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異世界湯けむり勇者 ~魔王討伐後に王国から領地も爵位ももらったけど全部妻子に継がせて前世で大好きだった源泉かけ流しの宿を異世界で本気再現したら七つの泉質を目当てに貴族も冒険者も押しかけてきます~  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 七泉の湯宿《朝霧亭》、開業までの十二日譚

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第14話♨湯加減一度、宿主の機嫌は大違い

朝霧亭の二日目の朝は、初日とは違う意味で騒がしかった。


 いや、正確に言えば、騒がしかったのは宿の中ではなく、アレクシスの頭の中だけだったのかもしれない。


 山あいの朝は相変わらず冷える。夜のあいだに石壁は静かに熱を失い、回廊の手すりには薄く露がつき、谷から上がってくる靄が湯気に混じって白く長く伸びる。客たちはまだ起ききっておらず、広間も厨房も、本格的に動き出すには少し早い時刻だった。


 その静かな時間帯に、アレクシスはすでに第三泉の小浴場で腕を組んでいた。


 第三泉――青みを帯びた静かな湯。

 魔力疲労や思考の重さに効くかもしれないと、彼とリューシェが位置づけた湯である。大浴場にせず、あえて少人数向けに作り、騒がしさを持ち込ませない湯殿にした。だからこそ、湯加減のわずかな違いも誤魔化したくない。


 その湯を見て、アレクシスは黙り込んでいた。


 黙り込んでいる、ということは、ろくでもないということだ。


 ほどなくして、回廊の奥から眠そうな声がした。


「主様」


 リューシェである。


 いつも通り、見た目だけならこの世のものとは思えない美少女じみた姿で、だが声の調子だけは徹夜明けの老婆みたいに遠慮がなかった。


「何だ」

 と、アレクシス。

「その“何だ”の声色、完全に気に入らぬ時のやつじゃな」

「気に入らない」

「ほれ見ろ」

「湯温が落ちている」

「またそれか」

「“また”ではない」

「主様、昨日も夜に同じ顔をしておったぞ」

「昨日の夜とは別の落ち方だ」

「違いがあるのか」

「ある」

「のう、そういう返しを朝一番からされると、わしはまだ頭が起きぬのじゃが」

「頭を起こせ」

「理不尽じゃのう」


 リューシェは湯殿の縁にしゃがみ込み、指先で湯をすくった。


「……ふむ」

「どうだ」

「少しだけじゃな」

「少しではある」

「客が文句を言うほどではない」

「文句を言うかどうかの話ではない」

「出たぞ」

「何がだ」

「主様の“それはそういう問題ではない”じゃ」

「事実だ」


 そこへ、もう一つ軽い足音が近づいてきた。


 ユノだった。


 朝一番の水差しの補充でもしようと思っていたのだろう。だが第三泉の前で二人が揃ってしゃがみ込み、いかにも“何か起きています”という空気を出しているのを見て、ぴたりと足を止めた。


「お、おはようございます」

「おはよう、坊や」

 と、リューシェ。

「主様が湯と喧嘩しておる」

「喧嘩ではない」

「では何じゃ」

「調整だ」

「喧嘩と大差ない」

「そんなに、違うんですか?」

 と、ユノがおそるおそる訊いた。

「違う」

 と、アレクシス。

「主様」

 と、リューシェ。

「そこはもう少し柔らかく言え」

「……違いはある」

「同じですよね?」

 と、ユノが小さく言う。

 リューシェが吹き出した。

「坊や、よいぞ。だいぶ分かってきたのう」

「分からなくていい知識が増えてる気がします……」


 アレクシスは湯口の石組みを見上げた。


「夜の冷えで、最初の一刻だけ熱が食われている」

「ほんの半度にも満たぬ差じゃろう」

「半度にも満たないからこそ気になる」

「その理屈、本当に宿主向きなのか、ただ面倒なだけなのか分からん」

「両方だ」

「開き直ったぞ、この男」

「ベルノルトが聞いたら泣きそうですね……」

「泣く」

 と、ちょうどそのベルノルトの声が回廊の向こうから響いた。

「もう泣きそうです」


 記録板を抱えたベルノルトは、まだ広間の帳面仕事もあるというのに、完全に巻き込まれ顔でやって来た。


「旦那様、おはようございます」

「おはよう」

「全然おはようございますな顔をしていません」

「第三泉の湯温が」

「分かっています。絶対そうだと思いました」

「分かるのか」

「もう最近の旦那様、朝一番に無言で湯殿へ消える時は大抵それです」

「観察されておるのう」

 と、リューシェ。

「嫌か」

「嫌ではありませんが、嬉しくもありません」


 ベルノルトは記録板をぱたんと開いた。


「で、今日は何度です」

「少し落ちている」

「その“少し”を数字にするのが私の仕事なんです」

「そうだったな」

「今さら思い出さないでください……」


 結局、その朝の朝霧亭は、まだ客が本格的に動き出す前から“第三泉対策会議”で始まった。


 湯口の流量。

 石組みの角度。

 夜間の冷気の通り道。

 朝方だけ差し込む風。

 白湯側との湯量配分の兼ね合い。


 普通の宿なら、間違いなく「客が気づかないならいい」で済む話だ。

 だが朝霧亭は普通の宿ではないし、アレクシスもまた、普通の宿主ではなかった。


「白湯側へ流れが寄っておるのでは?」

 と、リューシェ。

「その可能性はある」

 と、アレクシス。

「だが寄せすぎると、今度は白湯の肌当たりが鈍る」

「そこまで変わりますか?」

 と、ベルノルト。

「変わる」

「主様」

 と、リューシェ。

「わしはそろそろ、その一言だけで人を黙らせる癖はやめた方がよいと思うぞ」

「やめる必要があるか?」

「ある」

「ええ、あります」

 と、ベルノルト。

「すごくあります」

「ユノ、おまえは」

「僕は……」

 ユノは少し困った顔をした。

「主様がそう言う時は、たぶん本当に変わるんだろうなって思います」

「ほう」

 と、リューシェ。

「坊や、だいぶ宿の側の思考になってきたな」

「そうでしょうか」

「そうじゃ。普通は“そこまで?”と思うところで、“たぶん変わる”へ寄る」

「主様寄りですね」

 と、ベルノルト。

「なんだか嫌な方向に成長していません?」

「嫌な方向とは何だ」

 と、アレクシス。

「失礼だな」

「その台詞、最近毎日聞いてます」


 そうこうしているうちに、厨房から火の気が増え、広間にも人の動く気配が出始めた。


 開業二日目。

 昨夜泊まった客たちが朝湯や朝食で動き始める時間である。


 中でも、昨日の初日から最も落ち着いた空気を見せていた老騎士は、ずいぶん早くから起きていたらしい。回廊の向こうから杖ではなく自分の足音だけを響かせて現れた。


「朝から集まっていると思えば、やはり湯のことか」

 と、彼は言った。

「そうだ」

 と、アレクシス。

「見れば分かる」

「そなた、宿主というより湯場番だな」

「最近よく言われる」

「否定はしないのか」

「否定しきれん」

「素直でよろしい」

 と、リューシェ。

「おぬし、その老騎士殿とは妙に会話の呼吸が合うの」

「無骨同士ですからね」

 と、ベルノルトがぼそっと言う。

「聞こえているぞ」

 と、アレクシスと老騎士が同時に返し、ユノが思わず吹き出した。


 老騎士は第三泉の湯を見てから、ふむ、と鼻を鳴らした。


「客には分からん」

「だが主様には分かる」

 と、リューシェ。

「そして分かってしまった以上、もう止まらぬ」

「大変ですね……」

 と、ユノ。

「大変だ」

 と、ベルノルト。

「ですが、こういうところが朝霧亭の怖いところなんですよ」

「怖い?」

 と、老騎士。

「ええ。普通なら流すところを流さない。気づく人にはそれが伝わる」

「なるほど」

 老騎士は少しだけ目を細めた。

「昨日、赤湯のあとで膝がかなり軽くなった」

「そうか」

 と、アレクシス。

「礼を言いに来た」

「言いたければ言え」

「だから言っている」

「受け取った」

「なんだ、その無愛想な礼の受け取り方は」

「慣れていない」

「本当に面倒だな」

「よく言われる」

「そこだけ自覚的なのがまた厄介じゃ」

 と、リューシェ。


 老騎士は、朝の白い湯気を背にしばらく黙ったあと、少しだけ真面目な顔で続けた。


「だが、昨日のあれは本当に効いた」

「赤湯はそういう湯だ」

「湯の力だけではないだろう」

「何?」

「そなたが見て、入る長さまで決めた。無駄に長く入らせなかった。あれも含めての効きだ」

「……そうかもしれんな」

「素直ですね」

 と、ベルノルト。

「たまにはな」

 と、アレクシス。

「たまにではなく、もっと常にやってください」

「必要な時はやる」

「便利な言い回しですね、本当に」


 リューシェはそのやり取りを聞きながら、ふっと肩の力を抜いた。


「のう主様」

「何だ」

「赤湯の老騎士殿が礼を言いに来る」

「そうだな」

「昨日の貴族の令嬢も、白湯をかなり気に入っておった」

「そうだな」

「黒外套の魔族も、ぬる湯にずいぶん長く浸かっておった」

「見ていたのか」

「帳場から何でも見える」

「便利だな」

「長生きは便利じゃ」


 そこでリューシェは、にやりと笑った。


「つまり、朝霧亭は早くも“また来たい宿”になりかけておる」

「……そうか」

「そうじゃ。そのうえ主様が朝から半度に満たぬ湯温で機嫌を悪くする。実に良い宿ではないか」

「最後のは褒めてないな」

「褒めておるとも。宿主の面倒くささもまた宿の味じゃ」

「言い方……」

 と、ユノ。

「でも、少し分かる気もします」

「坊やまで」

 と、ベルノルト。

「やっぱり主様側なんですね……」

「嫌ですか?」

 と、ユノがおそるおそる訊く。

「嫌ではないよ。嫌ではないけど、これ以上増えると私の仕事が増えるんだ」

「増える」

 と、アレクシス。

「……ほらそういうところです!」


 結局、その朝は第三泉の石組みをほんの少しだけ直すことになった。


 湯口の受けをわずかに変え、白湯側へ流れすぎる分を抑え、石床に当たる冷気を避けるために湯筋を半歩だけ内側へ寄せる。客から見れば分からない程度の調整。だが主の側から見れば、大違いの調整だ。


 職人たちはもう朝の作業に入っていたが、木工親方のヘルマンがその様子を見て笑った。


「旦那、またやってるのか」

「またではない」

 と、アレクシス。

「必要な調整だ」

「昨日、“これなら客を迎えられる”って顔してたじゃねえか」

「迎えはした」

「したな」

「今日は二日目だ」

「それでまた直すのか」

「直す」

「徹底してるなあ」

「それが朝霧亭の怖いところなんだよ」

 と、ベルノルト。

「怖いのか?」

 と、ヘルマン。

「怖いです。だって一度開いたあとでも、主が“まだ良くなる”と思ったら本当に直し始めるんです」

「そりゃ客にとっちゃ悪いことじゃねえな」

「そうなんですよね……反論しにくいのが一番困るんです」


 昼前にはようやく、アレクシスの顔も少し落ち着いた。


 第三泉の湯面が昨日より少しだけ滑らかになり、朝の冷えの食われ方も抑えられた。ほんのわずかな差だ。だが、それでいい。


「どうじゃ」

 と、リューシェ。

「……悪くない」

 と、アレクシス。

「今度は本当に機嫌が戻った顔じゃの」

「そんなに分かるか」

「分かるとも。おぬしは湯の前でだけ、顔に全部出る」

「宿主向きかもしれん」

「宿主というより湯守じゃがな」

「またそれか」

「事実じゃ」


 その時、広間の方から貴族一家の令嬢の声が聞こえてきた。


「お母様、やっぱり白湯が気になりますわ」

「朝からもう一度入りたいの?」

「ええ」

「宿主殿」

 と、老騎士も振り向く。

「どうやら、昨日だけでは足りなかったらしい」

「……また来るな」

 と、アレクシス。

「何だその嬉しそうな声は」

 と、リューシェ。

「嬉しそうか?」

「嬉しそうじゃ」

「おめでとうございます、主様」

 と、ベルノルト。

「何がだ」

「二日目にして、もう宿の客が“また来たい”側に傾いてます」

「……そうか」

「今の、完全にちょっと照れましたね」

 と、ユノ。

「してない」

「しておる」

 と、リューシェ。

「珍しい顔を見たのう」


 アレクシスはそれ以上言い返さず、ただ第三泉をもう一度だけ振り返った。


 湯気は穏やかに立っている。

 湯面の揺れも悪くない。

 少なくとも今朝のところは、昨日より一歩だけ理想に近づいた。


 そして何より、客がその違いに気づくかどうかとは別のところで、この宿の“癖”がはっきりし始めている。


 良い湯を出す。

 飯にも手を抜かない。

 寝床も雑にしない。

 そして、客に見えない細部でまで妥協しない。


 宿主の面倒くささは、そのまま宿の質になる。


 そこまで考えてしまって、アレクシスは少しだけ口元を緩めた。


「……湯は宿の命だ」

 と、彼は小さく言った。


「出た」

 と、ベルノルト。

「それを言う時は完全に本気の顔じゃ」

「最近の主様、そればかりじゃな」

 と、リューシェ。

「でも、ちょっと格好いいです」

 と、ユノ。


 アレクシスは一瞬だけ黙ってから、いつも通りぶっきらぼうに言った。


「当たり前だ」


 その返事に、三人ともなぜか笑ってしまった。


 こうして朝霧亭の二日目は、客には分からない一度にも満たない湯加減の違いと、宿主の機嫌の大違いから始まった。


 そしてもちろん、宿は今日もちゃんと生きている。


 まだまだ直したいところは山ほどある。

 だが、だからこそ明日も営業する意味があるのだ。

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