第17話♨白湯目当てのご令嬢と、宿の評判
朝霧亭に吹く風は、日によって匂いが違う。
赤湯の鉄気が少し強い朝もあれば、白湯のやわらかな湯気が回廊に長く残る日もある。硫黄泉が気分よく立つ日は、玄関先にいるだけで「今日は熱い湯が生きておるな」とリューシェが言い、青湯の空気が澄む日はアレクシスの機嫌がわずかに良い。
そしてこの日の朝霧亭は、白湯の気配が強かった。
もっとも、それを最初に言い出したのはアレクシスではない。
「主様」
と、帳場の前で茶器を並べていたユノが、小さく首を傾げた。
「何だ」
と、帳場の帳面をめくっていたアレクシス。
「今日は、なんとなく白い湯の匂いが強い気がします」
「……ほう」
アレクシスが顔を上げる。
「坊や」
と、横で椅子を揺らしていたリューシェが笑う。
「だいぶ分かるようになってきたのう」
「え、そ、そうなんですか?」
「そうじゃ。昨日までなら“なんか違う気がします”で終わっておった。今はちゃんと白湯と分けておる」
「分かる」
と、アレクシス。
「今日は朝の白湯が良い」
「主様、それ本当にちょっと嬉しそうな顔ですね」
と、ベルノルトが帳場の奥から言う。
「そうか?」
「そうです。最近、旦那様の機嫌は湯の顔を見ればだいたい分かります」
「便利な部下じゃのう」
と、リューシェ。
「便利というより、完全に仕込まれてます」
と、ベルノルト。
「不本意です」
「だが役には立つ」
「その一言で済ませるんですよねえ……」
朝の支度はもうかなり流れるようになっていた。
ユノは茶器の配置と広間の卓の間を見て、椅子の角度を少しだけ直す。湯上がりの水差しの量を確認し、帳場の見える位置へ鍵札を並べる。足音も軽い。初めてここへ来た頃の、何かを落とさないか、誰かの邪魔をしないか、そればかり気にしていたぎこちなさはかなり薄れている。
朝霧亭の朝の景色に、もうユノの動きは自然に溶け込んでいた。
そこへ、馬車の音がした。
ごと、と石畳を踏む車輪。
軽くはない。
だが王都から来るような大仰さでもない。
御者の手綱さばきも丁寧で、馬もよく整っている。
玄関先の気配に気づいたユノが振り向き、次の瞬間、目を丸くした。
「……あ」
「何じゃ」
と、リューシェ。
「前の……」
ユノが小さく言う。
「ご令嬢、です」
馬車が止まり、扉が開く。
降りてきたのは、開業初日に白湯へ入り、その柔らかさをいたく気に入っていたあの令嬢だった。年の頃は十六、七。髪は丁寧に結い上げられ、旅装ではあるが布地も色も上等だ。今日は前回の父親や老騎士はおらず、代わりに母親と侍女を二人、若い従者を一人だけ連れている。
令嬢は馬車から降りるなり、宿を見上げ、そしてぱっと顔を明るくした。
「やっぱりここですわ!」
「そうだな」
と、アレクシス。
「また来たか」
「その言い方、もう少し歓迎の色を出せませんの?」
令嬢がすぐに言い返す。
「歓迎はしている」
「それが分かりにくいんですのよ」
「主様、さっそく言われておるぞ」
と、リューシェ。
「この方、初回から主様の扱いがうまいですね」
と、ベルノルトがぼそっと言う。
令嬢の母――品のある中年の貴婦人が、前よりも少し柔らかい顔で会釈した。
「ご無沙汰しております、宿主殿」
「数日ぶりだ」
「それでも“ご無沙汰”でよろしいでしょう」
「そうか」
「本当に会話の端を切っていく方ですわね」
「必要なことは聞いております」
「便利な言い方じゃのう」
と、リューシェ。
「最近、主様はそれで全部を押し切る」
「押し切れているなら問題ない」
「その言い方、ほんとによくないですわ」
と、令嬢が笑う。
ユノは慌てて一礼した。
「い、いらっしゃいませ」
令嬢の視線がそのままユノへ向く。
「まあ、やっぱりいらっしゃいましたのね」
「……はい?」
「前に来た時、噂は本当だったと思いましたけれど、改めて見ても本当に可愛いですわ」
「違います!」
ユノが即座に否定する。
「娘ではありません!」
「そこ、そんなに急いで否定するところかしら」
と、令嬢。
「急がないと、みなさんそこばかり言うので……」
「気の毒じゃのう」
と、リューシェはまったく気の毒そうでない声で言う。
「だが坊や、看板係としての説得力は今日も高い」
「やっぱりそこへ戻るんですか!」
「戻るとも」
「主様、何か言ってください!」
「接客の声は前より通る」
「そこなんですね!?」
「そこだ」
「最近、主様の評価軸が本当に一貫してきて逆に怖いです」
と、ベルノルト。
令嬢は楽しそうに肩を揺らした。
「本当に面白い宿ですこと」
「そういう意味で来たのではあるまい」
と、アレクシス。
「もちろん違いますわ」
令嬢は胸を張る。
「白湯です」
「言い切りましたね」
と、ユノ。
「ええ、言い切りますわ。前回あの白い湯に入って、帰ったあともしばらく肌の乾きが気になりませんでしたの。お母様にも話したら、“それなら一度見てみたい”と」
「……なるほど」
アレクシスは貴婦人を見る。
「奥方は長旅で喉と肌が少し乾いている」
「分かりますの?」
「見ればな」
「出ましたわね、その台詞」
令嬢が嬉しそうに言う。
「今、何度目?」
「数えておるのか」
と、リューシェ。
「当然ですわ。この方、妙にそこだけは一貫しておりますもの」
「仲間が増えた……」
と、ベルノルトが遠い目をする。
令嬢の母は、苦笑しながら扇で口元を隠した。
「娘が騒がしくて申し訳ありません」
「構わん」
と、アレクシス。
「騒ぐ客は珍しくない」
「それ、微妙に慰めになっていませんわ」
と、令嬢。
「事実だ」
「本当に事実で全部押し通しますのね」
客間へ案内する途中、令嬢はあちこちを興味深そうに見ていた。
前回は開業初日で、周囲も慌ただしく、ゆっくり見て回る余裕はなかったのだろう。今日は母親と侍女を連れていることもあって、宿全体の雰囲気を味わう気があるらしい。
「窓掛けの色が落ち着いていますわね」
「湯上がりに目へうるさくないようにしておる」
と、アレクシス。
「そこまで考えるんですの?」
「考える」
「主様は、そういうところだけは本当に譲らん」
と、リューシェ。
「“だけ”が余計だ」
「最近ほんに増えたのう、このやり取り」
ユノが客間の扉を開け、水差しの位置を確かめる。侍女たちはその動きをじっと見ていた。
そのうちの一人が、少し戸惑った顔で口を開く。
「あの……」
「何だ」
と、令嬢。
「本当に、この宿は……その……」
「はっきり言え」
と、貴婦人が穏やかに促す。
「……湯治客の方々と、同じ湯殿をお使いになるのですか?」
侍女は遠慮がちだが、言いたいことははっきりしていた。
「つまり、身分の違う者たちと、同じ場で?」
「そうです」
と、ユノが思わず返してしまい、すぐに「あっ」と口をつぐむ。
アレクシスは頷いた。
「そうだ」
「主様」
と、リューシェが小声で言う。
「来たぞ」
「分かっている」
貴族の湯治と、地元客や冒険者とでは、求めるものも気の遣い方も違う。侍女が気にするのは当然だった。
だがアレクシスの返事はあくまで淡々としている。
「身分で湯の順番は変えん」
と、彼は言った。
「湯に入るために来た客は、客だ」
「ですが」
「必要なら時間をずらす。混みすぎる時は調整する。貸切を用意することもある。だが、最初から“誰それだから先”という理屈では回さない」
「それは……」
侍女が困った顔をする。
「ずいぶん変わっていますのね」
「変わっているか?」
と、アレクシス。
「変わっておる」
と、リューシェ。
「かなりな」
「でも」
と、令嬢が口を挟んだ。
「わたくし、その方が面白いと思いますわ」
「お嬢様?」
と、侍女。
「だって、湯に入れば皆、同じように気持ち良いのでしょう?」
「まあ……そうではありますが」
「それに、前回来た時も、地元のお婆さまたちが白い湯のお話をしてくださって、面白かったんですのよ」
「会話したのか」
と、アレクシス。
「ええ。“その白い湯は春先に入ると肌がやわらぐ”とか、“赤い湯の後に入るとまた違う”とか」
「……間違ってはおらんな」
「でしょう?」
令嬢は少し誇らしげだった。
「だから、最初から壁ばかり作らない方が、わたくしは好きですわ」
貴婦人は娘の顔を見て、ふっと肩の力を抜いた。
「あなたがそう言うなら、それでよいのでしょう」
「お母様は?」
「わたくしも、少し見てみたいと思って来たのですもの。王都の湯場では見えないものがあるなら、それも経験です」
「良い母上じゃのう」
と、リューシェ。
「主様、おぬしも少し見習え」
「何をだ」
「言い方をじゃ」
「必要なことは言っている」
「ほれ、すぐそうなる」
客間へ荷が運び込まれ、ひと息ついたあと、令嬢はさっそく白湯へ向かう気満々だった。
「今から入れますわよね?」
「入れる」
と、アレクシス。
「ただし、今日は最初に短めだ。前回より少し白湯の石膏気が立っている」
「主様」
と、ベルノルトが肩を落とす。
「今、普通に細かな泉質の話を入れましたね」
「必要だからな」
「本当に便利な言葉ですね……」
「でも、それを言われると逆に入ってみたくなりますわ」
と、令嬢。
「今の“少し石膏気が立っている”というのも、宿の楽しみみたいで」
「ほう」
と、リューシェ。
「嬢ちゃん、見どころが分かっておるの」
「お嬢様、普通はそういうところに食いつかれません」
と、侍女。
「だって、ただ“良い湯です”より面白いでしょう?」
「……まあ、それはそうですわね」
「ほれ見ろ」
と、リューシェ。
「主様の面倒くささも、たまには客に刺さる」
「たまにか?」
「かなり限定的じゃ」
「そうですか……」
と、ユノ。
「でも、このご令嬢にはすごく刺さってますね」
「刺さっておりますわ」
と、令嬢本人が即答した。
白湯から戻ってきた令嬢は、初回以上に満足そうだった。
頬にはほんのり血色があり、目元もやわらかい。湯上がり着の袖を押さえながら広間へ入ってくると、真っ先に言った。
「やっぱり良いですわ」
「そうか」
と、アレクシス。
「はい。王都の浴場にも白く濁る湯はありますけれど、ここのは何か、もっと……」
「やわらかい?」
と、ユノが思わず口を挟む。
「そう! それですわ!」
令嬢がぱっと顔を輝かせる。
「とがっていなくて、ちゃんと身体に沿う感じ」
「今日は昨日より少しだけ優しいです」
と、ユノ。
「え?」
と、令嬢。
「分かるんですの?」
「た、たぶん……主様とリューシェさんが、朝にそんな話をしてたので……」
「坊や」
と、リューシェ。
「よいぞ。ちゃんと聞いておる」
「最近、ユノまでそっち側の会話をし始めましたね」
と、ベルノルト。
「完全に宿に染まってきてるな……」
「嫌ですか?」
と、ユノ。
「嫌じゃないよ。ただ、旦那様みたいになると少し面倒だなって」
「聞こえているぞ」
と、アレクシス。
「それももう最近はいつもの流れですね」
昼食の席では、貴婦人も白湯を気に入ったようだった。
もちろん言葉は娘ほど率直ではない。だが、口数が少し増え、食後の椀へ手を伸ばす前にこう言った。
「宿主殿」
「何だ」
「この白い湯、娘が騒いでいた理由が少し分かりました」
「そうか」
「ええ。王都へ戻ったら、また乾いた空気の中で過ごしますもの。ここへまた来る理由には十分です」
「来ればいい」
「そこはもう少し愛想を」
と、令嬢。
「足りませんわ」
「足りぬ」
と、リューシェ。
「主様は歓迎の言葉が短い」
「長ければいいわけではない」
「でも、短すぎます」
と、ユノも小声で言う。
「おぬしまで言うか」
「だって……」
そこへ侍女が少し控えめに口を挟んだ。
「恐れながら」
「何だ」
と、アレクシス。
「先ほど白湯へ向かう時、地元のお婆様方とご一緒になりました」
「そうか」
「最初は少し戸惑いましたが……」
「が?」
「とても親切に、“白い湯は最初に顔を洗うと気持ちいいよ”と教えてくださって」
「その通りじゃ」
と、リューシェ。
「年寄りはそういうことだけは妙に詳しい」
「おかげで、思ったより落ち着いて入れましたわ」
と、侍女。
「……それなら良かった」
と、アレクシス。
「はい。ですので、その……先ほどは失礼しました」
「気にするな。慣れぬ客が気にするのは当然だ」
「そこはちゃんと宿主らしい返しをするんですね」
と、ベルノルト。
「何だ」
「いや、最近ほんとに“宿主”と“湯守”の顔が半分ずつくらいで同居してるなと思いまして」
令嬢はそのやり取りを見ながら、楽しそうに笑っていた。
「お母様」
「何かしら」
「わたくし、また来ますわ」
「ええ、そうでしょうね」
「次は白湯だけでなく、露天も試してみたいですし、赤い湯の後に白い湯へ入る順番も……」
「もう完全に湯治客の顔じゃ」
と、リューシェ。
「よい傾向じゃのう」
「貴族令嬢に向かってそう言うの、普通は少し無礼では?」
と、ベルノルト。
「この宿では普通がよく分からなくなってきましたわ」
と、令嬢が笑う。
午後、馬車へ荷を戻す頃には、令嬢はもう名残惜しそうだった。
「本当にまた来てもよろしいのよね?」
「構わん」
と、アレクシス。
「主様」
と、リューシェ。
「そこは“また来い”くらい言うてやれ」
「……また来るか」
「問いかけになっておりますわ!」
と、令嬢。
「もっとこう、“来い”で良いんですのよ」
「そういうものか」
「そういうものです」
と、ユノ。
「そういうものらしいです」
と、ベルノルト。
「どちらの味方だ」
「最近は状況の味方です」
結局、令嬢はくすくす笑いながら馬車へ乗り込んだ。
窓から顔を出し、白い手袋の手を軽く振る。
「では、また来ますわ」
「ああ」
と、アレクシス。
「次は予約を入れてからな」
「そこだけはしっかりしてますのね」
「帳場が泣く」
と、ベルノルトが真顔で言う。
「本当にお願いします」
馬車が去っていく。
白い靄の残る山道を、車輪の音がゆっくり遠ざかる。
それを見送ったあと、リューシェが腕を組んで鼻を鳴らした。
「のう主様」
「何だ」
「嬢ちゃん、かなり気に入ったぞ」
「ああ」
「湯をな」
「宿もだろう」
「おや、珍しく自信がある」
「見れば分かる」
「出たぞ、便利なやつじゃ」
「でも、たぶん本当にそうだと思います」
と、ユノ。
「広間とか、回廊とか、白湯のあとに座ってる時の顔、すごく楽しそうでした」
「坊や」
と、リューシェ。
「おぬし、客の顔を見るのが前よりうまくなったのう」
「え」
「接客の筋だけでなく、見る目もついてきた」
「……主様寄りですね」
と、ベルノルト。
「だいぶ」
「嫌ですか?」
と、ユノ。
「いや、嫌ではない。ただ、旦那様みたいに全部を半歩先まで気にし始めると、周りが少し大変かなって」
「大変か?」
と、アレクシス。
「大変です」
と、ベルノルト。
「でも、悪いことばかりでもないです」
と、ユノ。
「どうしてだ」
「だって、そうやって見てるから、また来たいって思ってもらえるんですよね」
「……そうだな」
アレクシスは少しだけ目を細めた。
「それはそうだ」
宿の評判は、こうして少しずつ広がっていく。
大声で宣伝しなくてもいい。
白湯を気に入った令嬢が、王都で母や侍女や知人に話す。
“辺境の変わった名湯宿”が、やがて“また行きたい本物の湯宿”に変わっていく。
朝霧亭にとって、それは確かな追い風だった。




