第13話♨開業初日から満室です!? 貴族も冒険者も魔族も押しかけてきた
山あいの朝は、たいてい静かだ。
少なくとも、アレクシスはそう思っていた。
夜の冷えをわずかに残した空気が、石垣の縁と回廊の柱を撫で、谷底から上がってきた薄い靄が山腹の木々のあいだをゆっくり流れていく。まだ陽は完全には差しきらず、東の空が白みはじめたばかりだというのに、七泉の湯宿《朝霧亭》の湯気だけが、もうしっかりと生きた白さで立ちのぼっていた。
赤湯の鉄気を含んだ重めの湯気。
白湯のやわらかく明るい靄。
青湯の、見た目には目立たないくせに空気の澄み方だけが少し違う気配。
硫黄泉の、近づく前から鼻の奥に来る強い匂い。
塩泉の熱の持ち方。
清湯の癖のなさ。
そして岩棚の露天へ流れる、静かで長く浸かるためのぬる湯。
どれも今朝は悪くない。
いや、アレクシスの基準で言うなら、ようやく「客を迎えられる」程度にはなっていた。
彼は玄関先に立ち、朝の空気を吸い込んだ。
木の香り。石の匂い。少し湿った土。湯気に混じる鉄と硫黄。まだ火を起こしたばかりの厨房の煙。全部が混ざり合って、《朝霧亭》の最初の朝の匂いになっている。
「……悪くない」
ぽつりと呟く。
これまで何度も見回った。夜のうちにも見た。明け方にも見た。第三泉の温度も、露天の流しも、広間の卓の位置も、帳場の札も、厨房の塩壺の場所まで確認した。
もう、やるべきことはほとんどない。
だから、ここから先は静かに始めたかった。
最初から無理に客を詰め込まない。
数組を丁寧に迎え、湯の流れと宿の動線を見て、明日以降に微調整する。
宿の開業初日としては、そのくらいが理想だ。
そう考えていた。
「主様」
背後から声が飛んでくる。
振り返らなくても分かる。リューシェだ。
「何だ」
「今の“悪くない”は、かなり良い時の顔じゃ」
「そうでもない」
「そうじゃろうか。昨夜からずっと見ておったが、露天の流れが落ち着いた時と、今の顔はだいたい同じじゃぞ」
「よく見ているな」
「おぬしこそ、わしのことを言えん」
リューシェは回廊の柱にもたれ、いかにも面白がっている顔をしていた。金髪は朝の薄明かりを受けてほのかに色を変え、翠の目は眠そうに細められている。見た目だけなら、こんな山奥の湯宿の開業朝に立っているのが不思議なくらいの美少女だが、中身は千年を越えて生きてきたエルフ魔女であり、口の減らなさも年季が入っている。
「のう主様」
「何だ」
「今さらじゃが、本当に開くのじゃな」
「宿札も掛けた」
「それは見た」
「なら開く」
「その理屈の通し方、本当に昔から変わらぬのう」
その時、ぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。
ユノである。
両手に茶器の盆を抱え、まだ少しだけ緊張した顔で、しかしきちんと足音を殺して回廊を渡ってくる。以前のような怯えきった動きではない。緊張はしているが、もうこの宿の中を歩く足取りをしている。
「主様、リューシェさん」
「どうした」
と、アレクシス。
「えっと……広間の支度、終わりました。茶器も並べました。それから、白湯の方の水差し、もう一つ増やしてあります」
「理由は」
「その……最初に白湯へ行く人、多いかなって。湯上がりに広間まで来る前に、喉渇く人もいると思って」
「……いい」
「はい!」
それだけで、ユノの顔が明るくなる。
リューシェがその横顔を見て、にやにやした。
「やはり坊や、おぬし看板係向きじゃな」
「またですか!?」
ユノが即座に反応する。
「今日くらいやめてください!」
「何故じゃ。開業初日こそ売り込み時ではないか」
「売り込みません!」
「主様、どう思う」
「接客の所作は十分だ」
「だからそういう意味じゃなくて!」
「坊や、諦めろ」
「諦めません!」
そのやり取りを聞きながら、アレクシスは少しだけ口元を緩めた。
悪くない。
宿はできた。
湯も生きている。
飯も整った。
帳場も、広間も、客室も、厩舎も、馬車寄せも、昨夜のうちに全部最後の確認を終えた。
そして何より、ここにはリューシェとユノがいる。
最初から完璧などあり得ない。
だが少なくとも、“始める”だけのものは揃っていた。
「では」
と、アレクシスは宿の正面へ視線を戻した。
「今日は静かに始める」
「その願いは叶うかのう」
と、リューシェ。
「叶う」
「根拠は」
「今、静かだからだ」
「その根拠の薄さよ」
「主様、それ、ちょっと不安になる言い方です……」
と、ユノ。
不安になるべきだった。
それを証明するように、遠く、街道の下の方からごとりと車輪の音がした。
最初は一つだけに聞こえた。
だがよく耳を澄ませると、二つ、三つ、いや、もっとだ。しかも馬の足音もある。さらに別方向から、荷を担いだ人間の声まで混じる。
アレクシスの眉がわずかに動いた。
「……早いな」
「主様」
と、リューシェが面白そうに言う。
「来たぞ」
「来ましたね……」
と、ユノの声はもう少し情けない。
「何がだ」
と、アレクシス。
「音からして、静かな開業ではないものがです」
「まだ分からん」
「主様、そういう時に限って分かるんです」
数刻後。
ユノの言葉は、完全に正しかった。
まず現れたのは、白く塗られた箱馬車だった。
山道にしては上等すぎる車輪。磨かれた金具。二頭立ての馬。扉に刻まれた、王都南方の有力貴族の紋章。続いて荷馬車一台、護衛騎士、従者、侍女。明らかに「泊まる」と最初から決めて来た種類の客である。
馬車が馬車寄せへ入り込むと、御者が手綱を引き、扉が開いた。
最初に降りてきたのは、立派な口髭を整えた中年の男だった。毛皮の縁取りのある外套をまとい、疲れは見せながらも姿勢は崩れない。いかにも「自分はもてなされる側だ」と疑わぬ顔で宿を見上げる。
続いて、品の良い貴婦人。年若い令嬢。老騎士。侍女二人。
中年貴族が宿を見上げ、鼻を鳴らした。
「ふむ。山奥にしては、思ったより見られるな」
と、第一声から少しだけ失礼である。
アレクシスは一礼した。深すぎず浅すぎず、必要なだけの礼。
「ようこそ、《朝霧亭》へ。旅塵を落とす前に、温かい茶と冷たい井戸水をお持ちします」
「うむ。応対は悪くない」
「光栄です」
「ただし、香りの強い草茶は好まん」
「では軽い蜂蜜茶にいたしましょう。奥方とご令嬢には白茶を」
「……ほう?」
中年貴族の目が少し動く。
「わたしが草茶を嫌うと分かったか」
「旅装に香料袋をお持ちでない。香りの強いものが苦手な方は、長旅でそうしたものを避けることがあります」
「ふむ……面白い宿主だな」
「宿主ですので」
「最近、本当にその一言で押し切りますよね」
と、小声でベルノルトが帳場の陰から呟いた。
「便利だ」
と、リューシェ。
「よい免罪符じゃ」
だが、貴族の馬車一台くらいなら、まだ想定のうちだった。
問題は、その直後である。
反対側の山道から、がやがやと騒々しい声が一斉に響いた。
「見えたぞー!」
「うおお、ほんとにある!」
「でけえ!」
「なあ、風呂先に入れるかな!?」
「だから最初に聞くことがそれかよ!」
革鎧、剣、槍、弓、大荷物。
若い冒険者五人組が、まるで遠足の子どもみたいな勢いで坂を上がってくる。
予約札? あるわけがない。
紹介状? 持っている顔ではない。
ただし湯への期待だけは満々である。
「主様」
と、リューシェ。
「静かな開業とは何だったのか」
「まだ二組だ」
「二組の時点でもう怪しいぞ」
「僕、もう嫌な予感しかしません……」
と、ユノ。
さらに、その冒険者たちが馬車寄せへ雪崩れ込みかけた時、今度は別の気配があった。
静かすぎて、逆に目立つ気配。
黒い外套。深いフード。長身。足取りは音を立てず、なのに存在だけは妙に際立つ。人間離れした気配を、完全には隠しきっていない。
魔族だ。
アレクシスは一目で察した。
おそらく高位の、だが今は身分も名も伏せている客。
その客は他の者の騒ぎを横目で見ながら、ただ一言だけ言った。
「一室、空いているか」
「ある」
と、アレクシスは即答する。
「一人部屋で良ければ取れる。食事はつけるか」
「つける」
「好き嫌いは」
「強い香草は避けたい」
「承知した」
その簡潔なやり取りを、冒険者のひとりがじろじろ見ていた。
「なんかあの人、怪しくない?」
「旅人なんて大体少しは怪しい」
と、アレクシス。
「気にするな」
「宿主の“気にするな”は、たまに逆に気になるんだよ!」
「そうか?」
「そうなんだよ!」
だが、まだ終わらない。
坂の下から、今度はもっと生活臭のあるざわめきが上がってきた。
「ここかい、新しい湯宿ってのは」
「赤い湯が腰に効くって聞いてな」
「白い湯もあるんだって?」
「見物だけでもしたいねえ」
「見物だけの顔じゃないのう」
と、リューシェ。
「湯治客だ」
と、アレクシス。
地元の老人や、噂を聞きつけた近隣の湯治客たちまで、開業初日の朝からぞろぞろとやってきたのだ。
そしてそこで、宿の空気は一気にてんやわんやになった。
冒険者たちは冒険者たちで、玄関に入るなり大声を上げる。
「おおー、すげえ! 中も立派!」
「木の匂いがいい!」
「おい宿の姉ちゃん! 一番熱い風呂どこだ!?」
「姉ちゃんじゃありません!」
と、ユノが反射的に叫ぶ。
「え?」
冒険者の斧使いが固まる。
「じゃあ妹か?」
「違います!」
「看板娘?」
「違いますって!」
「でも見た目は」
「言わなくていいです!」
貴族の令嬢が、その騒ぎの向こうから興味深そうに目を丸くする。
「まあ……本当に?」
「本当にです……」
「まあ……」
「その“まあ”は何なんですか」
と、ユノは半泣きだ。
リューシェはもう堪えきれずに笑っている。
「主様」
「何だ」
「坊や、やはり看板係に向いておる」
「今言うな」
「今だからじゃ」
「本当に看板娘がいると思って来る客が増えるぞ」
「増えるなら宿の評判になる」
「方向がおかしい!」
と、ユノ。
「僕はそういう売り方はしません!」
アレクシスは騒ぐ面々を一度見渡した。
貴族。
冒険者。
魔族。
地元の湯治客。
身分も、事情も、静けさの基準も、全部違う。
だが、宿主としてやることは一つだ。
客を見て、湯を割り振る。
「全員、少し静かにしろ」
と、アレクシスが言った。
怒鳴ってはいない。
だが、その一言だけで場のざわめきが少し落ちる。
それは戦場で大軍を止めるほどの強制力ではない。
だが宿の玄関先で、大勢に一度耳を向けさせるには十分だった。
「ようこそ、《朝霧亭》へ。当宿は開業初日につき、多少お待たせするかもしれん。だが、湯も飯も逃げはしない。順に案内する。まずは私の話を聞け」
誰も反論しなかった。
中年貴族でさえ、少し面白そうに目を細めている。
「古傷のある者、腰や膝に不安のある者、長旅で足の重い者は赤湯だ」
と、アレクシス。
「最初は短めに入れ。長湯は逆に疲れる」
老騎士がぴくりと顔を上げる。
「私のことか?」
「右膝をかばっている」
「……見ていたか」
「宿主だからな」
「肌の乾きが強い者、刺激に弱い者は白湯へ」
令嬢が、はっと自分の頬へ手をやる。
「白い湯は服に匂いがつきにくい。そこは心配するな」
「聞かれてましたわ……」
と、令嬢が小さく母へ囁く。
「宿主殿、ずいぶん耳がいい」
と、貴婦人。
「必要なことは聞こえる」
「便利ですわね」
「便利です」
「頭の重い者、魔力疲労の強い者は青湯だ。ただし騒ぐな。静かな湯だ」
「俺かな」
と、杖使いの冒険者。
「おまえだ」
「なんで分かるんだよ!」
「顔色」
「この宿主、見すぎじゃねえ!?」
「熱い湯が好きでも、いきなり硫黄泉へ飛び込むな。のぼせる。特にそこのおまえ」
斧使いを指す。
「俺!?」
「目が浮かれすぎている」
「それだけ!?」
「それだけで十分だ」
「塩泉は冬向きだが、今日でも冷えの強い者には悪くない。清湯は薬草湯にも回す。露天は長く浸かる場所だ。騒ぐな」
その最後の一言に、リューシェがすかさず加わる。
「騒ぐと主様が面倒くさくなるぞ」
「その言い方は何だ」
「事実じゃ」
「最近おぬし、私の扱いが雑だな」
「昔からじゃ」
「それもそうです」
と、ベルノルトまで頷く。
こうしてどうにか流れはできた。
ユノは帳場と広間のあいだを駆け回り、貴族一家を客間へ案内し、湯治客へ茶を運び、冒険者に脱衣所の場所を教え、三度目には「だから看板娘じゃありません!」と叫んだ。
叫ぶたびに余計に可憐さが増すあたり、本人には気の毒である。
令嬢が感心したように見ている。
「まあ、本当に男の子なんですの?」
「そうです!」
「でもその髪、とても綺麗ですわ」
「え、あ……ありがとうございます……?」
「褒められて照れておる。やはり看板係向きじゃ」
と、リューシェ。
「リューシェさん!」
冒険者たちは冒険者たちで、すでに半分お祭りだ。
「赤湯すげえ!」
「まだ入ってねえだろ」
「雰囲気で!」
「雰囲気で語るな!」
「なあなあ、全部の湯に入れる?」
「一日で全部はやめろ」
と、アレクシス。
「倒れる」
「えぇ……」
「おまえはまず薬湯寄りの清湯だ」
「なんで!?」
「昨夜ちゃんと寝ていない」
「また当てた!」
「この宿主こわい!」
貴族の方も、思ったより手がかからなかった。
いや、正確には、手がかからないわけではない。
ただ、中年貴族は傲慢ではあっても愚かではなく、宿主が自分たちにただ媚びる男ではないと早々に察したのだろう。
「ふむ」
と、彼は客室へ通される前に言った。
「なかなか面白い。辺境の湯宿がここまで骨を持っているとは思わなかった」
「骨?」
と、アレクシス。
「流儀です」
と、貴婦人が補う。
「主人の言いたいのはそういうことですわ」
「そうか」
「通じましたの?」
「十分だ」
老騎士は赤湯へ案内される前に、アレクシスをちらりと見た。
「宿主殿」
「何だ」
「もし本当に効くなら、後で礼を言う」
「言いたければ言え」
「素直に礼を受ける顔ではないな」
「言われ慣れていない」
「なるほど。面倒くさい類いか」
「よく言われる」
「そうだろうな」
一方、魔族の客は静かだった。
荷も少ない。
話も短い。
だが湯を案内する時だけ、アレクシスは少しだけ声の調子を変えた。
「硫黄泉はやめておけ」
「……なぜ」
「体質に合わん顔をしていた」
「顔で分かるものか」
「分かる」
「そうか」
「ぬる湯か、青湯の方がいい」
「では、そうしよう」
たったそれだけの会話なのに、リューシェは横で小さく笑った。
「主様」
「何だ」
「やはりおぬし、種族より先に湯の相性を見るのう」
「客だからな」
「それはそうじゃが」
「何か問題が?」
「いや、少し宿主らしくて面白いと思うただけじゃ」
午前いっぱい、宿は混乱と活気の境目を行ったり来たりした。
茶器が足りるか、湯桶は回るか、脱衣所で迷う者は出ないか、広間の席は身分差で揉めないか、厨房の皿出しは間に合うか。
だが、アレクシスが人を見て湯を振り、ユノが案内し、リューシェが要所で茶々を入れながらも魔術と帳場の両方を回し始めると、不思議なことに宿の空気は次第に一つの流れを持ち始めた。
よく回っている、とはまだ言えない。
だが死んではいない。
宿としてちゃんと息をしている。
「主様」
と、リューシェが広間の柱の陰から言う。
「何だ」
「何とかなっておるのう」
「何とかする」
「おぬしのそういう言い方、本当にたまに腹が立つ」
「たまにか?」
「今は褒めておる」
「なら受け取る」
そうしてようやく、湯と飯の流れが落ち着き始めた頃だった。
玄関の方で、がらりと乱暴な音がした。
「おいおい、えらく繁盛してるじゃねえか!」
下卑た声だった。
アレクシスが振り向く。
入ってきたのは三人組の男。服は汚れ、剣は鈍く、目つきだけが妙にぎらついている。旅人でも冒険者でもない。新しく開いた場所へ因縁をつけ、酒と金と威張る場所を探す種類の人間だ。
「開業祝いだ、酒出せや!」
「なんだよ、いい女……いや、いいガキもいるじゃねえか」
「辺境の宿にしちゃ、ずいぶん金かかってそうだなあ」
ユノがびくりと震えた。
それを見た瞬間、アレクシスの中で何かがすっと冷える。
怒鳴りはしない。
だが、ここから先はもう宿主として線を引く領域だった。
「客か?」
と、彼は低く訊く。
「は?」
「泊まるのかと聞いている」
「泊まるかどうかは気分次第だよ」
「なら今は客ではない」
「何だと?」
「客でないなら、騒ぐだけの場所ではない。出て行け」
「てめえ、開業初日で偉そうに――」
男の一人が、わざと泥靴のまま回廊へ踏み込んだ。
さらにもう一人が、湯殿の方を覗き込みながらにやにやと笑う。
「へえ、風呂まであんのか。ちょっと見せてもらおうじゃねえか」
「靴を脱げ」
と、アレクシス。
「知るかよ」
その男が湯殿の石床へ一歩踏み込んだ、その瞬間。
空気が変わった。
広間で食事をしていた者たちまで、思わず顔を上げるほどに。
アレクシスはただ一歩、前へ出た。
それだけだ。
だがその一歩には、“ここから先は許さない”という明確な重さがあった。
冒険者たちの騒ぎも、貴族の会話も、一瞬だけ止まる。
「出て行け」
と、アレクシスはもう一度言った。
「湯を汚すな」
男が何か言い返そうとした。
だが、次の瞬間にはその身体が回廊の外へ転がっていた。
派手な剣戟ではない。
拳を振り回したわけでもない。
ただ最短の間合いに入り、最小限の力で、立っていられなくしただけだ。
残る二人の顔が青ざめる。
「な、何しやがる!」
「出て行けと言った」
「て、てめえ……!」
「まだ分からんか」
アレクシスの声は低い。
だが今度は、男たちだけでなく、その場にいた全員が完全に理解した。
この宿主は、湯と客を守るためなら、一歩も退かない男だと。
老騎士が小さく息を吐く。
黒い外套の魔族客が、ほんの僅かに目を細める。
冒険者たちは「うわ、やっぱりただ者じゃねえ」と顔に書いている。
リューシェだけが、いつも通り面白がっていた。
「主様」
「何だ」
「初日からちゃんと宿主をしておるのう」
「している」
「うむ。ようやく“勇者”ではなく“宿主”の顔じゃ」
「両方だ」
「欲張りじゃな」
男たちは結局、それ以上は何もできなかった。
転がされた一人を引きずるようにして、逃げるように玄関から出て行く。捨て台詞すら言えない。言える雰囲気ではなかった。
静寂が戻る。
その静寂を破ったのは、意外にも冒険者の斧使いだった。
「……すげえ」
「語彙が足りない」
と、リューシェ。
「いや、でもすげえもんはすげえだろ!」
「まあ、否定はせん」
「宿主、あんた何者だ?」
「宿主だ」
「いやそれ今の流れで押し切るの無理だろ!」
老騎士が、赤湯上がりの少し柔らかい顔で言った。
「なるほど。湯を守る男というわけか」
「その言い方だと少し格好がつきすぎる」
と、アレクシス。
「事実じゃろう」
と、リューシェ。
「ついさっき、そうして見せたばかりではないか」
ユノは、まだ少し青い顔のままだった。
だがアレクシスが振り向いて短く言う。
「大丈夫か」
「……は、はい」
「怖かったか」
「……少し」
「そうか」
「……でも」
「何だ」
「湯……守ったんですね」
「宿だからな」
「……はい」
それだけで、ユノの目が少しだけ和らいだ。
その後は、むしろ流れが良くなった。
無頼者が消えたことで、場にいた客たちは逆に落ち着いたのだろう。
貴族一家は白湯を気に入り、老騎士は赤湯の後で膝の違いに驚いた。
冒険者たちは薬湯寄りの清湯で意外と大人しくなり、魔族の客はぬる湯から戻ると、最初より肩の力が抜けているように見えた。
地元の湯治客たちは湯加減と広間の飯に満足して、帰る前から「また来たいねえ」と言い合っていた。
夕方、最初の山が越えた頃。
広間には火が入り、食事の匂いが流れ、湯上がりの顔が並ぶ。
リューシェが帳場に肘をつき、面白そうに言った。
「主様」
「何だ」
「静かな開業の朝とは、何だったのか」
「夢だな」
「認めるか」
「認める」
「素直でよろしい」
ユノが、くたくたになりながらも小さく笑った。
「でも……」
「何だ」
と、アレクシス。
「すごく、宿って感じです」
「またそれを言うのか」
「はい」
「そうか」
「はい」
アレクシスは広間を見渡した。
身分も種族も違う客たちが、それぞれの湯と飯と疲れ方に応じて、ちゃんとこの宿の中へ納まっている。まだ不格好だ。まだ完璧ではない。だがもう、“始まった”ことだけは誰にも否定できない。
彼は小さく息を吐いた。
「……悪くない」
その一言に、リューシェが笑い、ベルノルトが「出ましたね、それ」と呻き、ユノはちょっとだけ誇らしそうに胸を張った。
こうして、七泉の湯宿《朝霧亭》の最初の営業日は、静かさとは程遠い形で始まった。
そしてもちろん――
これは、長い長い湯けむりの日々の、ほんの始まりにすぎなかった。




