第10話♨開業前夜、湯はまだ足りない
七泉の湯宿《朝霧亭》は、もうほとんどできあがっていた。
山腹を削って通した引き込み道は、馬車が無理なく上がれるだけの幅と勾配を持ち、雨水を逃がす石の溝まで整えられている。馬車寄せの石畳はゆるやかな角度で平場へ落とされ、段差は高すぎず低すぎず、貴婦人の裾も、湯治帰りの老いた足も、どちらも転ばせないように据えられていた。
本館の石壁はすでに乾き、二階へ渡る木組みの廊下は、朝の光を受けると飴色に見える。客室には寝台が入り、窓掛けも吊られ、卓と椅子と水差しが置かれている。広間の長卓は磨かれ、厨房では鍋と焼き台と吊り棚が順に並び、食器棚の中には大小の皿と椀と杯がきちんと納まっていた。
厩舎には新しい藁が敷かれ、桶も、鞍置きも、馬を繋ぐ金具も揃っている。
湯殿の石床は乾き、各浴場の札も掛けられた。
赤湯。白湯。青湯。硫黄泉。塩泉。清湯。
そして最後に、岩棚の露天。
湯気の立ち方まで、もう“宿”だった。
ここまで来る間に、職人と喧嘩もした。
村の寄り合いと睨み合いもした。
食材の試食は数えきれない。
湯の記録など、ベルノルトが途中から「もうこの紙束は旦那様の別人格では?」と半泣きで言い出すほど積み上がった。
それでもようやく、開業前夜までたどり着いたのである。
――普通なら、もう十分だった。
「十分です」
と、ベルノルトはその日の夕刻、ほとんど祈るような顔で言った。
「旦那様、ここまで来てまだ机に向かっているのは、さすがに少し異常です」
「異常ではない」
と、アレクシス。
「最終確認だ」
「三日째聞いております、その言葉」
「三日目だ」
「そういう訂正を入れてくるから怖いんですよ」
詰所ではなく、もう本館の帳場裏に移した仮の事務机の上に、アレクシスは七つの湯の記録と建物の図を広げていた。
開業は明日。
客室は整った。
食材も今朝の便で最後の分が届いた。
馬車寄せも滑らない。
寝台も、窓掛けも、広間の暖炉も、厨房の火の回りも確認した。
だが、アレクシスだけが納得していない。
「第三泉の温度が朝方にわずかに落ちる」
と、彼は図面の隅を指で叩いた。
「またそれですか」
と、ベルノルト。
「“また”ではない。一番静かな湯殿になるはずだ。そこで朝の湯が半歩鈍れば、長旅の魔術師も、考えごとの多い客も、最初の一歩で肩をすくめる」
「分からないですよ、そこまでは」
「分かる者には分かる」
「旦那様のそういう“分かる者には分かる”は、だいたい旦那様が一番分かる者なんですよ」
「それで何か問題が?」
「問題しかありません」
横の長椅子で寝そべっていたリューシェが、くつくつと喉を鳴らした。
「のうベルノルト」
「何です」
「主様が今こうしておる時は、もう止まらん。諦めろ」
「諦めた結果がこれです」
「では受け入れろ」
「受け入れた結果がこれなんです!」
アレクシスはそのやり取りを無視して立ち上がった。
「今から見る」
「今からですか!?」
「今からだ」
「日が落ちますよ」
「落ちる前だから見る」
「理屈が怖い」
そこへ、ユノが帳場の向こうから顔を出した。
「えっと……主様」
「何だ」
「その、露天の方の灯り、もう一つ吊るしておきました」
「そうか」
「あと、厨房の水桶も入れ替えてあります」
「助かる」
「……はい」
ユノはそれだけで、少し嬉しそうに目元を緩める。
最初にここへ来た時の、怯えの張りつめた顔はもうかなり薄くなっていた。もちろん、まだ完全に消えたわけではない。呼ばれれば少し肩が揺れるし、失敗をした時は今でも真っ先に謝りそうな顔になる。だが、今のユノにははっきりと“自分の仕事”があった。
布を整える。
食器を並べる。
広間と客室を掃く。
配膳の準備をする。
帳場の周りを見やすく整える。
誰に言われるでもなく、やるべきことを見つけて動くようになっている。
そして、それを見つけるたびに、リューシェは飽きずに言うのだ。
「やはり看板係向きじゃな」
「まだ言うんですか!?」
と、ユノが即座に抗議する。
「言う。見た目の説得力がすごい」
「説得力って何ですか!」
「“この宿に入ったら可愛い子がいた”という記憶は強い」
「そういう売り方はしません!」
「主様、どう思う」
「接客の筋はいい」
「そこだけ真面目に肯定しないでください!」
ベルノルトが深くため息をついた。
「本当にこの三人で宿が回るのか、時々不安になります」
「回る」
と、アレクシス。
「回るとも」
と、リューシェ。
「ま、回します」
と、ユノ。
三者三様の返事だったが、不思議とそれで足りる気もした。
しかし、足りていないものが一つある。
湯だ。
正確には、湯の“仕上がり”である。
アレクシスは帳場を出ると、早足で回廊を抜け、第三泉の小浴場へ向かった。青みを帯びた静かな湯。魔力疲労に効くかもしれないと定めた、あの湯だ。
湯殿の中は、夕方の光が石壁へ薄く差し込んでいる。湯気は穏やかで、空気は静かだ。普通の客なら間違いなく満足するだろう。
だがアレクシスは湯の縁へしゃがみこみ、指先で湯をすくうなり眉を寄せた。
「落ちている」
「半度にも満たんぞ」
と、後ろからリューシェ。
「満たなくても分かる」
「やはり言うと思うた」
「朝方はもっと落ちる」
「たぶんの」
「たぶんでは困る」
「困る顔をするでない。坊やがまた怯えるぞ」
確かにユノは湯殿の入口で、おろおろしながら二人を見ていた。
「あ、あの……そんなに、違うんですか」
「違う」
と、アレクシス。
「主様、そこは少し柔らかく」
と、リューシェ。
「……違いはある」
「同じですよね」
と、ユノが小さく言うと、リューシェが噴き出した。
「坊や、よいぞ。分かってきたのう」
「分かりたくないです」
アレクシスは湯口から流れ落ちる筋を見上げた。
「流量がほんの少し偏っている」
「白湯の方へ多く寄っておるか」
「そのはずだ。朝の地表冷えも食っている」
「石組みを一枚ずらすか?」
「いや、ずらしすぎると白湯が死ぬ」
「では導水の角度を変える?」
「ほんの少しだけだ」
ベルノルトは遅れて湯殿へやって来て、戸口のところで立ち尽くした。
「まだやるんですか」
「まだ、ではない。今が最後だ」
「その台詞を今日は七回聞きました」
「そんなに言ったか?」
「八回目です」
「よく覚えておるのう」
と、リューシェ。
「書類仕事は嫌そうなくせに、こういう記録は妙に正確じゃ」
「旦那様が相手だと、数える癖がつくんです」
結局、三人はそのまま第三泉の調整へ取り掛かった。
石を一枚浮かせる。
水の抜ける角度を変える。
流れ込む湯の筋を少しだけ細める。
そのかわり、白湯側の受けを一段深くする。
ほんの僅かな差だ。
だがアレクシスは、その僅かを本気で詰めにいく。
リューシェが魔の流れと地熱の癖を見る。
アレクシスが物理の流れを見て手を入れる。
ユノは言われた石片や木桶を運び、灯りを持ち、濡れた布を差し出す。
その様子は、もはや工事の仕上げというより、三人だけの共同作業だった。
「のう主様」
「何だ」
「おぬし、今やっておること、完全に職人じゃぞ」
「宿主だ」
「勇者ではないな」
「最近それは言われる」
「主様、おぬし昔から、何かを詰め始めると止まらんところがある」
「そうか?」
「そうじゃ。剣の間合い、陣のほころび、敵の癖、全部そうだった。今それが湯へ向いておるだけじゃ」
「……悪いことではないな」
「悪くはない。周りは大変じゃが」
「主様、その“大変”に僕も入ってますよね」
と、ユノ。
「入っておるぞ」
と、リューシェ。
「しかもかなりな」
「そうですよね……」
「嫌か?」
と、アレクシス。
「え」
「嫌なら言え」
「……い、嫌じゃないです」
「なら問題ない」
「いや、そういうことじゃなくてですね」
「坊や、諦めろ。主様はそういう返ししかできん」
「最近分かってきました……」
第三泉の調整がひと区切りついた頃には、外はもう群青色だった。
広間の灯りが回廊へ漏れ、厨房の方からは遅い夕食の匂いがまだ少し漂っている。職人たちはとっくに引き上げ、厩舎の馬も静かになっていた。
普通なら、これで終わりだ。
だがアレクシスは露天の方へ顔を向けた。
「次は露天だ」
「まだあるのか」
と、ベルノルト。
「ある」
「何が」
「流しが、あと少しだ」
「また少しですか!」
「少しが大事だ」
「最近その理屈ばっかりですね!」
「事実だ」
「主様、開業前夜くらい、人として少し浮かれてもよいのではないか?」
と、リューシェ。
「浮かれている」
「その顔で?」
「表に出ていないだけだ」
「面倒くさいのう」
「でも、ちょっと分かります」
と、ユノが小さく言った。
アレクシスとリューシェが同時に彼を見る。
「何がだ?」
「その……僕も、部屋を見て回ってると、もうすぐ開くんだなって思って……。でもそう思うと、ここがまだ少しでも変だったら嫌だなって……」
「…………」
「だから、主様が気になるの、少し分かる気がします」
「ほう」
と、リューシェが口元を緩める。
「坊や、すっかり宿の側の顔をするようになったのう」
「えっ」
「今のは良い言葉だ」
と、アレクシス。
「……あ」
と、ユノ。
「は、はい」
「よく見ている」
「……っ」
またそれだけで耳が赤くなる。
だが今度のユノは、俯くだけではなかった。少しだけ嬉しそうに、そして少しだけ誇らしそうに胸を張った。
露天へ向かう回廊は、夜の気配を吸って静かだった。
外へ出ると、山の空気は昼より冷えている。
だが露天の岩組みの周りだけは、湯気と地熱で柔らかな暖かさがある。谷の向こうには稜線の黒い影があり、その上にはまだ淡い月がかかっていた。
岩棚の露天は、この宿の顔だ。
アレクシスがそう言い切った場所。
長く言葉を減らして浸かるための湯。
客に見せたい景色の中心。
だからこそ、ここはとりわけ気になる。
「流しが少し強い」
と、アレクシス。
「客が入った時に縁から落ちる音が勝つ」
「音まで気にするのか」
と、ベルノルト。
「ここは静けさが大事だ」
「だが湯を止めるわけにはいかん」
と、リューシェ。
「なら、ここの石を寝かせるか?」
「いや。寝かせすぎると今度は湯面が鈍る」
「主様、それ、人間の感覚で分かるんですか」
「分かる」
「またその返しだ」
「事実だ」
「強い……」
三人はまた、露天の縁へ膝をついた。
石を一枚浮かせる。
流れの角度をわずかに変える。
溢れた湯が落ちる先へ、柔らかな石を置く。
音を殺すために苔を噛ませる。
湯の線は途切れさせない。だが耳障りにはしない。
地味だ。
地味すぎるほど地味だ。
だが、その地味さに、三人とも本気だった。
「のう主様」
と、リューシェが手を止めずに言う。
「何だ」
「昔、魔王軍の前線で夜通し陣地を詰めた時より、今の方が顔つきが穏やかじゃな」
「そうか?」
「そうじゃ。あの時は勝つために詰めておった。今は、客を迎えるために詰めておる」
「……それは、違うな」
「どう違う」
「今は、負けたくないのではない」
「ほう」
「ちゃんと迎えたいだけだ」
「……そうか」
リューシェは少しだけ黙った。
それはたぶん、彼女にとっても少し特別な言い方だったのだろう。
勝つためではなく、迎えるために本気になる。
それは戦場にはなかった熱量だ。
「主様」
と、ユノがそっと言う。
「何だ」
「僕、灯り、もう少し下げます」
「なぜだ」
「その方が、湯気がきれいに見える気がします」
「……やってみろ」
ユノは吊り灯りの位置をほんの少し下げ、光が直接湯面へ当たりすぎないようにした。すると確かに、白い湯気の輪郭がやわらかく見えるようになる。
アレクシスはそれを見て、しばらく何も言わなかった。
「主様?」
と、ユノが不安そうにする。
「……いい」
「え」
「それでいい」
「……っ、はい」
リューシェが、可笑しそうに肩を揺らした。
「坊や、おぬし本当に看板係向きじゃな」
「今の話の流れでそこへ戻るんですか!?」
「戻るとも。湯気をきれいに見せる感覚がある」
「それは……その……」
「宿の顔を作る側じゃ」
「だから看板係は嫌ですって!」
「主様、どうする」
「接客も景色も見る側になれそうだ」
「全然諦めてない!」
やがて、最後の石が定まり、流れも落ち着いた。
露天の縁から落ちる湯は、さっきまでより音が静かだ。
それでいて、流れは死んでいない。
湯面も鈍らず、夜気の中でやわらかく揺れている。
アレクシスは、立ち上がって少し離れたところから露天を眺めた。
月。
湯気。
石の濡れた光。
静かな流れ。
隣にリューシェ。
少し後ろにユノ。
振り回された顔をしたまま、だがベルノルトも戸口の陰から見ている。
ここまで来た。
湯だけではない。
建物も、飯も、寝床も、灯りも、人も。
全部が、ようやく“宿”になった。
長い沈黙のあと、アレクシスが初めて少し笑う。
「……これなら客を迎えられる」
その一言に、リューシェはふっと息を吐いた。
「ようやく言うたのう」
「長かったですね……」
と、ベルノルト。
「本当に長かったです……」
と、ユノ。
だがその声は、どれも疲れより先に、同じ高揚を帯びていた。
宿はまだ、明日の朝を迎えていない。
だがこの夜の時点で、三人にはもうはっきり分かっていた。
ここはただの建物ではない。
はっきりと、自分たちの場所になっている。




