第14話♨湯加減一度、宿主の機嫌は大違い
朝霧亭の二日目の朝は、初日とは違う意味で騒がしかった。
いや、正確に言えば、騒がしかったのは宿の中ではなく、アレクシスの頭の中だけだったのかもしれない。
山あいの朝は相変わらず冷える。夜のあいだに石壁は静かに熱を失い、回廊の手すりには薄く露がつき、谷から上がってくる靄が湯気に混じって白く長く伸びる。客たちはまだ起ききっておらず、広間も厨房も、本格的に動き出すには少し早い時刻だった。
その静かな時間帯に、アレクシスはすでに第三泉の小浴場で腕を組んでいた。
第三泉――青みを帯びた静かな湯。
魔力疲労や思考の重さに効くかもしれないと、彼とリューシェが位置づけた湯である。大浴場にせず、あえて少人数向けに作り、騒がしさを持ち込ませない湯殿にした。だからこそ、湯加減のわずかな違いも誤魔化したくない。
その湯を見て、アレクシスは黙り込んでいた。
黙り込んでいる、ということは、ろくでもないということだ。
ほどなくして、回廊の奥から眠そうな声がした。
「主様」
リューシェである。
いつも通り、見た目だけならこの世のものとは思えない美少女じみた姿で、だが声の調子だけは徹夜明けの老婆みたいに遠慮がなかった。
「何だ」
と、アレクシス。
「その“何だ”の声色、完全に気に入らぬ時のやつじゃな」
「気に入らない」
「ほれ見ろ」
「湯温が落ちている」
「またそれか」
「“また”ではない」
「主様、昨日も夜に同じ顔をしておったぞ」
「昨日の夜とは別の落ち方だ」
「違いがあるのか」
「ある」
「のう、そういう返しを朝一番からされると、わしはまだ頭が起きぬのじゃが」
「頭を起こせ」
「理不尽じゃのう」
リューシェは湯殿の縁にしゃがみ込み、指先で湯をすくった。
「……ふむ」
「どうだ」
「少しだけじゃな」
「少しではある」
「客が文句を言うほどではない」
「文句を言うかどうかの話ではない」
「出たぞ」
「何がだ」
「主様の“それはそういう問題ではない”じゃ」
「事実だ」
そこへ、もう一つ軽い足音が近づいてきた。
ユノだった。
朝一番の水差しの補充でもしようと思っていたのだろう。だが第三泉の前で二人が揃ってしゃがみ込み、いかにも“何か起きています”という空気を出しているのを見て、ぴたりと足を止めた。
「お、おはようございます」
「おはよう、坊や」
と、リューシェ。
「主様が湯と喧嘩しておる」
「喧嘩ではない」
「では何じゃ」
「調整だ」
「喧嘩と大差ない」
「そんなに、違うんですか?」
と、ユノがおそるおそる訊いた。
「違う」
と、アレクシス。
「主様」
と、リューシェ。
「そこはもう少し柔らかく言え」
「……違いはある」
「同じですよね?」
と、ユノが小さく言う。
リューシェが吹き出した。
「坊や、よいぞ。だいぶ分かってきたのう」
「分からなくていい知識が増えてる気がします……」
アレクシスは湯口の石組みを見上げた。
「夜の冷えで、最初の一刻だけ熱が食われている」
「ほんの半度にも満たぬ差じゃろう」
「半度にも満たないからこそ気になる」
「その理屈、本当に宿主向きなのか、ただ面倒なだけなのか分からん」
「両方だ」
「開き直ったぞ、この男」
「ベルノルトが聞いたら泣きそうですね……」
「泣く」
と、ちょうどそのベルノルトの声が回廊の向こうから響いた。
「もう泣きそうです」
記録板を抱えたベルノルトは、まだ広間の帳面仕事もあるというのに、完全に巻き込まれ顔でやって来た。
「旦那様、おはようございます」
「おはよう」
「全然おはようございますな顔をしていません」
「第三泉の湯温が」
「分かっています。絶対そうだと思いました」
「分かるのか」
「もう最近の旦那様、朝一番に無言で湯殿へ消える時は大抵それです」
「観察されておるのう」
と、リューシェ。
「嫌か」
「嫌ではありませんが、嬉しくもありません」
ベルノルトは記録板をぱたんと開いた。
「で、今日は何度です」
「少し落ちている」
「その“少し”を数字にするのが私の仕事なんです」
「そうだったな」
「今さら思い出さないでください……」
結局、その朝の朝霧亭は、まだ客が本格的に動き出す前から“第三泉対策会議”で始まった。
湯口の流量。
石組みの角度。
夜間の冷気の通り道。
朝方だけ差し込む風。
白湯側との湯量配分の兼ね合い。
普通の宿なら、間違いなく「客が気づかないならいい」で済む話だ。
だが朝霧亭は普通の宿ではないし、アレクシスもまた、普通の宿主ではなかった。
「白湯側へ流れが寄っておるのでは?」
と、リューシェ。
「その可能性はある」
と、アレクシス。
「だが寄せすぎると、今度は白湯の肌当たりが鈍る」
「そこまで変わりますか?」
と、ベルノルト。
「変わる」
「主様」
と、リューシェ。
「わしはそろそろ、その一言だけで人を黙らせる癖はやめた方がよいと思うぞ」
「やめる必要があるか?」
「ある」
「ええ、あります」
と、ベルノルト。
「すごくあります」
「ユノ、おまえは」
「僕は……」
ユノは少し困った顔をした。
「主様がそう言う時は、たぶん本当に変わるんだろうなって思います」
「ほう」
と、リューシェ。
「坊や、だいぶ宿の側の思考になってきたな」
「そうでしょうか」
「そうじゃ。普通は“そこまで?”と思うところで、“たぶん変わる”へ寄る」
「主様寄りですね」
と、ベルノルト。
「なんだか嫌な方向に成長していません?」
「嫌な方向とは何だ」
と、アレクシス。
「失礼だな」
「その台詞、最近毎日聞いてます」
そうこうしているうちに、厨房から火の気が増え、広間にも人の動く気配が出始めた。
開業二日目。
昨夜泊まった客たちが朝湯や朝食で動き始める時間である。
中でも、昨日の初日から最も落ち着いた空気を見せていた老騎士は、ずいぶん早くから起きていたらしい。回廊の向こうから杖ではなく自分の足音だけを響かせて現れた。
「朝から集まっていると思えば、やはり湯のことか」
と、彼は言った。
「そうだ」
と、アレクシス。
「見れば分かる」
「そなた、宿主というより湯場番だな」
「最近よく言われる」
「否定はしないのか」
「否定しきれん」
「素直でよろしい」
と、リューシェ。
「おぬし、その老騎士殿とは妙に会話の呼吸が合うの」
「無骨同士ですからね」
と、ベルノルトがぼそっと言う。
「聞こえているぞ」
と、アレクシスと老騎士が同時に返し、ユノが思わず吹き出した。
老騎士は第三泉の湯を見てから、ふむ、と鼻を鳴らした。
「客には分からん」
「だが主様には分かる」
と、リューシェ。
「そして分かってしまった以上、もう止まらぬ」
「大変ですね……」
と、ユノ。
「大変だ」
と、ベルノルト。
「ですが、こういうところが朝霧亭の怖いところなんですよ」
「怖い?」
と、老騎士。
「ええ。普通なら流すところを流さない。気づく人にはそれが伝わる」
「なるほど」
老騎士は少しだけ目を細めた。
「昨日、赤湯のあとで膝がかなり軽くなった」
「そうか」
と、アレクシス。
「礼を言いに来た」
「言いたければ言え」
「だから言っている」
「受け取った」
「なんだ、その無愛想な礼の受け取り方は」
「慣れていない」
「本当に面倒だな」
「よく言われる」
「そこだけ自覚的なのがまた厄介じゃ」
と、リューシェ。
老騎士は、朝の白い湯気を背にしばらく黙ったあと、少しだけ真面目な顔で続けた。
「だが、昨日のあれは本当に効いた」
「赤湯はそういう湯だ」
「湯の力だけではないだろう」
「何?」
「そなたが見て、入る長さまで決めた。無駄に長く入らせなかった。あれも含めての効きだ」
「……そうかもしれんな」
「素直ですね」
と、ベルノルト。
「たまにはな」
と、アレクシス。
「たまにではなく、もっと常にやってください」
「必要な時はやる」
「便利な言い回しですね、本当に」
リューシェはそのやり取りを聞きながら、ふっと肩の力を抜いた。
「のう主様」
「何だ」
「赤湯の老騎士殿が礼を言いに来る」
「そうだな」
「昨日の貴族の令嬢も、白湯をかなり気に入っておった」
「そうだな」
「黒外套の魔族も、ぬる湯にずいぶん長く浸かっておった」
「見ていたのか」
「帳場から何でも見える」
「便利だな」
「長生きは便利じゃ」
そこでリューシェは、にやりと笑った。
「つまり、朝霧亭は早くも“また来たい宿”になりかけておる」
「……そうか」
「そうじゃ。そのうえ主様が朝から半度に満たぬ湯温で機嫌を悪くする。実に良い宿ではないか」
「最後のは褒めてないな」
「褒めておるとも。宿主の面倒くささもまた宿の味じゃ」
「言い方……」
と、ユノ。
「でも、少し分かる気もします」
「坊やまで」
と、ベルノルト。
「やっぱり主様側なんですね……」
「嫌ですか?」
と、ユノがおそるおそる訊く。
「嫌ではないよ。嫌ではないけど、これ以上増えると私の仕事が増えるんだ」
「増える」
と、アレクシス。
「……ほらそういうところです!」
結局、その朝は第三泉の石組みをほんの少しだけ直すことになった。
湯口の受けをわずかに変え、白湯側へ流れすぎる分を抑え、石床に当たる冷気を避けるために湯筋を半歩だけ内側へ寄せる。客から見れば分からない程度の調整。だが主の側から見れば、大違いの調整だ。
職人たちはもう朝の作業に入っていたが、木工親方のヘルマンがその様子を見て笑った。
「旦那、またやってるのか」
「またではない」
と、アレクシス。
「必要な調整だ」
「昨日、“これなら客を迎えられる”って顔してたじゃねえか」
「迎えはした」
「したな」
「今日は二日目だ」
「それでまた直すのか」
「直す」
「徹底してるなあ」
「それが朝霧亭の怖いところなんだよ」
と、ベルノルト。
「怖いのか?」
と、ヘルマン。
「怖いです。だって一度開いたあとでも、主が“まだ良くなる”と思ったら本当に直し始めるんです」
「そりゃ客にとっちゃ悪いことじゃねえな」
「そうなんですよね……反論しにくいのが一番困るんです」
昼前にはようやく、アレクシスの顔も少し落ち着いた。
第三泉の湯面が昨日より少しだけ滑らかになり、朝の冷えの食われ方も抑えられた。ほんのわずかな差だ。だが、それでいい。
「どうじゃ」
と、リューシェ。
「……悪くない」
と、アレクシス。
「今度は本当に機嫌が戻った顔じゃの」
「そんなに分かるか」
「分かるとも。おぬしは湯の前でだけ、顔に全部出る」
「宿主向きかもしれん」
「宿主というより湯守じゃがな」
「またそれか」
「事実じゃ」
その時、広間の方から貴族一家の令嬢の声が聞こえてきた。
「お母様、やっぱり白湯が気になりますわ」
「朝からもう一度入りたいの?」
「ええ」
「宿主殿」
と、老騎士も振り向く。
「どうやら、昨日だけでは足りなかったらしい」
「……また来るな」
と、アレクシス。
「何だその嬉しそうな声は」
と、リューシェ。
「嬉しそうか?」
「嬉しそうじゃ」
「おめでとうございます、主様」
と、ベルノルト。
「何がだ」
「二日目にして、もう宿の客が“また来たい”側に傾いてます」
「……そうか」
「今の、完全にちょっと照れましたね」
と、ユノ。
「してない」
「しておる」
と、リューシェ。
「珍しい顔を見たのう」
アレクシスはそれ以上言い返さず、ただ第三泉をもう一度だけ振り返った。
湯気は穏やかに立っている。
湯面の揺れも悪くない。
少なくとも今朝のところは、昨日より一歩だけ理想に近づいた。
そして何より、客がその違いに気づくかどうかとは別のところで、この宿の“癖”がはっきりし始めている。
良い湯を出す。
飯にも手を抜かない。
寝床も雑にしない。
そして、客に見えない細部でまで妥協しない。
宿主の面倒くささは、そのまま宿の質になる。
そこまで考えてしまって、アレクシスは少しだけ口元を緩めた。
「……湯は宿の命だ」
と、彼は小さく言った。
「出た」
と、ベルノルト。
「それを言う時は完全に本気の顔じゃ」
「最近の主様、そればかりじゃな」
と、リューシェ。
「でも、ちょっと格好いいです」
と、ユノ。
アレクシスは一瞬だけ黙ってから、いつも通りぶっきらぼうに言った。
「当たり前だ」
その返事に、三人ともなぜか笑ってしまった。
こうして朝霧亭の二日目は、客には分からない一度にも満たない湯加減の違いと、宿主の機嫌の大違いから始まった。
そしてもちろん、宿は今日もちゃんと生きている。
まだまだ直したいところは山ほどある。
だが、だからこそ明日も営業する意味があるのだ。




