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異世界湯けむり勇者 ~魔王討伐後に王国から領地も爵位ももらったけど全部妻子に継がせて前世で大好きだった源泉かけ流しの宿を異世界で本気再現したら七つの泉質を目当てに貴族も冒険者も押しかけてきます~  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 七泉の湯宿《朝霧亭》、開業までの十二日譚

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第15話♨看板娘ではありません! 看板係です!

朝霧亭の朝は、静かに始まるようでいて、だいたい静かに終わらない。


 それを、ユノは開業三日目にしてもう理解しかけていた。


 夜明けの山はまだ冷たい。

 回廊の板は朝露を含んだ空気を吸って少しだけひんやりしているし、石壁の宿に差し込む光も、最初は細く青い。広間の長卓は昨夜の片付けのあときちんと整えたままだし、帳場の上に置いた宿帳も、茶器も、水差しも、全部まっすぐ並んでいる。


 その“まっすぐ”を作ったのは、だいたいユノだ。


 本人はまだ、自分が宿の役に立てていると胸を張って言えるほどの自信はない。

 けれど、朝起きると何をすべきかは少しずつ身体が覚えてきた。


 広間の埃を払う。

 茶器を温める。

 客間の水差しを満たす。

 窓掛けの乱れを直す。

 回廊で足を取られそうな小さな木屑を拾う。


 そういう小さなことが、宿では意外と大事なのだと、アレクシスもリューシェも当たり前みたいに扱うからだ。


 今朝もユノは、帳場の前で茶碗を並べながら、ひとつひとつの向きを揃えていた。


「主様」

 と、背後からリューシェの声が飛んでくる。

「何だ」

 と、アレクシス。

 どうやら今日も朝からどこかの湯殿を見て回っていたらしい。開業二日目の昨日、第三泉の湯温を半歩分詰めたばかりだというのに、もう今朝は露天の縁石の濡れ方がどうのこうのと言っていた。

「坊やの背中が、だいぶ宿の者らしくなってきたぞ」

「そうか」

「そうじゃ。前は“怒られぬために動く顔”をしておったが、今は“整えたいから動く顔”をしておる」

「……いいことだな」

「いいことじゃ」

「え、えっと……」

 ユノは茶碗を持ったまま振り返り、少しだけ頬を熱くした。

「そんなに変わってますか」

「変わっておる」

 と、リューシェ。

「主様、どう思う」

「茶碗の向きが昨日よりいい」

「細かい」

 と、リューシェが笑う。

「だが、主様らしい褒め方ではある」

「褒めてるんですか、それ」

 と、ユノ。

「褒めている」

 と、アレクシス。

「……はい」


 褒められると、未だに少し困る。

 困るが、嫌ではない。

 昔なら、何かをしたあとに来る言葉は、大抵「遅い」「違う」「使えない」のどれかだった。今はそうではない。短い。ぶっきらぼう。だがちゃんと見て言われている。


 その違いが、まだ時々くすぐったかった。


 広間の準備を終え、帳場の札を掛け直し、湯上がりの水差しを置いていると、街道の下から人の声が近づいてきた。


 まだ朝の早い時間帯だ。泊まり客ならすでに宿の中にいるし、予約客にしては早い。


「……来たのう」

 と、リューシェ。

「何がです?」

 と、ユノ。

「面倒ではないが、たぶん少し騒がしいものじゃ」

「妙な言い方だな」

 と、アレクシス。


 ほどなくして、玄関の向こうから若い男の声がした。


「すみませーん! ここが朝霧亭ですか!?」

「やっぱりここだ!」

「見ろよ、ほんとにでっけえ!」

「え、待って、入っていいのか!?」


 ユノの肩がぴくっと揺れた。


 入ってきたのは、三人組の若い旅商人だった。荷車を引いているわけではないが、背中に大きめの袋を下げ、腰には小商い用の革袋を提げている。町と町をつないで細かい品を運ぶ類いの者たちだろう。顔つきは悪くない。だが目がやけにきらきらしている。


 そして、そのきらきらした目が、宿の中を見回したあと、ぴたりとユノで止まった。


「……あ」

 と、一番背の高い青年。

「いた」

「何がだ」

 と、アレクシス。

「噂の」

「噂?」

 と、ユノ。

 嫌な予感しかしない。


 別の青年が、嬉しそうに身を乗り出した。


「いや、町で聞いたんですよ! 山の上の新しい名湯宿に、すごい可愛い看板娘がいるって!」

「違います!」

 ユノは反射で叫んだ。

「早い否定じゃのう」

 と、リューシェ。

「主様、これはかなり広まっておるぞ」

「広まってほしい方向とは違う」

 と、アレクシス。


 三人組は一瞬たじろいだが、すぐに顔を見合わせた。


「え、でも」

「いや、でもどう見ても」

「看板娘……」

「違います!」

 ユノはもう一度言った。

「看板娘じゃありません!」

「じゃあ、えっと……」

 一番若そうな青年が首を傾げる。

「看板……妹?」

「違います!」

「看板……」

「係だ」

 と、アレクシスが割って入った。

「看板係だ」

「そこは否定の方向がずれておるぞ」

 と、リューシェ。

「いや、娘ではないだろう」

「そういう問題ではない」

 と、ユノが半泣きで抗議する。

「主様まで何で肯定するんですか!」

「働いているのは事実だ」

「そうですけど!」

「それに接客の所作は悪くない」

「今そこですか!?」

「今そこじゃろうな」

 と、リューシェが楽しそうに言う。


 三人組の青年たちは、なんだか妙に納得した顔になった。


「なるほど、看板係……」

「それはそれで強いな」

「強いって何ですか!」

 と、ユノ。

「え、いや、宿の印象として……」

「印象になりたくありません!」


 この騒ぎに、朝湯を終えた冒険者の一団まで顔を出した。


「なんだなんだ、また来たのか」

 と、昨日の斧使い。

「新規客だ」

 と、アレクシス。

「おっ、商人か。お前らも噂を聞きつけた口か?」

「そうなんですよ! “名湯宿に可愛い看板娘がいる”って――」

「だから違いますって!」

 ユノが広間の方から叫ぶ。

 冒険者たちがどっと笑う。


「ほらやっぱり」

「この反応が看板なんだよなあ」

「お前ら宿じゃなくて反応見に来てるだろ」

 と、冒険者の杖使い。

「少しだけ」

 と、商人。

「少しだけではないな」

 と、アレクシス。

「宿へ何をしに来た」

「え、あ、もちろん湯です!」

「あと飯!」

「あと……」

 三人目の青年が小声になる。

「……ちょっとだけ、本当に可愛いのかなって」

「正直すぎるのう」

 と、リューシェ。

「主様、これはいよいよ看板係で売れるのでは?」

「売りません!」

 ユノがもう真っ赤である。

「僕はそういうんじゃありません! ちゃんと仕事を……」

「しておる」

 と、アレクシス。

「だからこそだ」

「何で全部そこへ繋がるんですか……」


 だが困ったことに、こういう客は一組で終わらなかった。


 午前のうちに、今度は地元の若い娘ふたり組がやって来た。


「すみませーん」

「白い湯ってありますか?」

「あっ」

 片方がユノを見る。

「この子だ」

「どの子ですか!」

「かわいい」

「違います!」

「違わぬ」

 と、リューシェが帳場から即答する。

「いや、褒めてるだけですよ?」

 と、娘のひとり。

「褒められるのが困るっていうのが分からない」

「分からなくていいです!」

「坊や、おぬし褒められ慣れておらぬだけじゃ」

「それを今ここで言わないでください!」


 さらに昼前には、町の雑貨屋の使いらしい少年まで、荷を届けるついでに玄関を覗き込み、開口一番こう言った。


「すみません、“看板娘さん”いますか」

「いません!」

 と、ユノ。

「おる」

 と、リューシェ。

「いますね」

 と、ベルノルト。

「ベルノルトさん!?」

「いや、ほら、説明の便宜上といいますか」

「便宜が雑です!」

「坊や」

 と、アレクシスが低く言う。

「怒る先が増えすぎて声が裏返っている」

「主様、そこはもっと味方をしてください!」

「味方はしている」

「してないです!」

「しておるぞ」

 と、リューシェ。

「主様なりにの」

「主様なりが分かりにくいんです!」


 朝霧亭の広間は、午前中ずっとそんな調子だった。


 もっとも、見物客ばかり来ていたわけではない。

 本当に湯を求める客もいる。白湯目当ての地元客、赤湯を試したい荷馬商、昨日泊まった冒険者たちの追加の朝食、貴族一家の侍女からの湯上がりの茶の依頼――仕事そのものはちゃんとあった。


 そしてユノは、からかわれ、真っ赤になり、半泣きになりながらも、配膳と案内ではきっちり動いた。


 茶器を運ぶ時の足音は軽い。

 湯上がりの客へ渡す水差しの角度もいい。

 相手が貴族でも湯治の老人でも、声の調子を少しだけ変えることができる。

 それに何より、宿の中での立ち姿が綺麗だった。


 だからこそ、余計に目立つのだ。


「主様」

 と、リューシェが昼前の帳場で言った。

「何だ」

「坊や、やはり使えるのう」

「見ている」

「褒めてやれ」

「さっき言った」

「“茶器の向きがいい”では足りぬ」

「足りないです」

 と、ユノが即答する。

「そこは即答なんじゃな」

 と、リューシェ。


 その時、広間の隅で、小さなざわめきが起こった。


 町から来たらしい二人組の若い男が、湯にも入らず、茶も頼まず、ただ柱の陰からユノばかり見ている。最初は気のせいかと思っていたが、どう見ても不自然だ。客としての動きをしていない。


 アレクシスもそれには気づいていた。


「おい」

 と、彼は低く呼ぶ。

 二人組がびくっとする。

「何だ、宿主さん」

「宿へ何をしに来た」

「いや、ちょっと見物を……」

「何を」

「宿を」

「違うな」

「…………」

「うちの仕事を見に来たのではなく、働いている者を眺めに来た顔だ」

「主様、その言い方、なんだか嫌に鋭いですね」

 と、ベルノルト。

「見れば分かる」

「最近それしか言ってない」

 と、リューシェ。


 二人組の男たちは、露骨に目を逸らした。


「別にいいだろ、可愛いんだから」

 と、一人。

「そういう理由で宿へ入るな」

 と、アレクシス。

「は?」

「湯に入るか、飯を食うか、泊まるかだ。宿を見に来たのではない客は歓迎しない」

「なんだよ、少し見てるだけじゃねえか」

「それで働き手が嫌な顔をしている」

「え……」


 男たちがユノを見る。


 ユノは、思わず肩を縮めた。

 だが次の瞬間、はっとした。


 今、自分が嫌な顔をしていると言われた。

 つまりアレクシスは、自分の顔を見て、嫌がっていると判断してくれたのだ。


 守られている。

 それはありがたい。

 だが――それだけでいいのか。


 胸の奥が、少しだけ熱くなる。


 リューシェが、面白がるように目を細めた。


「坊や」

「……はい」

「今、何か言いたい顔をしておる」

「え」

「珍しいのう。いつもなら主様の背中に隠れるところじゃが」

「そ、そんな……」

「言いたいなら言え」

 と、アレクシスも続ける。

「……え?」

「嫌なら嫌だと、自分の口で言え」

「……っ」


 男たちの視線がまたユノへ向く。


 緊張で喉が詰まる。

 手のひらが汗ばむ。

 昔の自分なら、たぶん俯いていた。やり過ごそうとしていた。怒らせないように、ただ小さくなっていた。


 でも今は、後ろに主様がいて、横にリューシェがいて、帳場にはベルノルトがいて、広間にはちゃんと宿の空気がある。


 だから、声を絞り出せた。


「……ぼ、僕は」

 声が少し裏返る。

 でも止まらなかった。

「僕は……この宿の仕事をしてるんです」

 男たちが黙る。

「見られるために立ってるんじゃ、ありません」

「…………」

「お湯に入るとか、お茶を飲むとか、泊まるとか、そういうなら、いいですけど……」

 そこで一度息を吸う。

「そうじゃないなら、困ります」


 言い切った。


 言い切った瞬間、膝が少し笑った。

 けれど、ちゃんと言えた。


 広間が静かになる。


 最初に反応したのは、二人組の男たちではなく、リューシェだった。


「ほう」

 と、心底楽しそうに言う。

「坊や、よく言うた」

「……っ」

「主様」

「聞いた」

 と、アレクシス。

「いい」

「今の“いい”は重いやつじゃな」

「重い」

「やだ、ちょっと格好いい」

 と、白湯目当てに来ていた娘の一人が小さく呟き、友人が「分かる」と頷く。

 ユノは聞こえて、余計に赤くなった。


 二人組の男たちは居心地悪そうに顔を見合わせた。


「……悪かったよ」

「そこまで言うなら」

「分かったんなら、茶でも飲んで帰れ」

 と、アレクシス。

「ただし、次に来る時は客として来い」

「……はい」

 二人は完全に勢いをなくし、そのまま茶を一杯だけ飲んで早々に帰っていった。


 広間の空気が、そこでようやく緩む。


 ベルノルトが帳簿を抱えたまま、しみじみと言った。


「ユノ」

「は、はい」

「今の、かなり大きいですよ」

「え」

「自分で自分の立場を言ったでしょう」

「……あ」

「そうじゃ」

 と、リューシェ。

「“助けられた子”でも“可愛い子”でもなく、“この宿の仕事をしておる者”だと、ちゃんと言うた」

「……はい」

「上出来だ」

 と、アレクシス。

 ユノはまた耳まで赤くなる。

「主様、もう少し言い方があるじゃろう」

「上出来で足りないか」

「足りぬとは言わぬが、主様の場合、たまに褒め言葉が兵士向けなんじゃ」

「違いがあるのか」

「ある」

「そうなんですね……」

 と、ユノ。

「でも、嬉しいです」

「それならいい」

「そこをもう少し何かこう……」

 と、ベルノルト。

「何だ」

「いや、もういいです。最近、旦那様はそういう人だと分かってきたので」


 午後には、その一件がなかったかのように、宿はまた普通に回り始めた。


 湯殿の札は掛け替えられ、広間では昼の軽食が出され、白湯の客は「やっぱり気持ちいい」と頬をゆるめ、赤湯帰りの荷馬商は「腰の重さが違うな」と感心し、冒険者たちは今日も塩気の足りない煮込みに文句を言いながら追加のパンを頼んでいる。


 その中を、ユノはきちんと歩いていた。


 配膳の盆を持つ手は、朝より少しだけ安定している。

 声も少しだけ前に出る。

 客と目を合わせる時間も、ほんの少し長くなった。


 リューシェがその背中を見ながら言う。


「のう主様」

「何だ」

「坊や、今日また一段、宿の者になったな」

「ああ」

「やはり看板係向きじゃ」

「そこへ戻るのか」

「戻るとも。今のは“守られるだけの顔”ではなく、“宿の顔として立つ者”の顔じゃ」

「…………」

 ユノが聞いていて、むずむずした顔になる。

「それ、褒めてるんですよね」

「褒めておる」

「じゃあ……ありがとうございます」

「素直でよろしい」

「主様、何か言うことは」

「接客の筋は、昨日より良い」

「やっぱりそこなんですね」

 と、ユノが笑ってしまう。

「そこだ」

 と、アレクシス。

「宿だからな」

「便利な言葉ですね、本当に」

 と、ベルノルト。

「最近それで全部まとまってしまうから困る」


 夕方、広間の火が入り始めた頃。


 朝霧亭は今日もちゃんと宿の形をしていた。

 客の足音があり、湯気があり、飯の匂いがあり、帳場で札が動き、湯上がりの会話が混ざり合う。


 そしてその真ん中に、ユノがいた。


 可愛い看板娘だと勘違いされる。

 それは正直、あまり嬉しくない。

 だがもう、そこでただ縮こまるだけではない。


 自分はここで働いている。

 この宿の仕事をしている。

 そう言えたのだ。


 それはたぶん、朝霧亭にとっても、ユノにとっても、小さくない一歩だった。

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