第12話♨宿札が掛かる朝
開業の朝は、驚くほど静かだった。
まだ陽は山の向こうに隠れ、東の空がようやく白み始めたばかりだ。夜の冷えを残した空気が、山腹の木々のあいだを細く流れ、石垣の縁に薄い露を置いていく。谷の底には靄がたまり、その上を、七泉の湯宿《朝霧亭》から立ちのぼる湯気だけが、ゆっくりと白く漂っていた。
静かだ。
だが、その静けさは空っぽではない。
人の気配がちゃんとある静けさだ。
厨房では、火がすでに起きている。
広間の灯りはまだ落としてあるが、帳場の奥には小さな明かりがあり、回廊にはごく薄く朝の光が差し始めている。客室の寝台は整えられ、窓掛けは揺れず、広間の卓には布がまっすぐに掛かり、湯殿の札は今朝の位置へ掛け直されていた。
宿は、完成していた。
七泉の湯宿《朝霧亭》。
最初に山腹の湯を見つけたあの日から、何枚もの図面を書き、何度も石を積み直し、村人と話し、職人と揉め、飯を試し、湯を測り、湯脈を読み、布を選び、寝台を整え、灯りの位置まで詰めてきた場所。
夢ではない。
空想でもない。
もうちゃんと、ここに建っている。
そのことを一番強く感じているのは、たぶんアレクシスだった。
彼はまだ薄暗い回廊を一人歩いていた。
宿主として、最後の見回りをしているのだ。
まずは赤湯。
湯気の濃さを見る。
湯面の揺れ方を見る。
石床が冷えすぎていないか確かめる。
次に白湯。
白い濁りの出方を見て、壁際の水滴を拭う。
青湯では足を止め、湯口の流れをじっと見つめる。
硫黄泉では換気の小窓を少しだけ広げ、塩泉では湯上がりの休み椅子の角度まで直した。
細かい。
相変わらず細かい。
だがもう、ここまで来れば誰も止めない。
止めても無駄だと知っているからだ。
「主様」
後ろから、やや呆れた声がした。
振り向くと、リューシェが回廊の柱にもたれていた。朝の淡い光の中でも、金髪と翠の目は妙に映える。見た目だけなら、どう見てもこんな山の宿の開業を仕切る側の人間には見えない。だが実際には、ここまでの宿づくりでアレクシスに次いで深く湯へ首を突っ込んだ張本人である。
「何だ」
と、アレクシス。
「何だ、ではない。今朝だけで何度目の見回りじゃ」
「二度目だ」
「嘘をつけ。わしは三度見たぞ」
「それは途中の確認だ」
「違いが分からん」
「分からなくていい」
「相変わらずじゃのう」
リューシェは回廊を歩きながら、アレクシスの隣に並んだ。
「第三泉はどうじゃ」
「悪くない」
「“悪くない”か」
「今朝はいい」
「塩泉は」
「安定している」
「露天は」
「あとで見る」
「まだ見るのか」
「当然だ」
「主様、おぬし、開業の朝までまったくぶれぬな」
「ぶれて困る」
「その頑固さ、戦の時より始末が悪いぞ」
「宿だからな」
「最近、本当にそれしか言わなくなったのう」
そこへ、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
ユノだ。
両腕に茶器の盆を抱え、危なげなく回廊を曲がってくる。その足取りは、初めてここへ来た頃に比べれば見違えるほど軽くなっていた。まだ緊張はしている。だが、怯えは前へ出ていない。
「主様、リューシェさん。広間の支度、終わりました」
「早いな」
と、アレクシス。
「はい。あ、でも、湯上がりの水差し、白湯の方だけもう一つ増やした方がいいかなって……」
「理由は」
「白湯って、最初に入りたい人も多そうで……そのあと、そのまま広間に来る前に喉が渇くかなって」
「……いい」
アレクシスは短く言った。
「そうしろ」
「はい!」
ユノの顔がぱっと明るくなる。
リューシェがそれを見て、にやにやと笑った。
「のう坊や」
「は、はい?」
「今の、完全に宿の顔じゃぞ」
「え?」
「“客がどう動くか”を見ておる」
「そ、そんな大した……」
「大したことじゃ」
と、アレクシス。
「覚えておけ」
「……っ、はい」
また耳まで赤くなる。
けれど今のユノは、昔みたいに縮こまるだけではない。嬉しそうに胸の前で盆を抱え直し、ちゃんとその場に立っていられる。
リューシェがくすくす笑う。
「やはり看板係向きじゃな」
「まだ言うんですか!?」
と、ユノ。
「今日くらいはやめてください!」
「何故じゃ。開業の日こそ言うべきじゃろう」
「言うべきじゃありません!」
「主様、どう思う」
「接客の所作はもう十分だ」
「だからそういう意味じゃなくて!」
「坊や、諦めろ」
「リューシェさんまでそんな顔しないでください!」
三人の声が、朝の回廊に小さく響いた。
笑い声がある。
軽口がある。
誰もそれを不自然に思わない。
それだけで、もうこの宿は三人のものになっているのだと分かる。
アレクシスは最後に露天へ向かった。
岩棚の先に切った露天は、朝の空気をまとって静かに湯気を立てている。湯の流れは昨日の深夜に整えたままだ。石の縁を伝って落ちる音は柔らかく、湯面は無駄に騒がず、それでいて死んだようには見えない。
良い。
いや、彼の基準で言うなら“ようやく良い”。
アレクシスは露天の縁に手を置き、しばらく谷の向こうを見た。まだ朝日が差しきらない山の景色は、夜とも昼とも違う静かな青を持っている。
「どうじゃ」
と、リューシェが隣で訊く。
「いい」
と、アレクシス。
「今度の“いい”は信用してよいか」
「いい」
「二度言うたな」
「そうだな」
「なら、もう十分じゃろう」
「……ああ」
ユノもそっと近づいてきて、三人で露天を見下ろした。
「ほんとに……できたんですね」
と、ユノが呟く。
「できた」
と、アレクシス。
「まだ少し信じられません」
「昨日まで、主様が“ここを半指ずらす”だの“札をもう一枚”だの言うておったからの」
と、リューシェ。
「本当に開く気があるのか時々疑うたぞ」
「開くから詰めていた」
「そう言うと思ったわ」
ユノは露天の湯気の向こうに見える本館を見た。
石と木でできた建物。
山腹の地形に沿ってつながる回廊。
湯殿。
広間。
帳場。
厩舎。
厨房。
客室の窓。
最初、自分にとってここはただ“逃げ込んだ場所”に近かった。
次に“働く場所”になった。
そして今は、“自分の手でも整えてきた場所”になっている。
「主様」
と、ユノ。
「何だ」
「僕……その……ちゃんと、やれますかね」
「何をだ」
「今日から……宿の人として」
「昨日まで何をしていた」
「え」
「おまえはもうずっと宿の側だ」
「…………」
「今さらだ」
「……っ」
ユノは少しだけ笑って、そして少しだけ目を潤ませた。
「はい」
「泣くな」
「泣いてません!」
「泣きそうではある」
「主様、それをわざわざ言う必要あるかえ」
「事実だ」
「最近ほんにそればかりじゃのう」
露天から戻ると、あとは開けるだけだった。
広間の卓は整っている。
帳場の帳面も開いている。
厨房の火も起きた。
湯殿の札も掛かった。
茶器も並び、水差しも満ちている。
リューシェは帳場へ座り、宿帳と鍵札の位置を確かめる。
ユノは広間の最後の塵を払い、玄関前の敷布をまっすぐに直す。
アレクシスは帳場の脇に立てかけてあった一枚の板を手に取った。
宿札だ。
《朝霧亭》と刻まれた木札。
まだ新しいが、使い込まれればいずれ手の脂と風と湯気で、良い色になっていくだろう。
アレクシスはそれを持って玄関へ出た。
外の空気はまだ朝の冷たさを残している。
だが空は少しずつ明るくなり、山の稜線の向こうから陽が差し始めていた。
リューシェとユノも、少し遅れてその後ろへついてくる。
「主様」
と、リューシェ。
「何だ」
「今さらじゃが、本当にここまで来たのう」
「来たな」
「途中で投げ出すのではと、ほんの少しだけ思うたぞ」
「そんなに信用がなかったか」
「湯への執着は信用しておった。だが宿というのは、人も道も飯も帳場も、全部要るからの」
「全部揃えた」
「揃えたのう」
「揃えました……」
と、ユノが小さく言う。
「主様、僕、まだ少しだけ怖いです」
「何がだ」
「ちゃんと、うまく始まるかなって」
「始まる」
「言い切るんですね」
「始まるから準備した」
「そこは本当に強いなあ……」
アレクシスは玄関脇の金具へ宿札を掛けた。
木札が軽く鳴る。
それだけで、不思議と空気が変わった。
もう工事中ではない。
もう準備中でもない。
ここは開いたのだ。
七泉の湯宿《朝霧亭》は、今この瞬間から、客を迎える場所になった。
三人はしばらく黙って、その宿札を見ていた。
ほんの短い沈黙だった。
だが第一章を締めるには十分な沈黙だった。
――その時である。
遠く、街道の下の方から、微かに車輪の音が聞こえた。
ごと、ごと、と規則正しい音。
しかも一つではない。
続いて、誰かの大声。
さらに別方向から、人の笑い声と、荷物の揺れる気配。
ユノが不安げに振り向く。
「……あ」
「早いのう」
と、リューシェが面白そうに笑う。
「まだ札を掛けたばかりじゃぞ」
アレクシスは、山道の先をじっと見た。
白み始めた朝の靄の向こう、確かに人が来る。
馬車。
旅人。
それも一組ではない。
静かな開業の朝になるはずだった――などと、誰かが思っていたような気もする。
だが、たぶんそれは最初から似合わなかったのだろう。
アレクシスは静かに言った。
「……来たな」
その言葉の先に、
貴族も、冒険者も、魔族も押しかけてくる、にぎやかな開業初日の騒動が続いている。




