第9話♨よそ者の宿は気に食わない
宿というものは、建て始めた途端に“景色”になる。
まだ完成していなくともだ。
山腹へ引き込み道が通り、木材の束が運ばれ、石が積まれ、鍛冶師の音が響き始める。職人が出入りし、荷車が日に何度も往復し、仮設の詰所にまで人の気配が濃くなる。そうなれば、近隣の村や町にとって《朝霧亭》はもう“よそ者の計画”ではなく、“自分たちの生活圏に入り込んできたもの”になる。
良くも悪くも、目立つのだ。
そして目立てば、当然、反発も生まれる。
最初にそれを持ち込んできたのは、ベルノルトだった。
夕方の詰所。
作業を終えた職人たちが引き上げ、残るのは帳簿と、木屑と、まだ熱の残る暖炉の匂いだけになった頃。ベルノルトは普段以上に疲れた顔で戻ってきて、机の前へ座るなり言った。
「旦那様」
「何だ」
「面倒です」
「何がだ」
「全部です」
「雑だな」
「雑に言いたくなるくらい、まとめて面倒が来ました」
リューシェが横で椅子を揺らしながら笑う。
「ほれ見ろ。こうなると思うておった」
「予想はしていた」
と、アレクシス。
「それで、何だ」
「近隣の小商人、既存の宿屋、それに村の寄り合いの一部から不満が出始めています」
「内容は」
「想像の八割そのままです」
ベルノルトは手元の板を見ながら、ひとつひとつ指で追った。
「まず、“よそ者が名湯を独占するのではないか”」
「しない」
「次に、“貴族の道楽宿ではないか”」
「違う」
「さらに、“地元の客を奪うのではないか”」
「客を奪うつもりはない」
「最後に、“湯脈が枯れたらどうする”」
「枯らさないように調べている」
「全部、反論はできます」
「なら問題ない」
「それを“反論”だけで済ませると問題になるんですよ」
アレクシスは腕を組んだ。
言われてみればその通りだった。
事実、これまで村人や古老とはある程度話をしてきた。だが、宿の建設が本格化したことで、話を聞いていなかった層、あるいは“聞いてはいたが、ここまで大きくやるとは思わなかった”層が、ようやく現実味を持って不安になり始めたのだろう。
特に、小さな宿や食堂を営む者たちにとっては死活問題に映ってもおかしくない。
「来たのか」
「ええ。町外れの《灰狼亭》の主人、荷馬商、塩屋、村の古老二人、小さい湯宿の女将、それから顔役の息子あたりが」
「ずいぶん取り合わせが悪いな」
「不満だけは一致しておるのう」
と、リューシェ。
「そういう時ほどまとまりやすい」
「で、どうする」
と、アレクシス。
「追い返すわけにもいきませんよ」
と、ベルノルト。
「呼んで話すべきです」
「ここへ?」
「ええ」
「今?」
「今です」
「飯前だぞ」
「飯前の方がまだ理性があります」
「それは一理ある」
と、リューシェ。
「空腹の不満はよく燃えるが、酒の入った不満はもっと燃える」
「嫌な知恵だ」
「長生きの賜物じゃ」
というわけで、その日の詰所は急遽“会談の場”に変わった。
長机を追加し、灯りを増やし、湯だけは切らさぬよう手元へ用意する。茶か、薄い果実酒か、とベルノルトが尋ねた時、アレクシスは即答した。
「茶だ」
「酒の方が話は和らぐこともありますが」
「酒で和らぐ程度なら、後でいくらでも和らぐ。本音を聞くなら最初は茶だ」
「……たまに本当に統治者の顔を出しますよね」
「たまに、ではない」
「主様、それをずっと出しておれば、そもそもこんな山で湯の匂いを追っておらぬのでは?」
「それは別の話だ」
「便利じゃのう、その切り分け」
程なくして、人が集まり始めた。
最初に来たのは、町外れの宿《灰狼亭》の主人、オルドだ。四十代半ば、骨太で、腹も少し出ているが目つきは鋭い。宿と食堂を合わせたような店をやっており、鉱山道の旅人や荷馬商を相手に細く長く食ってきた男だ。
そのあとに、塩屋の親父、荷馬商、村の古老二人、小宿の女将、顔役の息子。どの顔にも、露骨な敵意とまではいかないが、「よそ者に好き勝手はさせたくない」という硬さがある。
ユノは奥で茶の支度をしながら、緊張で手が固くなっていた。
「大丈夫か」
と、リューシェが小声で言う。
「……は、はい」
「顔は大丈夫ではなさそうじゃが」
「だ、だって……怒ってる人たちですよね」
「まあの」
「僕、茶、こぼしたら……」
「こぼすな」
と、アレクシス。
「はい!」
「そこはもっと柔らかく言えぬのか」
と、リューシェ。
「事実だ」
「事実でも言い方がある」
全員が座ると、しばらく重い沈黙があった。
口火を切ったのは、やはりオルドだった。
「先に言っておく」
と、彼は茶碗に手も伸ばさず言った。
「俺ぁ喧嘩をしに来たわけじゃねえ」
「なら助かる」
と、アレクシス。
「だが、黙って見てろとも言われたくねえ」
「それも分かる」
「本当か?」
「本当だ」
オルドは少しだけ目を細めた。
「山の上にあんたの宿が建てば、街道の客が流れる。こっちは今の客でなんとか食ってる。貴族様の立派な宿ができりゃ、そりゃ不安にもなる」
「当然だな」
「……否定しねえのか」
「する理由がない」
「ふん」
次に、湯宿の女将らしい中年女が口を開いた。
「うちは小さいが、昔からこの辺りで湯を使ってきた。湧き場がいくつもあるのは知ってる。でも、誰も大きく囲わなかったのは理由があるんだよ」
「どういう理由だ」
と、アレクシス。
「一つは金がかかる。もう一つは、湯が生き物みたいで怖いからさ。下手に触れば死ぬかもしれない。あんたら、貴族はそこを分かってるのかい」
「分かっているつもりだ」
「“つもり”じゃ困るんだよ」
古老の一人が咳払いした。
「わしらが気にしておるのは、道楽かどうかだ」
「道楽?」
「貴族が山に飽きたら、でかい宿だけ残して去る。湯だけ荒れて、村に何も残らん。そういう話は珍しくもない」
ベルノルトが小さく身じろぎした。
耳が痛い話だ。王都や大領主の世界には、そういう“善意の置き土産”が実際にある。
アレクシスは少し考え、それから言った。
「順に答える」
「おう」
と、オルド。
「まず、名湯を独占する気はない」
「口で言うのは簡単だ」
「だから形にする。村の共同湯場は残す。むしろ整える。今より足を入れやすく、冬でも使いやすくする」
「……ほう」
と、古老。
「そこまで考えておるのか」
「湯を囲って宿だけが儲かる形は長く続かん」
「続かん、でやらんのか」
「嫌だからやらん」
「そっちが本音じゃな」
と、リューシェが笑う。
「分かりやすい男じゃ」
アレクシスは続けた。
「次に、地元の客を奪うつもりもない」
「どう違う」
と、オルド。
「客は客だろう」
「違う。私が作るのは“街道の大宿”だ」
「……何?」
「山の上に上げる。馬車寄せを作る。貴族も長逗留の湯治客も受ける。小さな宿が今まで拾っていた一泊の荷馬商を、全部さらう気はない」
「口では何とでも」
「口だけではない。役割を分けるつもりだ」
ベルノルトがすかさず紙を差し出した。
「こちらが旦那様の考えているおおまかな区分です」
「何だこれは」
「街道下の宿は通過の旅人、荷馬商、短泊まり客。山腹の《朝霧亭》は、湯治、長逗留、身分の高い客、療養の客」
「……そんなうまく分かれるか?」
と、塩屋の親父。
「分けるために道も価格も部屋も湯も変える」
と、アレクシス。
「こちらは一泊の安さで勝負しない。むしろ、そこでは勝たない」
「ほう」
と、オルドが目を上げる。
「安い客を根こそぎ取る気はねえってことか」
「ない。山の上まで荷車一台で上がるだけでも手間が違う。なら、最初から別の客を見ている」
「……なるほど」
女将が腕を組んだ。
「じゃあ、あんたの宿は貴族だけの気取った湯宿になるのかい」
「ならない」
「なぜそう言い切れる」
「年寄りも泊めるからだ」
「え?」
「湯治客も受ける。貴族用の部屋と、長逗留向けの部屋は分ける。だが寝心地だけはどちらも妥協しない」
「そこは前にも聞いたのう」
と、リューシェ。
「おぬし本当に寝台の話になると頑固じゃ」
「湯の後の寝台は大事だ」
「最近そればかりじゃな」
「事実だ」
今度は村の顔役の息子が口を挟んだ。
「湯脈が枯れたらどうする」
「枯らさないように建てる」
「だから、それができるのかって話だ」
「調べている」
「誰が」
「私とリューシェだ」
「その綺麗な嬢ちゃんが?」
「嬢ちゃんではない」
と、リューシェがにこやかに返した。
「おぬしの祖父の祖父よりは確実に年上じゃ」
「…………」
「黙ったな」
と、アレクシス。
「まあ黙るじゃろ」
と、バルド。
リューシェは机に肘をつき、翠の目を細めた。
「地脈と湯脈は、雑に掘れば死ぬ。だからこそわしが見ておる。湧き口ごとの流れも、季節ごとの差も、主様が記録し、わしが読む」
「主様?」
と、女将。
「あんた、ただの手伝いじゃないのかい」
「腐れ縁じゃ」
「説明になってない」
と、ベルノルト。
「なっておるよ」
「なってません」
アレクシスが静かに机を叩いた。
「不安はもっともだ。だからこそ、口約束だけではなく形にする」
「形?」
「地元の物資を優先して使う」
「それはもうやってる」
と、塩屋の親父。
「野菜も乳も、あんたのとこがずいぶん買ってるな」
「これからもだ。できる範囲で、外より先に近隣から取る」
「値は?」
「正当なものを払う。叩く気はない」
「そこはありがたい」
「次に、共同湯場を整える。村の者が使う湯は残す。必要なら屋根もつける」
「屋根まで?」
と、古老。
「冬に凍えるだろう」
「……うむ」
「さらに、冬場の街道整備にも金を出す」
「何?」
と、オルドが身を乗り出した。
「山の上に宿ができれば、雪の時季の道は今のままでは足りん。なら、宿のためだけではなく、街道全体のために手を入れる」
「本気か」
「本気だ」
「貴族の道楽なら、そんな金は出さん」
「だから道楽ではない」
そこへ、今まで黙っていたユノが、震えながら茶を運んできた。
手は緊張している。
だがこぼさない。
盆の動きは昨日より少し安定していた。
古老の前へ茶碗を置く。
女将の前へ。
オルドの前へ。
「……お茶です」
小さな声だが、ちゃんと聞こえる。
オルドが受け取りながら、眉を上げた。
「新しい奉公人か?」
「まだ見習いじゃ」
と、リューシェ。
「だが筋はよい」
「見習いにしては、所作がきれいだな」
「そうか?」
と、アレクシス。
「軽いし音が少ない」
「またそこを見てるのか」
と、ベルノルト。
「見る」
「やっぱりそれなんですね」
ユノが戻ったあと、女将がぽつりと言った。
「……少なくとも、人はちゃんと見てるらしいね」
「何だ」
と、アレクシス。
「いや。貴族の道楽で宿をやる連中は、大抵まず建物の自慢をする。あんたは、人の足腰とか、湯上がりの冷えとか、腹の落ち着きとか、そんな話ばかりする」
「宿だからな」
「その一言で全部まとめるの、ずるいね」
「便利だ」
と、リューシェ。
「最近の主様の免罪符じゃ」
オルドは茶を一口すすり、長く息を吐いた。
「まだ全部は飲み込めねえ」
「それでいい」
と、アレクシス。
「今ここで全部信じろとは言わん」
「言わねえのか」
「言っても無駄だろう」
「……まあな」
「だが、必要なことはやる」
「必要、必要って、あんたほんとその言葉好きだな」
「必要だからな」
「ほらまただ」
「もう口癖になってますね」
と、ベルノルト。
そこでバルドが、戸口から低く言った。
「おい、貴族さん」
「何だ」
「言うだけで終わるなら、わしが先に山から蹴り落としておる」
「物騒だな」
「だが今のところ、おぬしは言ったことをやっておる」
「……そうか」
「だから、まだ話を聞いてやる気になる」
その一言で、場の空気が少しだけ変わった。
完全に敵意が消えたわけではない。
だが、「追い返すべきよそ者」から「様子を見るべき面倒な男」くらいには、位置が変わった。
アレクシスはその機を逃さず、さらに現実の話を積み上げた。
「《灰狼亭》のような下の宿とは、荷の扱いで協力できる」
「協力?」
と、オルド。
「ああ。山の上に全部を直接運ぶより、街道下で受ける荷もある。長逗留客の追加荷物、保存食、酒樽、乾物。受け口を一つにした方が互いに楽だ」
「……そりゃあ、そうだが」
「客を全部食うのではなく、流れを分ける」
「流れを分ける、か」
塩屋には塩を長期契約で取る話をした。
農民には季節ごとの野菜の納品計画を。
女将には、村の共同湯場の管理に地元の手を借りたいと伝えた。
古老には、冬の道普請へ宿も金と人手を出すことを約した。
一つひとつは地味だ。
だが、宿が“ここにある”ことの利益を、山の上の建物だけで終わらせない形にしていく話だった。
気づけば、茶は二煎目になっていた。
最初、腕組みしていた者も、今は机に肘をついている。
怒鳴る者はいない。
まだ笑いはないが、聞く耳は残っている。
最後に、最初から一番硬い顔をしていた古老が、しわだらけの手で茶碗を置き、低く言った。
「……道楽ではなさそうだな」
誰もすぐには口を挟まなかった。
古老はゆっくりアレクシスを見た。
「あんた、本当にこの土地で宿をやる気らしい」
アレクシスは、短く頷いた。
「ああ」
それは派手な勝ちではなかった。
反発が消えたわけでもない。
不安がなくなったわけでもない。
だが、ここからならまだ話ができる。
宿がこの土地に根づくための、最初の壁は、そうして少しだけ低くなった。




