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異世界湯けむり勇者 ~魔王討伐後に王国から領地も爵位ももらったけど全部妻子に継がせて前世で大好きだった源泉かけ流しの宿を異世界で本気再現したら七つの泉質を目当てに貴族も冒険者も押しかけてきます~  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 七泉の湯宿《朝霧亭》、開業までの十二日譚

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第10話♨開業前夜、湯はまだ足りない

 七泉の湯宿《朝霧亭》は、もうほとんどできあがっていた。


 山腹を削って通した引き込み道は、馬車が無理なく上がれるだけの幅と勾配を持ち、雨水を逃がす石の溝まで整えられている。馬車寄せの石畳はゆるやかな角度で平場へ落とされ、段差は高すぎず低すぎず、貴婦人の裾も、湯治帰りの老いた足も、どちらも転ばせないように据えられていた。


 本館の石壁はすでに乾き、二階へ渡る木組みの廊下は、朝の光を受けると飴色に見える。客室には寝台が入り、窓掛けも吊られ、卓と椅子と水差しが置かれている。広間の長卓は磨かれ、厨房では鍋と焼き台と吊り棚が順に並び、食器棚の中には大小の皿と椀と杯がきちんと納まっていた。


 厩舎には新しい藁が敷かれ、桶も、鞍置きも、馬を繋ぐ金具も揃っている。

 湯殿の石床は乾き、各浴場の札も掛けられた。

 赤湯。白湯。青湯。硫黄泉。塩泉。清湯。

 そして最後に、岩棚の露天。


 湯気の立ち方まで、もう“宿”だった。


 ここまで来る間に、職人と喧嘩もした。

 村の寄り合いと睨み合いもした。

 食材の試食は数えきれない。

 湯の記録など、ベルノルトが途中から「もうこの紙束は旦那様の別人格では?」と半泣きで言い出すほど積み上がった。


 それでもようやく、開業前夜までたどり着いたのである。


 ――普通なら、もう十分だった。


「十分です」

 と、ベルノルトはその日の夕刻、ほとんど祈るような顔で言った。

「旦那様、ここまで来てまだ机に向かっているのは、さすがに少し異常です」

「異常ではない」

 と、アレクシス。

「最終確認だ」

「三日째聞いております、その言葉」

「三日目だ」

「そういう訂正を入れてくるから怖いんですよ」


 詰所ではなく、もう本館の帳場裏に移した仮の事務机の上に、アレクシスは七つの湯の記録と建物の図を広げていた。


 開業は明日。

 客室は整った。

 食材も今朝の便で最後の分が届いた。

 馬車寄せも滑らない。

 寝台も、窓掛けも、広間の暖炉も、厨房の火の回りも確認した。


 だが、アレクシスだけが納得していない。


「第三泉の温度が朝方にわずかに落ちる」

 と、彼は図面の隅を指で叩いた。

「またそれですか」

 と、ベルノルト。

「“また”ではない。一番静かな湯殿になるはずだ。そこで朝の湯が半歩鈍れば、長旅の魔術師も、考えごとの多い客も、最初の一歩で肩をすくめる」

「分からないですよ、そこまでは」

「分かる者には分かる」

「旦那様のそういう“分かる者には分かる”は、だいたい旦那様が一番分かる者なんですよ」

「それで何か問題が?」

「問題しかありません」


 横の長椅子で寝そべっていたリューシェが、くつくつと喉を鳴らした。


「のうベルノルト」

「何です」

「主様が今こうしておる時は、もう止まらん。諦めろ」

「諦めた結果がこれです」

「では受け入れろ」

「受け入れた結果がこれなんです!」


 アレクシスはそのやり取りを無視して立ち上がった。


「今から見る」

「今からですか!?」

「今からだ」

「日が落ちますよ」

「落ちる前だから見る」

「理屈が怖い」


 そこへ、ユノが帳場の向こうから顔を出した。


「えっと……主様」

「何だ」

「その、露天の方の灯り、もう一つ吊るしておきました」

「そうか」

「あと、厨房の水桶も入れ替えてあります」

「助かる」

「……はい」


 ユノはそれだけで、少し嬉しそうに目元を緩める。


 最初にここへ来た時の、怯えの張りつめた顔はもうかなり薄くなっていた。もちろん、まだ完全に消えたわけではない。呼ばれれば少し肩が揺れるし、失敗をした時は今でも真っ先に謝りそうな顔になる。だが、今のユノにははっきりと“自分の仕事”があった。


 布を整える。

 食器を並べる。

 広間と客室を掃く。

 配膳の準備をする。

 帳場の周りを見やすく整える。


 誰に言われるでもなく、やるべきことを見つけて動くようになっている。


 そして、それを見つけるたびに、リューシェは飽きずに言うのだ。


「やはり看板係向きじゃな」

「まだ言うんですか!?」

 と、ユノが即座に抗議する。

「言う。見た目の説得力がすごい」

「説得力って何ですか!」

「“この宿に入ったら可愛い子がいた”という記憶は強い」

「そういう売り方はしません!」

「主様、どう思う」

「接客の筋はいい」

「そこだけ真面目に肯定しないでください!」


 ベルノルトが深くため息をついた。


「本当にこの三人で宿が回るのか、時々不安になります」

「回る」

 と、アレクシス。

「回るとも」

 と、リューシェ。

「ま、回します」

 と、ユノ。


 三者三様の返事だったが、不思議とそれで足りる気もした。


 しかし、足りていないものが一つある。


 湯だ。


 正確には、湯の“仕上がり”である。


 アレクシスは帳場を出ると、早足で回廊を抜け、第三泉の小浴場へ向かった。青みを帯びた静かな湯。魔力疲労に効くかもしれないと定めた、あの湯だ。


 湯殿の中は、夕方の光が石壁へ薄く差し込んでいる。湯気は穏やかで、空気は静かだ。普通の客なら間違いなく満足するだろう。


 だがアレクシスは湯の縁へしゃがみこみ、指先で湯をすくうなり眉を寄せた。


「落ちている」

「半度にも満たんぞ」

 と、後ろからリューシェ。

「満たなくても分かる」

「やはり言うと思うた」

「朝方はもっと落ちる」

「たぶんの」

「たぶんでは困る」

「困る顔をするでない。坊やがまた怯えるぞ」


 確かにユノは湯殿の入口で、おろおろしながら二人を見ていた。


「あ、あの……そんなに、違うんですか」

「違う」

 と、アレクシス。

「主様、そこは少し柔らかく」

 と、リューシェ。

「……違いはある」

「同じですよね」

 と、ユノが小さく言うと、リューシェが噴き出した。

「坊や、よいぞ。分かってきたのう」

「分かりたくないです」


 アレクシスは湯口から流れ落ちる筋を見上げた。


「流量がほんの少し偏っている」

「白湯の方へ多く寄っておるか」

「そのはずだ。朝の地表冷えも食っている」

「石組みを一枚ずらすか?」

「いや、ずらしすぎると白湯が死ぬ」

「では導水の角度を変える?」

「ほんの少しだけだ」


 ベルノルトは遅れて湯殿へやって来て、戸口のところで立ち尽くした。


「まだやるんですか」

「まだ、ではない。今が最後だ」

「その台詞を今日は七回聞きました」

「そんなに言ったか?」

「八回目です」

「よく覚えておるのう」

 と、リューシェ。

「書類仕事は嫌そうなくせに、こういう記録は妙に正確じゃ」

「旦那様が相手だと、数える癖がつくんです」


 結局、三人はそのまま第三泉の調整へ取り掛かった。


 石を一枚浮かせる。

 水の抜ける角度を変える。

 流れ込む湯の筋を少しだけ細める。

 そのかわり、白湯側の受けを一段深くする。


 ほんの僅かな差だ。

 だがアレクシスは、その僅かを本気で詰めにいく。


 リューシェが魔の流れと地熱の癖を見る。

 アレクシスが物理の流れを見て手を入れる。

 ユノは言われた石片や木桶を運び、灯りを持ち、濡れた布を差し出す。


 その様子は、もはや工事の仕上げというより、三人だけの共同作業だった。


「のう主様」

「何だ」

「おぬし、今やっておること、完全に職人じゃぞ」

「宿主だ」

「勇者ではないな」

「最近それは言われる」

「主様、おぬし昔から、何かを詰め始めると止まらんところがある」

「そうか?」

「そうじゃ。剣の間合い、陣のほころび、敵の癖、全部そうだった。今それが湯へ向いておるだけじゃ」

「……悪いことではないな」

「悪くはない。周りは大変じゃが」

「主様、その“大変”に僕も入ってますよね」

 と、ユノ。

「入っておるぞ」

 と、リューシェ。

「しかもかなりな」

「そうですよね……」

「嫌か?」

 と、アレクシス。

「え」

「嫌なら言え」

「……い、嫌じゃないです」

「なら問題ない」

「いや、そういうことじゃなくてですね」

「坊や、諦めろ。主様はそういう返ししかできん」

「最近分かってきました……」


 第三泉の調整がひと区切りついた頃には、外はもう群青色だった。


 広間の灯りが回廊へ漏れ、厨房の方からは遅い夕食の匂いがまだ少し漂っている。職人たちはとっくに引き上げ、厩舎の馬も静かになっていた。


 普通なら、これで終わりだ。


 だがアレクシスは露天の方へ顔を向けた。


「次は露天だ」

「まだあるのか」

 と、ベルノルト。

「ある」

「何が」

「流しが、あと少しだ」

「また少しですか!」

「少しが大事だ」

「最近その理屈ばっかりですね!」

「事実だ」

「主様、開業前夜くらい、人として少し浮かれてもよいのではないか?」

 と、リューシェ。

「浮かれている」

「その顔で?」

「表に出ていないだけだ」

「面倒くさいのう」

「でも、ちょっと分かります」

 と、ユノが小さく言った。

 アレクシスとリューシェが同時に彼を見る。

「何がだ?」

「その……僕も、部屋を見て回ってると、もうすぐ開くんだなって思って……。でもそう思うと、ここがまだ少しでも変だったら嫌だなって……」

「…………」

「だから、主様が気になるの、少し分かる気がします」

「ほう」

 と、リューシェが口元を緩める。

「坊や、すっかり宿の側の顔をするようになったのう」

「えっ」

「今のは良い言葉だ」

 と、アレクシス。

「……あ」

 と、ユノ。

「は、はい」

「よく見ている」

「……っ」


 またそれだけで耳が赤くなる。

 だが今度のユノは、俯くだけではなかった。少しだけ嬉しそうに、そして少しだけ誇らしそうに胸を張った。


 露天へ向かう回廊は、夜の気配を吸って静かだった。


 外へ出ると、山の空気は昼より冷えている。

 だが露天の岩組みの周りだけは、湯気と地熱で柔らかな暖かさがある。谷の向こうには稜線の黒い影があり、その上にはまだ淡い月がかかっていた。


 岩棚の露天は、この宿の顔だ。


 アレクシスがそう言い切った場所。

 長く言葉を減らして浸かるための湯。

 客に見せたい景色の中心。


 だからこそ、ここはとりわけ気になる。


「流しが少し強い」

 と、アレクシス。

「客が入った時に縁から落ちる音が勝つ」

「音まで気にするのか」

 と、ベルノルト。

「ここは静けさが大事だ」

「だが湯を止めるわけにはいかん」

 と、リューシェ。

「なら、ここの石を寝かせるか?」

「いや。寝かせすぎると今度は湯面が鈍る」

「主様、それ、人間の感覚で分かるんですか」

「分かる」

「またその返しだ」

「事実だ」

「強い……」


 三人はまた、露天の縁へ膝をついた。


 石を一枚浮かせる。

 流れの角度をわずかに変える。

 溢れた湯が落ちる先へ、柔らかな石を置く。

 音を殺すために苔を噛ませる。

 湯の線は途切れさせない。だが耳障りにはしない。


 地味だ。

 地味すぎるほど地味だ。


 だが、その地味さに、三人とも本気だった。


「のう主様」

 と、リューシェが手を止めずに言う。

「何だ」

「昔、魔王軍の前線で夜通し陣地を詰めた時より、今の方が顔つきが穏やかじゃな」

「そうか?」

「そうじゃ。あの時は勝つために詰めておった。今は、客を迎えるために詰めておる」

「……それは、違うな」

「どう違う」

「今は、負けたくないのではない」

「ほう」

「ちゃんと迎えたいだけだ」

「……そうか」


 リューシェは少しだけ黙った。


 それはたぶん、彼女にとっても少し特別な言い方だったのだろう。

 勝つためではなく、迎えるために本気になる。

 それは戦場にはなかった熱量だ。


「主様」

 と、ユノがそっと言う。

「何だ」

「僕、灯り、もう少し下げます」

「なぜだ」

「その方が、湯気がきれいに見える気がします」

「……やってみろ」


 ユノは吊り灯りの位置をほんの少し下げ、光が直接湯面へ当たりすぎないようにした。すると確かに、白い湯気の輪郭がやわらかく見えるようになる。


 アレクシスはそれを見て、しばらく何も言わなかった。


「主様?」

 と、ユノが不安そうにする。

「……いい」

「え」

「それでいい」

「……っ、はい」


 リューシェが、可笑しそうに肩を揺らした。


「坊や、おぬし本当に看板係向きじゃな」

「今の話の流れでそこへ戻るんですか!?」

「戻るとも。湯気をきれいに見せる感覚がある」

「それは……その……」

「宿の顔を作る側じゃ」

「だから看板係は嫌ですって!」

「主様、どうする」

「接客も景色も見る側になれそうだ」

「全然諦めてない!」


 やがて、最後の石が定まり、流れも落ち着いた。


 露天の縁から落ちる湯は、さっきまでより音が静かだ。

 それでいて、流れは死んでいない。

 湯面も鈍らず、夜気の中でやわらかく揺れている。


 アレクシスは、立ち上がって少し離れたところから露天を眺めた。


 月。

 湯気。

 石の濡れた光。

 静かな流れ。


 隣にリューシェ。

 少し後ろにユノ。

 振り回された顔をしたまま、だがベルノルトも戸口の陰から見ている。


 ここまで来た。


 湯だけではない。

 建物も、飯も、寝床も、灯りも、人も。

 全部が、ようやく“宿”になった。


 長い沈黙のあと、アレクシスが初めて少し笑う。


「……これなら客を迎えられる」


 その一言に、リューシェはふっと息を吐いた。


「ようやく言うたのう」

「長かったですね……」

 と、ベルノルト。

「本当に長かったです……」

 と、ユノ。


 だがその声は、どれも疲れより先に、同じ高揚を帯びていた。


 宿はまだ、明日の朝を迎えていない。

 だがこの夜の時点で、三人にはもうはっきり分かっていた。


 ここはただの建物ではない。

 はっきりと、自分たちの場所になっている。

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