第16話♨赤湯の老騎士、二度目の来訪
朝霧亭が開いてから数日。
“宿として動いている”という実感は、日に日に濃くなっていた。
朝になれば湯殿の札を掛け替え、広間の火を起こし、厨房では鍋が鳴り、帳場には予約札と宿帳が積まれる。昨日来た客が今日もう一度顔を出し、地元の湯治客が「今日は白い湯にするか、やっぱり赤にするか」と真剣に悩み、町の商人が食材を納めるついでに湯の噂を置いていく。
そういう流れができはじめると、宿は建物ではなく場所になる。
そしてその“場所”へ、最初にはっきり戻ってきた客がいた。
老騎士である。
開業初日に貴族一家の付き添いとして来て、赤湯に入ってから膝の動きが違うと認めた、あの無骨な男だ。
その朝、ユノは玄関前の敷布をまっすぐ直していた。
少し前までなら「誰かに言われたからやる」類いの動きだったが、今はもう違う。曲がっていると気になるから直す。客が最初に踏む場所だから整えたい。そういう“宿の側”の感覚が、少しずつ身についてきている。
リューシェは帳場の椅子に斜めに座り、宿帳の端をぱらぱらめくっていた。
「坊や」
「は、はい」
「その敷布、今日は三度目じゃぞ」
「え」
「さっきから、ちょっとでもずれるとすぐ直しておる」
「だ、だって、なんとなく気になって……」
「それを“宿の者の顔”と言うのじゃ」
「またそういうことを……」
「事実じゃ」
「便利な言葉ですねえ」
と、帳場の陰でベルノルトがぼやく。
「最近この宿、“事実”で全部押してきません?」
「押しておる」
と、リューシェ。
「主様がその筆頭じゃ」
「聞こえているぞ」
と、ちょうどその主であるアレクシスが回廊の奥から現れた。
当然のように朝一番の湯殿確認を終えている顔だ。
客室棟の方まで一回りしてきたらしく、袖にはほんの少し木粉がついている。
「第三泉はどうでした?」
と、ユノが訊く。
「悪くない」
と、アレクシス。
「“悪くない”なら今日は本当に機嫌がいい方ですね」
と、ベルノルト。
「最近おまえ、そこだけ判断が早いな」
「旦那様の“悪くない”の深さを見分けるのも、もう帳場仕事の一部です」
そんなやり取りの最中、玄関先で馬の鼻息がした。
続いて、石畳を踏む靴音。
ユノが戸口の方を向き、ぴたりと動きを止める。
「あ」
「何じゃ」
と、リューシェ。
「来客か?」
「……あの」
ユノが少し目を丸くする。
「この前の……騎士の方です」
アレクシスが玄関へ出ると、そこには予想通りの人物が立っていた。
老騎士だ。
前回と同じく背筋は真っ直ぐで、年齢の割に体格も崩れていない。髪には白いものが多いが、目はまだ強い。だが違う点もあった。
前回より、歩き方が少しだけ軽い。
「来たか」
と、アレクシス。
「来た」
と、老騎士。
「見れば分かる」
「最近の主様、そればかりじゃな」
と、リューシェが後ろから笑う。
老騎士はアレクシスの顔を見て、ふんと鼻を鳴らした。
「宿主殿」
「何だ」
「今日は付き添いではない」
「そうだろうな」
「一人で来た」
「それも見れば分かる」
「本当に可愛げがないな」
「よく言われる」
「その返しだけは妙に慣れているのが腹立たしい」
ユノが慌てて一歩出た。
「い、いらっしゃいませ」
「うむ」
老騎士はユノを見下ろし、目を細める。
「看板娘ではない方の」
「それ、まだ言うんですか!?」
と、ユノが反射的に叫んだ。
「おや、知っておったか」
と、リューシェ。
「噂は広いですからね」
と、ベルノルト。
「広まってほしくなかったです……」
と、ユノ。
老騎士の口元が少しだけ動いた。
「前より声が出るようになったな」
「え?」
「初日は、今にも消え入りそうな返事だった」
「……あ」
「悪いことではない」
「は、はい……ありがとうございます」
「そこはちゃんと礼を言うのじゃな」
と、リューシェ。
「筋が良いぞ、坊や」
「それもどういう褒め方なんですか……」
老騎士は荷を降ろしながら、改めて宿を見上げた。
初日に来た時は、付き添いの任務だった。
今回は違う。
自分の意思で再び足を運んだ。
その違いは、立ち姿に出ていた。
「部屋は空いているか」
「空いている」
と、アレクシス。
「前と同じでいいか」
「前と同じ?」
と、老騎士。
「覚えているのか」
「覚えている」
「客の部屋割りまで全部ですか」
と、ベルノルト。
「当然だ」
と、アレクシス。
「最近、旦那様の“当然”の範囲が広すぎません?」
「宿主だからな」
「便利な言葉ですねえ」
「便利じゃ」
と、リューシェ。
老騎士は少しだけ口元を緩めた。
「では同じでいい。あの部屋は静かで悪くなかった」
「分かった。ユノ」
「は、はい」
「案内しろ」
「はい!」
ユノは客用の鍵札を取り、老騎士を客室棟へ案内した。
歩きながら、ちらちらと横目で相手を見る。怖くないと言えば嘘になる。だが、開業初日の印象と比べれば、もう“怖いだけの人”ではなかった。
「……あの」
と、ユノが小さく声を出す。
「何だ」
と、老騎士。
「その……また来てくれて、ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではない」
「でも……」
「湯が気に入った。それだけだ」
「……赤湯、そんなに良かったんですか」
「良かった」
老騎士は短く答えた。
「長年、右膝の癖が抜けなくてな」
「古傷、ですか」
「若い頃の打ち傷だ」
「主様、すぐ分かってました」
「見ていたな」
「見ておる」
と、後ろからリューシェの声がする。
いつのまにかついてきていたらしい。
「主様は人の疲れ方を見るのだけは昔から妙に早い」
「“だけ”は余計だ」
と、アレクシス。
「おぬし、気配を消して歩くな。宿の中でやると坊やが驚く」
「隠れていたわけではない」
「似たようなものじゃ」
客室へ着くと、ユノは手早く窓掛けを整え、水差しの位置を確かめた。
老騎士はそれを見て、ふむ、と鼻を鳴らす。
「手が早いな」
「え」
「前よりもずっと」
「……ありがとうございます」
「褒められるとまだ顔が固まるのう」
と、リューシェ。
「坊や、おぬしそういうところ、本当に正直じゃ」
「だって、急に言われると……」
「慣れよ」
「無茶言わないでください」
部屋へ荷を置いたあと、老騎士は広間へ戻る前にアレクシスへ向き直った。
「宿主殿」
「何だ」
「礼を言っておく」
「何のだ」
「初日の赤湯だ」
「礼は前にも言うたではないか」
と、リューシェ。
「そうだが、今回はもう少し具体的にだ」
老騎士は自分の膝へ軽く手を当てた。
「前に来た時、あの湯に入った夜は久しぶりによく眠れた。翌朝も足の重さが違った。だから来た」
「そうか」
アレクシスは短く頷く。
「また入りたいか」
「入りたい」
「なら、今日は長湯するな」
「またそれか」
「昨日より少し熱が戻っている」
「分かるのか」
「分かる」
「やはりそこへ戻るのう」
と、リューシェ。
「でも、この宿はそれでこそでしょう」
と、ベルノルト。
「最近そこだけは私も否定しにくくなってきました」
「良い傾向だ」
と、アレクシス。
「良いのかなあ……」
昼前。
老騎士は赤湯から戻ってきた。
前回よりは表情の変化が少ない。だが、歩幅と膝の角度を見れば分かる。入る前より明らかに動きが滑らかだ。
アレクシスは広間の柱にもたれて、その戻りを見ていた。
「どうだ」
と、アレクシス。
「悪くない」
と、老騎士。
「ほう」
と、リューシェ。
「主様の口癖がうつったか」
「縁起でもない」
と、老騎士。
「ただ、あまりに良いと言うと調子に乗りそうだからだ」
「もう十分調子に乗っておるぞ」
「そうか?」
と、アレクシス。
「主様、それはさすがに分からぬふりが過ぎる」
「そういう自覚が薄いところも面倒です」
と、ベルノルト。
老騎士は椅子へ腰を下ろし、出された湯上がりの水を一口飲んだ。
「……ふむ」
「何だ」
「この水も温度がちょうどいい」
「冷やしすぎると腹に落ちる」
と、アレクシス。
「湯上がりはな」
「そこまで考えるか」
「考える」
「本当に、何を食うか何を飲むかまで全部宿のうちなんだな」
「宿だからな」
「出ましたね」
と、ベルノルト。
「本日三回目です」
「数えるな」
「もう習慣です」
そこでユノが、盆に軽い椀を乗せてやって来た。
「その……お昼の前に、少しだけ」
「何だ」
老騎士が覗き込む。
「柔らかい煮込みです。湯上がりのあとに、お腹へ重くないようにって」
「主様が言うたのか」
「いえ、厨房で、昨日の試しを少し変えて」
「ほう」
リューシェが面白そうに目を細めた。
「坊や、自分で考えたか」
「え、えっと……主様が前に、“湯のあとに重すぎるのは嫌だ”って言ってたから……」
「言ったな」
と、アレクシス。
「覚えておったか」
「……はい」
「よい」
「出たぞ、重いやつじゃ」
と、リューシェ。
「主様の“よい”はたまに重い」
「そんなにですか」
と、ユノ。
「そんなにな」
と、ベルノルト。
老騎士はその煮込みを一口食べ、また水を飲み、それから少しだけ黙った。
「……いい」
「本当に今日はその言葉ばかりじゃな」
と、リューシェ。
「無骨な客は語彙が減る」
「誰のせいだ」
「湯と飯のせいじゃろ」
「否定しにくいな……」
広間の火が柔らかくなってきた頃、老騎士は宿の外へ少しだけ歩きに出た。
赤湯の後は身体が軽い。
ただし長湯はするなと言われている。
それを律儀に守るあたりが、この男の面白いところだった。
ユノはその背を遠くから見ながら、小さくリューシェへ言った。
「なんだか」
「何じゃ」
「最初に思ってたより、ずっと優しい人ですね」
「ほう」
「怖そうだとは思ってたんですけど……」
「見た目は無骨じゃしな」
「はい。でも、主様に礼を言う時とか、湯の話を聞く時とか……なんていうか」
「不器用なだけじゃ」
と、リューシェ。
「そういう常連は宿を強くするぞ」
「常連……」
「そうじゃ」
「もう、そうなんですか」
「半分はな」
「また半分ですか」
「年寄りの評価はだいたい半分じゃ」
「便利な言葉ですね……」
「便利じゃ」
夕方、老騎士は広間の長椅子で少し長く座っていた。
泊まると決めた客特有の落ち着きが、もうある。
湯の匂いが染んだ宿の空気に、自分の体を預ける姿勢だ。
アレクシスが帳場の前を通ると、老騎士が低く言った。
「宿主殿」
「何だ」
「次は数日、滞在してみようと思う」
「ほう」
「赤湯の入り方も、他の湯との順番も、まだ試しきれていない」
「試す気か」
「せっかく来た。確かめる価値はある」
「悪くない考えだ」
「また“悪くない”か」
「良い考えだ」
「珍しく素直だな」
「たまにはな」
「主様、その“たまには”が増えるとよいのう」
と、リューシェ。
「増やす努力はしている」
「本当ですか?」
と、ユノ。
「している」
「努力が見えにくいですね……」
と、ベルノルト。
老騎士はそのやり取りを聞いて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……なるほどな」
「何だ」
「宿が生きるというのは、こういうことかもしれん」
「どういうことだ」
「湯があるだけではない。人がいて、飯があり、くだらんやり取りがあり、それでもちゃんと客が休める」
「くだらん、は余計じゃ」
と、リューシェ。
「だが、まあ、近くはある」
アレクシスは老騎士を見た。
初日に来た時、この男は“付き添い”だった。
今は違う。
ちゃんとこの宿の客として、自分の意思でここへ戻ってきている。
それは朝霧亭にとって、宿としての一つの答えでもあった。
「……また来い」
と、アレクシスは短く言った。
ユノが目を丸くする。
ベルノルトも少し驚いた顔をする。
リューシェだけが、すぐに笑った。
「主様」
「何だ」
「今のはなかなか良かったぞ」
「そうか?」
「そうじゃ。“言いたければ言え”より、よほど宿主らしい」
「そういうものか」
「そういうものです」
と、ベルノルト。
「今のはちょっと普通に格好よかったです」
と、ユノ。
「……そうか」
アレクシスは少しだけ視線を逸らした。
「主様、照れておるのう」
「照れていない」
「出ましたね、それ」
「最近おぬしたち、私の扱いが雑だな」
「宿が回り始めた証拠じゃ」
と、リューシェ。
「よいことじゃな」
老騎士は、そのくだらないやり取りを聞きながら、静かに頷いた。
「では、また来る」
「ああ」
「次は長逗留だ」
「部屋は空けておく」
「いや、そこは“予約をしろ”と言うところでは?」
と、ベルノルト。
「それもそうだな」
と、アレクシス。
「次は予約を入れろ」
「遅いんですよ、そういうのが!」
広間に小さな笑いが広がった。
赤湯の老騎士。
不器用で、無口で、だが湯の違いと宿の空気の良さはちゃんと分かる男。
その再訪は、朝霧亭にとって初めてはっきり形になった“常連”の予兆だった。
宿は、人が戻ってきて初めて、本当の意味で宿になる。
そのことを、アレクシスはよく分かっていた。




