」
と、リューシェが追い打ちをかける。
「やめてください!」
「よいではないか。武器になるぞ」
「武器にしたくありません!」
「主様、この坊や、本当に看板係向きじゃ」
「……確かに、顔は人を呼ぶ」
と、アレクシスが真面目に言う。
「主様まで!?」
「だがそれで全部を済ませる気はない」
「そこだけちゃんとしてるの、逆にずるいですね」
と、ベルノルト。
日が傾く頃には、ユノの表情は朝より少しだけ柔らかくなっていた。
まだびくびくはしている。
物音に肩を揺らすし、人に呼ばれるとすぐ背筋が固くなる。
けれど、完全に怯えきった顔ばかりではなくなっていた。
何かを任される。
やってみる。
失敗しても、すぐには捨てられない。
うまくいけば、短くても「いい」と言われる。
その積み重ねが、少しずつユノの中の“ここにいてはいけない”を薄くしていた。
夕方、暖炉の火が強くなり始めた頃。
アレクシスは帳簿と布の束を片づけ終え、戸口近くに立つユノへ向き直った。
「話がある」
「は、はいっ」
ユノの顔がまた緊張で固くなる。
リューシェが椅子に深く座りながら小さく息をついた。
「そう固くなるな、坊や。追い出すなら主様はもっと面倒くさくない言い方をする」
「どういう意味だ」
「つまり、おぬしは変に前置きが多い時の方が真面目な話をする」
「そうか?」
「そうじゃ」
「それは少し分かるかもしれません」
と、ベルノルト。
「おぬしまでか」
アレクシスは一拍置いてから、短く告げた。
「ここにいたければいろ」
ユノは瞬いた。
「……え」
「働くなら賃金も出す」
「……え」
「逃げたければ止めん」
「…………」
「返事は今でなくていい」
「…………」
「ただし、明日もここにいるなら、仕事は頼む」
「……ぼ、僕……」
「嫌か?」
「ち、違……」
ユノの喉が詰まる。
「違います、違いますけど、あの、僕、そんな、いて、いいんですか」
「昨日も言った」
と、アレクシス。
「決めるのはおまえだ」
「でも、僕、何も……」
「何も、ではない」
「え」
「布を分けた。茶器を片づけた。配膳もした」
「それは……当たり前の……」
「当たり前にできる者は貴重だ」
「…………」
「宿にはそういう者が要る」
ユノの目に、また涙が浮いた。
泣くまいと必死にこらえているのが、かえって分かる。
リューシェが、珍しく優しい声で言った。
「のう、坊や」
「……はい」
「おぬし、ここで何か一つ失敗したくらいで、明日いきなり捨てられると思うておるじゃろ」
「…………」
「主様は、湯を無茶苦茶にされぬ限り、そういうことはせぬ」
「比較対象がやっぱりおかしいです!」
と、ベルノルト。
「でもたぶん一番分かりやすい」
「おぬしも慣れてきたのう」
「嬉しくありません」
アレクシスは、泣きそうな顔のユノを見て、少しだけ声を落とした。
「仕事をして、飯を食って、湯に入って、寝ろ。そうしてから考えればいい」
「……はい」
「そのくらいは、ここでしていい」
「……はい……」
ユノは泣きそうになりながら、何度も頷いた。
言葉にならないのだろう。
“いていい”と言われることに、身体の方がまだ追いつかない。
だからその代わり、ぎゅっと拳を握って、必死にうなずく。
「……よし」
と、アレクシス。
「では明日からは、もう少し仕事を増やす」
「今そうなるんですね!?」
と、ベルノルト。
「当然だ」
「主様、おぬしそういうところ、本当に容赦ないのう」
「働くなら仕事はいるだろう」
「正論ではある」
「正論ですが、もう少しこう、余韻とか……」
「余韻は飯の時にやれ」
「最近の旦那様、本当に全部が宿へ繋がってるな……」
リューシェは笑いながら、頬杖をついた。
「まあ、よいではないか。坊や」
「……はい」
「明日から忙しいぞ」
「……はい」
「看板係の修業も始まるしな」
「始まりません!」
ユノが即座に叫ぶ。
「まだ言うんですか!?」
「当然じゃ。見た目は武器だ」
「武器にしません!」
「主様、どう思う」
「接客の覚えは良さそうだ」
「肯定した!」
「だからそういう意味ではなく!」
「もう遅いのう」
「遅くありません!」
詰所の中に、小さな笑いが広がった。
昨日まで、その笑いの輪の外にいたはずのユノも、今はちゃんとその中にいる。
まだ戸惑いながら。
まだ泣きそうになりながら。
それでも確かに、中にいる。
宿はまだ建っていない。
だが“また来たい場所”になる前に、ここはもう“いていい場所”になり始めていた。




