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異世界湯けむり勇者 ~魔王討伐後に王国から領地も爵位ももらったけど全部妻子に継がせて前世で大好きだった源泉かけ流しの宿を異世界で本気再現したら七つの泉質を目当てに貴族も冒険者も押しかけてきます~  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 七泉の湯宿《朝霧亭》、開業までの十二日譚

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第11話♨開業前日にやってきた厄介ごと

 開業前日というものは、妙に静かな顔をして忙しい。


 職人たちの大仕事はほぼ終わっている。

 大工槌の音も、石を割る音も、もう絶え間なくは響かない。

 その代わり、細かな確認と最後の掃除と、足りないものを埋めるための行き来が、あちこちで止まずに続く。


 客室の窓掛けはまっすぐ下がっているか。

 寝台の軋みはないか。

 湯殿の札は見やすいか。

 厨房の塩壺は定位置か。

 広間の卓は揺れないか。

 馬車寄せの泥は固まっているか。

 厩舎の藁は湿っていないか。


 そういう、小さくて、しかし一つでも抜けると気になることが、山のように残っている。


 そしてアレクシスは、その全部を気にしていた。


「主様」

 と、リューシェが朝の広間で言った。

「何だ」

「おぬし、今朝から何回“そこは半指ずれておる”と言うたと思う」

「数えていない」

「わしは五回」

「少ないな」

「増やすな」

「まだ気づいた場所がある」

「やれやれ、もう宿そのものになっておるのう」


 広間の卓の配置を直し終えたユノが、少し離れたところからそのやり取りを聞いていた。


 彼も、もう開業前日の空気を理解している。

 昨日までの作業とは違う。

 今日の忙しさは、“作る”ためではなく、“迎える”ための忙しさだ。


 だからユノも朝から働いていた。


 帳場の拭き上げ。

 客室の最終確認。

 湯上がり用の水差しの補充。

 広間の長椅子の布掛け。

 厨房と食堂の行き来。


 働いていないと落ち着かない、という意味では昔と同じかもしれない。

 だが中身はもう違った。


 ここにいていいのかを確かめるためではない。

 明日、客が来た時に恥ずかしくないようにしたい。

 そう思って動いている自分に、ユノ自身がまだ少し驚いていた。


「ユノ」

 と、アレクシスが呼ぶ。

「は、はい!」

「そこは終わったか」

「はい、帳場は拭き終わりました。あとは茶器を並べて、それから客間の水差しを――」

「よし」

「……っ、はい」


 短い“よし”一つで、胸の奥が少し熱くなる。

 もうそれを隠しきれないくらいには、ユノはこの場所へ馴染み始めていた。


 だからこそ、その日の昼前、裏口近くで聞こえた笑い声に、身体が先に凍りついた。


「へえ、ほんとに立派になったじゃねえか」

「見ろよ、馬車寄せまである」

「辺境の山奥のくせに、金はかかってそうだなあ」


 下卑た、聞き覚えのある声だった。


 ユノの喉が、一瞬で干上がる。


 振り向く前に分かった。

 分かってしまった。


 あの日、裏市場で台の周りをうろついていた男たちの声だ。

 売人の取り巻きだったのか、それとも同じ穴の狢か。

 とにかく、あの場所の目と口をした連中。


 ユノの手から、抱えていた布束が落ちた。


「……あ?」


 声の主たちが、にやにやしながら回廊の影から現れる。


 三人。

 服は少しはましになっていたが、顔つきは変わらない。

 人を人として見ない者の目だ。


「おいおい、やっぱりいたじゃねえか」

「元気そうだな、坊や」

「へえ、いい服着せてもらってる」


 ユノは一歩も動けなかった。


 頭では逃げろと思う。

 アレクシスを呼べとも思う。

 だが足が床に縫い止められたみたいに固まる。


 昔の恐怖というのは、考える前に身体へ戻ってくる。

 叩かれる前の空気。

 声を荒げられる前の予感。

 逃げようとして失敗した時の痛み。

 そういうものが、一気に喉と背中を締め上げた。


「なあ」

 と、一人が言う。

「ずいぶんいい場所見つけたじゃねえか」

「すごいよなあ」

 と、もう一人が回廊や柱を見回す。

「湯宿だってよ。こりゃ儲かるだろ」

「で、お前さ」

 三人目が、わざとらしく笑いながらユノへ顔を寄せた。

「恩人様にちゃんとお礼したのか?」

「…………」

「黙ってんなよ」

「……っ」

「それとも、今でもおとなしく“使われる側”が似合ってるか?」


 ユノの肩がびくりと震える。


 その時だった。


「そこで何をしている」


 低い声が、広間の奥からまっすぐ届いた。


 三人の男が揃って振り向く。

 アレクシスがいた。


 昼前の薄い光を背に、回廊の先に立っている。

 普段と変わらない顔だ。

 怒鳴ってもいないし、走ってもいない。

 ただ静かに立っているだけ。


 なのに、空気の温度が少し下がったように感じる。


 リューシェもその少し後ろに姿を見せた。

 いつもの飄々とした顔ではあるが、目だけは笑っていない。


 男の一人が肩をすくめてみせる。


「別に? 懐かしい顔を見に来ただけだ」

「そうは見えんな」

 と、アレクシス。

「客ではないなら、敷地から出ろ」

「客かどうかはこっちが決めることだろ?」

「違う」

「は?」

「ここは宿だ。誰を客として迎えるかは、宿の側が決める」

「へえ」

 男はにやついたまま、わざと柱へ手をついた。

「じゃあ、歓迎される客になってやってもいいぜ? ただし、ちょいと筋は通してもらわねえとな」


 ベルノルトが、いつのまにか帳場の陰から顔を出していた。

 顔色は悪い。

 だが逃げずに、状況を見ている。


「主様」

 と、リューシェが小さく言う。

「何だ」

「これは金をせびりに来ておる顔じゃな」

「見れば分かる」

「最近、そればかりじゃの」

「事実だ」

「今はそういう遊びをしておる場合ではない」


 アレクシスはユノを見た。


「こちらへ来い」

 短い一言。

 だがユノは動けなかった。


 動こうとすると、過去が足首を掴む。

 “逆らったらどうなる”が、先に身体を支配する。


 男たちがその反応を見て笑う。


「ほらな」

「まだこっちの声の方が身体に入ってる」

「いいじゃねえか。だったら話は早い」

「何がだ」

 と、アレクシス。

「そいつは元々、こっちの商品みてえなもんだ」

「違う」

「違わねえよ。あんたが一度金を払ったからって、周りが全部引くと思うなよ?」

「思っていない」

「なら話が早い。宿も立派、湯もある、客も入りそう。なら“面倒ごとを起こされたくなけりゃ”払うもん払ってもらおうか」

「なるほど」

 アレクシスは頷いた。

「ようやく本題か」

「最初からそう言ってんだろ」

「なら最初からそういう顔をして来い。懐かしい顔を見に来た、などと汚い前置きをするな」

「てめえ……」


 男の顔が引きつる。


 ここでアレクシスが剣を抜けば、話は早い。

 だが彼は抜かなかった。


 ここは戦場ではない。

 宿だ。


 そして、これは開業前日にやってきた最初の“宿の問題”だった。


 だからこそ、彼は宿主として片づけるつもりでいた。


「金は払わん」

 と、アレクシス。

「当然だ」

「はっ、強気だな」

「おまえたちの相手をしている時間の方が惜しい」

「おいおい、立派な宿主様は客商売の怖さを知らねえらしいな。こっちは少し騒ぐだけでいいんだぜ? “あの宿は曰く付きだ”“買った奴隷を囲ってる”“女みてえなガキを使って妙な商売をしてる”――そう言いふらすだけで」

「言わせておけ」

「なんだと?」

「どうせ、そういうことしか言えん連中の言葉だ。まともな客なら、それだけで全部を決めたりはせん」

「へえ、ずいぶん自信だな」

「ある」

「どこからだ」

「宿からだ」


 その答えは、妙に静かだった。


 男たちは、一瞬だけ言葉を失った。

 “宿からだ”などと真顔で言う相手を、たぶん想定していなかったのだろう。


 そこへリューシェが、わざと軽い口調で割り込む。


「のう、おぬしたち」

「なんだ、エルフ」

「勘違いしておるようじゃが、ここはもう“客を脅せば金が落ちる場所”ではないぞ」

「だったら何だ」

「主様の宿じゃ」

「それが何――」


 最後まで言わせず、アレクシスが一歩前へ出た。


 ただそれだけで、男たちの口が止まる。


 剣は抜かない。

 拳も振るわない。

 けれど、戦場で生き延びてきた者の“これ以上は許さん”という空気が、まっすぐに出る。


 ユノは、その背中を見ていた。


 あの日、裏市場で自分を連れ出した時の背中と同じだ。

 大きく見せようとはしていない。

 怒鳴ってもいない。

 なのに、前へ出た瞬間に全部の線を引いてしまう背中。


「出て行け」

 と、アレクシス。

「今ここで出て行くなら、それで終わりだ」

「……舐めてんじゃねえぞ」


 一人が、腰の短剣に手をかけた。


 その瞬間だけだった。


 アレクシスの身体がわずかに沈み、次にはもう間合いへ入っている。


 鈍い音。

 男の手首が跳ね上がり、短剣が床へ落ちる。

 同時に、肩口へ最小限の打撃。

 男は呻き声もろくに上げられず、膝から崩れた。


 派手さはない。

 血も出ない。

 だが立ってはいられない。


 残る二人が、完全に青ざめた。


「次は誰だ」

 と、アレクシス。


 声は低く、冷たい。


 それだけで十分だった。


「ひっ」

 短く喉が鳴る。

「わ、悪かった……」

「二度とこの敷地へ来るな」

「……っ」

「次に来たら、客としてではなく侵入者として扱う」

「…………」

「聞こえなかったか」

「き、聞こえた!」


 男たちは仲間を引きずるようにして後ずさる。


 その途中、ひとりが悔し紛れに何かを言おうと口を開きかけた。

 だがリューシェが、にっこり笑って言う。


「まだ何かあるかの?」

「…………い、いえ」


 その笑顔の方が、ある意味ではアレクシスより怖かったのかもしれない。


 やがて三人は、回廊を踏み外さんばかりの勢いで敷地の外へ消えた。


 しばらく、沈黙が残る。


 ベルノルトがようやく息を吐いた。


「……本当に毎回、必要最小限で済ませますよね」

「必要最小限だ」

 と、アレクシス。

「十分怖いですけど」

「怖くなければ出て行かん」

「理屈は分かります」

「分かるのか」

「最近は、少しずつ……」


 リューシェは肩をすくめた。


「主様、今のは“宿主としての初めての追い払い”としては悪くなかったぞ」

「初めて、か」

「そうじゃ。戦場の敵ではなく、“宿を荒らす手合い”を外へ出した」

「同じではないな」

「違う。だから今のは意味がある」

「……そうか」


 そこでようやく、アレクシスはユノへ向き直った。


 ユノは、まだその場から動けずにいた。

 顔色は白い。

 肩は震えている。

 だが視線だけは、ちゃんとアレクシスへ向いている。


「来い」

 と、アレクシスは今度も短く言った。


 ユノは、さっきと違って少しだけ動けた。

 一歩。

 もう一歩。

 それでも膝は頼りなく、最後はほとんど倒れ込むように近くの長椅子へ座る。


 リューシェがすぐに湯を持ってきた。


「ほれ、飲め」

「……はい」

「手が震えておるのう」

「……すみません」

「謝るな」

 と、今度はアレクシス。

「怖かっただけだ」

「…………」

「それは恥ではない」


 ユノは唇を噛んだ。


 怖かった。

 今も怖い。

 もしアレクシスが来なかったら、あの連中は何をしただろう。

 宿に何を言いふらしただろう。

 自分はまた、何も言えずに従っただろうか。


 そう思うと、遅れて震えが来る。


「主様」

 と、リューシェが低く言う。

「うむ」

「言うてやれ」

「何を」

「分かっておるくせに」


 アレクシスは、しばらく黙っていた。


 こういう時、彼は言葉が多い方ではない。

 いや、少ない。

 だが今日は、それでは足りないと分かっていた。


 だからユノの前へ膝を折り、視線を合わせる。


「ユノ」

「……はい」

「ここはもうおまえの居場所だ」

「…………」

「勝手に奪わせん」


 たったそれだけだった。


 だがユノの目に、ぶわっと涙が浮かぶ。


 泣くまいとした。

 したが、無理だった。


「……っ、はい……」

 かすれた声で答えるのが精一杯だ。


 アレクシスはそれ以上、余計なことは言わなかった。

 泣くなとも、大丈夫だとも、気にするなとも。

 ただ、その場にいた。


 リューシェも、今日はからかわなかった。


 代わりに立ち上がり、回廊の外を見て鼻を鳴らす。


「まったく、開業前日に汚いものを持ち込みおって」

「汚れたか?」

 と、アレクシス。

「床ではない。空気じゃ」

「……なら、湯へ行くか」

「今か?」

「今だ。開業前の最後に、悪い気は流しておきたい」

「のうベルノルト」

「はい」

「主様はこういう時だけ、妙に宿らしいことを言う」

「最近の旦那様、だいたいずっと宿らしいですよ」

「それもそうじゃな」


 ユノは涙を拭いながら、二人のやり取りを聞いていた。


 怖さはまだ残っている。

 消えたわけではない。

 きっと簡単には消えない。


 それでも一つだけ、前とは違うものがはっきりあった。


 もう自分は、ただ逃げるしかない場所にいるわけではない。

 守ると言ってくれる人がいて、ここにいていいと言ってくれる場所がある。


 その事実が、震える胸の奥で、小さな火のように残っていた。

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