第7話♨奴隷市の少年
宿というものは、湯と飯と寝床だけでは回らない。
それをアレクシスはよく知っていた。
いや、正確に言えば、「知っていた」というより、宿づくりを進めるうちに嫌でも見えてきたのだ。湯殿の配置を決め、食堂の火の回り方を考え、客室の寝台の高さにまで口を出していると、自然にそれ以外のものが目につく。
シーツはどの布地にするか。
貴族用の部屋に置く水差しの形はどうするか。
湯治客の長逗留に耐える丈夫な寝間着は何枚要るか。
食堂の卓布は染み抜きがしやすいか。
湯上がり用の軽い室内履きは革か、厚布か。
浴用の桶は何個いる。
皿は割れにくさを優先するか、見栄えを取るか。
窓掛けは冬の冷えをどの程度防ぐ素材にするか。
建物と湯と飯に本気を出せば出すほど、周辺の細かい品々が山のように増えていく。
「宿主というのは、思ったより雑貨屋に近いのう」
と、リューシェは言った。
「雑貨屋ではない」
と、アレクシス。
「だが布と木桶と皿と針と燭台と枕の詰め物の話ばかりしておるではないか」
「必要だからだ」
「おぬし、本当にその一言で全部押し切るな」
「押し切れているなら問題ない」
「押し切られておる側が問題だと思うぞ」
そんなわけでこの日、アレクシスとリューシェは、山を下りて最寄りの街へ来ていた。
王都のように華やかな場所ではない。
鉱山道と街道が交わる、中規模の城下町にも満たない町だ。だが商いの匂いは濃く、荷車の軋む音と人声が石畳に反響し、広場には布地商、鍛冶屋、陶工、干し肉売り、酪農品の店が並ぶ。旅人向けの宿や酒場もあり、表通りはなかなかに賑やかだった。
春先の市場には、冬を越えた者たち特有の荒っぽい活気がある。
冬の間に傷んだ道具を買い換える者。
春の旅に向けて荷を整える商人。
塩、酢、布、鉄釘、毛布、干し果実、薬草束、燭台、羊毛、皮、刷毛、箒。
売り手も買い手も声が大きく、値切るのも怒鳴るのも珍しくない。
アレクシスはその喧騒の中でも、まず布地の店で足を止めていた。
「この厚織りは悪くない」
と、彼は指先で布をつまむ。
「客室の窓掛けに使える」
「色気のない第一声じゃなあ」
と、リューシェ。
「普通は“これは上質だ”とか言うところではないか」
「上質かどうかより、朝の冷気をどれだけ止めるかだ」
「やはり色気がない」
「宿に必要なのは色気より保温だ」
「そういうところ、本当に一貫しておるのう」
布地商がへこへこと頭を下げる。
「旦那様、お目が高い。それは北織りでして、寒地向けに密に打っております」
「洗った後の縮みは?」
「二度水を通してあります」
「ほう」
「ですが、お高くはなります」
「構わん。ただし全部をそれにする気はない。湯治客の部屋はもう少し丈夫で手入れの楽な布に分ける」
「分けるんですね」
と、リューシェ。
「当然だ」
「はいはい、当然当然」
寝具の布、卓布、客用の室内着に向く軽布、厨房用の拭い布。
次々に候補が選ばれ、控えていたベルノルトが荷札へ書き込んでいく。
「旦那様」
「何だ」
「もう荷車一台分を越えました」
「足りるか?」
「量は足ります。こちらの処理能力が足りません」
「頑張れ」
「その一言で済ませないでください」
次は陶器屋だ。
大皿、浅鉢、汁椀、酒杯、湯上がりの水差し。
大雑把に見ればただの器の山だが、アレクシスは一つ一つ持ち上げて重さを確かめる。
「これは重い」
「安定していい器ですよ」
と、陶工。
「湯上がりの年寄りが片手で持つには重い」
「そこを見ます?」
「見る」
「最近、本当にそれしか聞かんのう」
と、リューシェ。
「“見る”“分ける”“必要だ”」
「便利な言葉だ」
「便利というか、多用しすぎです」
と、ベルノルト。
「旦那様、いつかそのうち“必要だ”だけで会話を成立させそうで怖いです」
「必要か?」
「そういう遊びをしないでください」
そんなふうに表の市場を一通り回ったところで、ベルノルトが手元の控えを見て顔を上げた。
「残るは、台所の細かい備品と、使用人用の服地、寝台の詰め物、桶に使う木材の契約、それから――」
「それから?」
「もう一つ、表には出にくい品の扱いをする商区があります」
「裏市場か」
と、リューシェ。
「まあ、そういう言い方になりますね」
と、ベルノルトはやや言葉を濁した。
「表でさばけない古道具、流れ品、型落ちの武具、時には身元の怪しい従者や奉公人の斡旋まで……」
「嫌な響きだな」
と、アレクシス。
「嫌な場所ですよ」
「なら行かなくていいのでは?」
「桶の金具や、安くて丈夫な雑器がそこに流れることもあるんです」
「……面倒だな」
「宿づくりは面倒でできております」
「最近おまえ、言い返しが上手くなったな」
「旦那様のせいです」
裏市場は、表通りから一本外れた先にあった。
石畳も少し荒れ、軒先の天幕はくすみ、店の看板も表ほど整っていない。香辛料と獣脂と湿った木と、人の溜め息みたいな匂いが混ざっている。表の市が生きるための活気なら、こちらは食い繋ぐための雑多さだった。
古びた銀器、欠けた陶皿、修繕済みの椅子、型遅れの鎧、訳ありの家畜、質流れの装身具。
売り手も買い手も目つきが少しだけ鋭い。
ここでは“良い品”より“まだ使えるもの”に価値がある。
「気に入らん空気じゃの」
と、リューシェ。
「同感だ」
と、アレクシス。
「さっさと済ませるぞ」
「湯気の匂いがせぬ場所に長居する意味もないしな」
「基準がそれなの、もう治らんのう」
桶の金具と雑器を見て回る途中だった。
裏市場のさらに奥、石壁と壁の間にできたような細い通りに、人だかりがあった。
笑い声。
値を呼ぶ声。
品定めするような視線。
その音の質が、アレクシスの足を止めた。
「……何だ、あれは」
と、彼が低く言う。
ベルノルトが顔をしかめた。
「見ない方が」
「何だ」
「奴隷市です。小規模な」
「まだやっているのか」
「法では制限されていますが、借財の形を変えたり、身元保証つき奉公の名で流したり……完全には消えておりません」
「胸糞が悪いのう」
と、リューシェ。
「そういう顔をするな、主様。おぬし、そういう顔をした時は大抵ろくなことにならん」
「ろくなことにならないのは向こうだ」
「やめろ。本当にやめろ。こっちは書類仕事が増える」
「増やす気か?」
「今のやり取りで“増えない可能性”が見えますか?」
「見えんな」
「見えないですね……」
だが、その時にはもう遅かった。
アレクシスの視線は、人垣の向こう、木箱を積んだ台の前に座らされている一人へ止まっていた。
小柄な身体。
肩にかかる栗色の髪。
痩せてはいるが、ひどくやつれているというほどではない。
俯きがちで、両手を揃え、視線を上げない。
見た目だけなら、どう見ても美少女だった。
いや、少女と言っていいほど幼くはない。
年の頃は十三、四。
だが、それがかえって危うい。
肌は白く、目元は繊細で、口元はまだ子どもっぽく、しかし周囲の男たちの視線は、明らかにそういう意味ではなかった。
そしてアレクシスは、その子の首筋と肩の線、手の骨ばり方、腰の付き方を一目見て理解した。
――男の子だ。
だが、その見た目ゆえに、周囲は“そう見ていない”。
台の脇に立っている売人が、下卑た笑みを浮かべて声を張り上げていた。
「ほら見ろよ、この顔立ちだ! 奉公でも小間使いでも、貴族の遊び相手でも、いくらでも売り先がある! 年も若い、従順だ、口数も少ねえ! 値は張るが、損はさせねえ!」
人垣の中から、気色の悪い笑いが上がる。
誰かが値を口にし、誰かがもっと近くで顔を見せろと言う。
少年はますます身体を固くし、目を上げない。
アレクシスの顔から、表情が消えた。
「主様」
と、リューシェがすぐに気づく。
「言っておくが、今のおぬし、完全に昔の顔じゃぞ」
「分かっている」
「分かっていてそのまま行く気か」
「あれを見て、行かない理由があるか」
「ないが、面倒は増える」
「知っている」
「本当に“知っている”で全部済ませるのう」
ベルノルトが小声で悲鳴を上げる。
「待ってください、待ってください、旦那様、今のは本当に待ってください」
「何をだ」
「その顔で突っ込むと、絶対に穏便に終わりません」
「穏便に終わらせる」
「全然信用できません」
「失礼だな」
「最近一番信用できない時の声です!」
アレクシスは人垣をかき分けて前へ出た。
売人が、上客でも来たと勘違いしたらしく、顔を上げる。
「へい旦那、見る目がありますね。こいつは上物ですよ――」
「値は?」
と、アレクシス。
売人が一瞬きょとんとした。
あまりに間髪入れず、本気の声で訊かれたからだろう。
「へ?」
「値だ」
「そ、そりゃあ……」
売人はアレクシスの身なりを見た。上質だが派手ではない。だが剣と立ち姿から、ただの旅人ではないと分かる。少し吹っかけても払えると踏んだのか、舌を湿らせる。
「安くはないですぜ。見た通り珍しい品で――」
「珍しい“品”ではない」
アレクシスの声が冷えた。
「……だが、今は値を訊いている」
周囲の空気が少しだけ変わる。
売人もそれを感じたのか、愛想笑いを引きつらせながら、相場よりかなり高い額を口にした。
ベルノルトが後ろで「高い!」と小さく呻く。
リューシェはため息をついた。
「ふっかけておるの」
「だろうな」
と、アレクシス。
「払うのか?」
「払う」
「即答か」
「今ここで揉める方が面倒だ」
「それもそうじゃが……いや、主様がその判断をすると本当に止めにくいのう」
アレクシスは腰の革袋から金貨を数え、売人の前へ置いた。
「足りるな」
「へ、へえ。毎度あり――」
「それと」
「まだ何か?」
「次から、そういう目で値をつけるな」
「は?」
「分からないならいい。今回で覚えろ」
売人は文句を言おうとしたらしい。だがアレクシスの目を見た瞬間、喉がひゅっと鳴って、それ以上は何も言えなかった。
周囲の男たちも、笑いの気配を失っていた。
アレクシスは台の前へ進み、座らされた少年へ視線を落とした。
「立てるか」
少年はびくりと肩を震わせた。
恐る恐る顔を上げる。
大きな目だった。
怯えと、諦めと、もう期待してはいけないと何度も言い聞かせてきたような、そんな目だ。
その目が一瞬だけ、アレクシスの顔を見て、次にその後ろのリューシェを見て、最後に地面へ落ちる。
「……はい」
声も細い。
立ち上がろうとして足がもつれ、すぐにはうまくいかなかった。アレクシスは腕を掴まず、ただ少し脇へ立って待つ。手を出すより、その方が怖がらせずに済むと分かっていた。
ようやく立ち上がった少年は、アレクシスより頭一つぶんほど低かった。痩せている。肩も細い。服は粗末で、ところどころ擦り切れている。
「行くぞ」
と、アレクシスは言った。
「……え」
「ここにいる理由はもうない」
「…………」
少年は、すぐには動けなかった。
動けるはずがない。
今までだって、「ここから出る」は別の場所へ売られるだけの意味だったのだろう。
リューシェが、わざと軽い声で言った。
「主様、あまり怖い顔をするでない。坊やが固まっておるぞ」
「怖い顔か?」
「しておる。敵陣へ乗り込む前みたいな」
「そんなつもりはない」
「ない時ほどしておる」
「……そうか」
アレクシスは、少しだけ表情を緩めた。慣れていない。
「もう一度言う。行くぞ」
今度は少しだけ声が柔らかい。
「……はい」
少年は、小さく頷いた。
裏市場を出るまで、誰も後を追ってこなかった。
金は払った。
売人も、あの一瞬で相手が面倒な種類だと察したのだろう。
だが表通りへ戻ってからも、少年はずっと口を開かなかった。
歩幅が合わず、何度か遅れそうになり、そのたびにびくっとする。
ベルノルトが何度かちらちらと振り返り、ついには囁いた。
「旦那様」
「何だ」
「このまま宿へ連れて帰るんですか」
「そうだ」
「ええと……それはつまり……」
「身請けした」
「それは見ていました」
「なら分かるだろう」
「分かりますけど、いつものことながら手際が良すぎます」
「遅い方が良かったか」
「良くはありません。ありませんが、もう少しこう、段取りとか」
「段取りをしている間にあれがどこへ流れるか分からん」
「うっ」
ベルノルトは黙るしかなかった。
リューシェが横でため息をつく。
「止めはせんがの」
「止める気もなかっただろう」
「なかったな」
「正直だ」
「ただし一つ言っておく」
「何だ」
「“助けた”顔をするな」
「しているか?」
「少しだけ」
「……そうか」
「こやつからすれば、おぬしも“次の買い手”にしか見えておらん。最初から恩人ぶるな」
「分かっている」
「ならよい」
宿へ戻る前に、アレクシスは川沿いの小さな店で足を止めた。
「何を?」
と、リューシェ。
「飯だ」
「まずそこか」
「腹が空いたまま話をしてもろくなことにならない」
「それはそうじゃが」
店主に頼み、温かいスープと黒パン、それに柔らかく煮た根菜と、少しだけチーズを出してもらう。少年――まだ名も訊いていない――は、最初それを前にしても手をつけなかった。
「食え」
と、アレクシス。
「……」
「毒は入っていない」
「主様、その言い方では余計に怪しい」
と、リューシェ。
「では何と言えばいい」
「普通に“温かいうちに食え”でよい」
「それだ」
「もう少し会話を学べ」
少年はおそるおそる匙を取った。
ひと口、スープを口へ入れる。
次に、もうひと口。
そのあとは少し早かった。飢えていたのだろう。だが必死でがっつくのではなく、途中で何度も手を止める。急いで食べてはいけない、食べ方を間違えると怒られる、と身体が覚えているような止まり方だった。
アレクシスはそれを黙って見ていた。
食べ終わる頃には、少年の頬に少しだけ色が戻っていた。
「名は」
と、アレクシス。
少年は肩を震わせる。
「……ユノ」
「そうか」
「……」
「それだけだ」
「え?」
「名を訊いただけだ」
「…………はい」
ユノは、また混乱した顔をした。
“名を訊かれたら次に何かが来る”と構えていたのだろう。
だが来ない。
アレクシスはただ水を飲み、店主へ追加の銅貨を置いただけだった。
「戻るぞ」
と、彼が言う。
「戻る?」
リューシェが片眉を上げる。
「宿候補地の詰所へか?」
「ああ」
「坊やも一緒に?」
「当然だ」
「寝台も着替えもないぞ」
「用意する」
「それはそうじゃが……ふむ、まあよいか」
詰所に戻ったのは、日がだいぶ傾いた頃だった。
簡素な建物で、広間めいた板間と、小部屋が二つ、作業机、積み上がった資材、職人たちが使う長椅子、仮の寝台。とても上等とは言えないが、雨風はしのげるし、暖炉もある。
ユノは戸口で立ち尽くした。
自分が入っていい場所か分からない、と身体全体で言っている。
「入りなさい」
と、リューシェが言う。
「床はまだ抜けん」
「そういう問題じゃないと思います」
と、ベルノルト。
「しかし間違ってもおらん」
アレクシスは暖炉の火を見て、それからベルノルトへ向いた。
「桶に湯を張れるか」
「今からですか」
「今からだ」
「また始まりましたね」
「風呂ですか」
と、リューシェ。
「風呂だ」
「分かっておったが」
「とにかく温める」
「その判断だけは最初から早いのう」
バルドが詰所の外からひょいと顔を出した。
「おう、戻ったか。……なんじゃ、その小さいのは」
「拾った」
と、リューシェ。
「買った、の方が正確じゃ」
と、ベルノルト。
「助けた」
と、アレクシス。
三者三様だった。
「なるほど、面倒ごとじゃな」
と、バルド。
「否定はしない」
桶に湯が張られた。
もちろん七泉の本格的な湯殿などまだない。だが仮に引いた湯と、温めた湯を合わせ、リューシェが少しだけ清湯を混ぜる。刺激が少なく、汚れを落としやすい温度に調えた。
「入れ」
と、アレクシス。
ユノはびくりとした。
「……いま、ですか」
「今だ」
「そ、それは……」
「嫌か?」
「……」
「嫌なら言え」
「……嫌じゃ、ありません。でも……」
「でも?」
「……こんな……」
“いいのか”と続くはずの言葉が、喉で止まる。
リューシェがその空気を見て、少しだけ声を柔らかくした。
「坊や」
「……はい」
「今は、汚れを落とせと言われた時に従うだけでよい。先のことは後で考えろ」
「……はい」
「服はそこへ置け。逃げぬ」
「主様は湯気より服を盗まんから安心せい」
「その慰め方はどうなんですか」
と、ベルノルト。
「事実じゃろ」
「事実ですが」
ユノはおそるおそる桶へ入った。
最初、肩が強張っている。
熱さではなく、慣れていないのだ。
だがしばらくすると、その強張りが少しずつほどけていく。
汚れが湯へ落ちる。
冷えきっていた皮膚に熱が戻る。
こわばっていた指先が、わずかに開く。
アレクシスはそれを見て、ようやく少し肩の力を抜いた。
「主様」
と、リューシェが小声で言う。
「何だ」
「今、完全に“やってよかった”顔をしておるぞ」
「してない」
「しておる」
「それも事実だと思います」
と、ベルノルト。
「おまえはどっちの味方だ」
「帳簿の味方です」
湯から上がったユノに、ベルノルトが予備の下着と、少し大きめのシャツを渡した。髪を拭く布も一緒だ。
次は食事だった。
昼の店で一度食べているはずだが、温まった身体にはもう一度何か入れた方がいい。アレクシスは厨房めいた一角で手早く鍋をかけ、鶏の骨から取った薄い出汁へ塩を落とし、柔らかく煮た芋と少しの乳を合わせる。
この辺りの動きだけは、妙に手慣れていた。
「主様」
と、リューシェ。
「何だ」
「おぬし、こういうところだけ本当に世話焼きじゃの」
「腹が減っていると考えが暗くなる」
「経験談か」
「経験談だ」
「重いな」
湯上がりのユノは、さっきよりさらに静かになっていた。
恐怖が消えたわけではない。
だが、身体が先に温まってしまったのだろう。
警戒しながらも、張り詰め続けることができなくなっている。
アレクシスは椀を差し出した。
「食え」
「……はい」
「それと」
「……はい」
「ここで働くかどうかは、おまえが決めろ」
「……え?」
「宿を作る。人手は要る。だが、別に今すぐ返事はいらん」
「…………」
「嫌なら出て行ってもいい。行く場所があるなら、止めない」
「…………」
「ただ、今夜は寝て食え」
ユノは、しばらく何も言えなかった。
理解が追いつかないのだろう。
“買われた”あとに、選べと言われる意味が。
しかも、それを命令でも恩着せでもなく、当たり前みたいに言われる意味が。
椀を持つ手が震える。
ひと口、汁を飲む。
そしてもうひと口。
喉が上下するたび、瞳が少しずつ濡れていった。
リューシェはその横顔を見て、珍しく何も茶化さなかった。
ベルノルトも、帳簿を閉じて黙った。
バルドだけが「うむ」と短く鼻を鳴らした。
やがてユノが、小さく震える声で言う。
「こんなふうに……あったかいの、久しぶりです」
それは湯のことか、食事のことか、寝る場所のことか。
たぶん、全部だった。
アレクシスは少しだけ目を細めた。
「そうか」
返事はそれだけだった。
だが、その短さが、かえって変に優しかった。
大げさに救うと言わない。
恩を売らない。
ただ、ここにある温かさを、そのまま差し出すだけ。
宿がまだ建つ前から、そこに“居場所”の輪郭が生まれたのは、たぶんその瞬間だった。




