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第18話♨魔族の客は、硫黄泉が苦手

 朝霧亭には、湯気の匂いとは別に、客ごとの気配が残る。


 大声で笑う冒険者がいた翌朝は、広間の空気まで少しだけ荒っぽい。

 貴族が泊まった翌朝は、侍女の立ち働きの名残で卓上の整い方がやけにきっちりしている。

 湯治客が多かった夜の次は、廊下の足音が全体にゆっくりになる。


 そして今朝の朝霧亭には、静かな客の気配が薄く残っていた。


 黒い外套。

 深いフード。

 ほとんど無駄口を叩かず、しかし湯と食事に対してだけは、必要なことを必要なだけ告げる客。


 開業初日にふらりと現れた、あの魔族である。


「主様」

 と、帳場の前で鍵札を整えていたユノが小声で言った。

「何だ」

 と、アレクシス。

「……また来る気がします」

「何がだ」

「黒い外套の……あの方」

「ほう」

 リューシェが椅子の背にもたれたまま目を細める。

「坊や、何でそう思う」

「えっと……」

 ユノは少し考える。

「昨日、帰る前に露天の方を見てた顔が……なんとなく、“また来たい”みたいに見えたので」

「見ておるのう」

 と、リューシェ。

「最近ほんとに、客の顔を見るようになってきた」

「そうか」

 と、アレクシス。

「そうだな」

「主様、今の“そうだな”はちょっと重い方ですね」

 と、ベルノルトが帳場の奥から言う。

「分かるのか」

「最近、旦那様の相槌の重さで褒めてるかどうかが分かるようになってきました」

「不本意な成長じゃな」

 と、リューシェ。

「だが役には立つ」

「便利な部下だ」

 と、アレクシス。

「便利ですけど、嬉しくはありません」


 そこへ、玄関の方で扉の金具が控えめに鳴った。


 誰も大きな声は出さない。

 馬車の音もしない。

 だが、静かだからこそ、気配だけで分かる。


 ユノが振り向き、そして少しだけ肩を揺らした。


「……来ました」

「やはりか」

 と、アレクシス。


 玄関に立っていたのは、予想通り黒い外套の客だった。


 今日もフードは深く、顔立ちの細部までは読みづらい。だが背は高く、立ち姿に無駄がない。人間と同じ服を着ていても、何かの輪郭が少しだけ違うと感じさせる。完全には消えない異質さ――魔族の気配だ。


 客は一歩、敷居の内へ入ると、短く言った。


「一室、空いているか」

「ある」

 と、アレクシス。

「前と同じ部屋でいいか」

「……覚えているのか」

「覚えている」

「主様、それを驚く客もおるのじゃな」

 と、リューシェ。

「客だ」

 と、アレクシス。

「宿主だからな」

 と、ベルノルトが力なく付け足す。

「最近、その言葉が本当に全部の説明になるのが腹立たしいんですよね」


 黒外套の客は、前回と同じように短い沈黙を挟んだあと、ほんの少しだけ頷いた。


「同じでいい」

「食事はつけるか」

「つける」

「前回と同じく、強い香草は避ける」

「……ああ」

「湯はどうする」

「ぬる湯か、青い湯だ」

「分かった」


 ユノは、前回よりは少しだけ落ち着いていた。


 魔族、と聞いた時の怖さはまだある。

 だが開業初日に見た時と違って、この客は大声も出さないし、変な視線も寄越さないし、礼儀を欠くわけでもない。それをもう知っているからだ。


「い、いらっしゃいませ」

 ユノが一礼する。

 黒外套の客は、その声に少しだけ目を向けた。

「……ああ」

「主様」

 と、リューシェが横で言う。

「坊や、今の客は嫌いではない顔をしておるぞ」

「え!?」

 ユノが赤くなる。

「そ、そういう言い方しないでください!」

「どういう意味です?」

 と、ベルノルト。

「坊や、怖がっておらぬ」

「それはそうですけど、言い方!」

「面白いからよい」

「良くありません!」


 客室へ案内する途中、ユノは少しだけ勇気を出して訊いた。


「その……お荷物、少ないんですね」

 自分で言ってから、失礼だったかと固まる。

「す、すみません、変なことを」

「いや」

 と、黒外套の客。

「長く留まる旅ではない」

「そうなんですね」

「……だが」

 少し間があく。

「ここは、荷が少なくても困らない」

「え?」

「必要なものは、だいたい揃っている」


 ユノは目を瞬いた。


 それは、かなりはっきりした褒め言葉だった。


「……ありがとうございます」

「主様が聞いたら喜ぶぞ」

 と、リューシェ。

「主様、ちゃんと聞こえておるか」

「聞こえている」

 と、アレクシスが後ろから言う。

「十分だ」

「出たぞ、重い“十分”じゃ」

 と、リューシェ。

「主様、それ、褒められた時しか出ぬ顔です」

 と、ベルノルト。

「そうか?」

「そうです」

「坊や」

 と、リューシェ。

「おぬし、ここに来る客は皆、主様の機嫌を良くする術を自然に覚えていくのう」

「そんな術みたいに言わないでください……」

 と、ユノ。


 昼前。


 黒外套の客――まだ名乗らないその男は、青湯へ入ったあと、広間の隅で静かに食事をしていた。


 相変わらず無駄口はない。

 だが前回より明らかに警戒が薄い。


 湯上がりの肩の力の抜け方。

 椅子へ座る時の角度。

 広間の音へ向ける意識の薄さ。

 全部が少しずつ違っている。


「主様」

 と、リューシェが帳場から小さく言う。

「何だ」

「ほぐれてきておるの」

「ああ」

「前回は背筋の一本まで警戒で固めておった。今日は半分くらい溶けておる」

「湯のせいか」

「湯だけではあるまい」

「飯か」

「それもある。あとは、おぬしが余計に踏み込まぬからじゃ」

「客だからな」

「出た、便利なやつ」

「でも、それはあると思います」

 と、ユノも小さく言った。

「何がだ」

 と、アレクシス。

「主様、その人が魔族だからって、変に驚いたり、探ったりしないじゃないですか」

「必要なら訊く」

「でも必要じゃないことは訊かない」

「そうだ」

「だから、落ち着くのかなって」

「坊や」

 と、リューシェ。

「やはり見ておるのう」

「え、あ……」

「接客向きじゃな」

「またそこへ戻る!」


 黒外套の客は、食後の水を飲み終えると、少ししてから帳場へ来た。


「宿主」

「何だ」

「一つ訊く」

「言え」

「なぜ、私を気にしない」

「気にはしている」

 と、アレクシス。

「だが客としてだ」

「種族の方ではなく?」

「種族も客の事情の一つではある。だが、それだけではない」

「……ふむ」

「湯に入るか、飯を食うか、静かに休みたいか。その方が先だ」

「主様」

 と、リューシェがにやつく。

「今のは、わりと宿主らしいぞ」

「最近、そこだけは本当に板についてきましたね」

 と、ベルノルト。

「宿主だからな」

「はいはい、それももう分かってます」


 黒外套の客は、少しだけ黙ったあと言った。


「普通は、もっと目に出る」

「何がだ」

「警戒だ」

「あるにはある」

「だが見せない」

「見せる必要がない」

「なぜ」

「おまえは、今のところ宿を荒らしていない」

「……それだけか」

「それだけだ」

「主様、そういう言い方をすると、少し怖いぞ」

 と、リューシェ。

「怖いか?」

「“荒らしたら違う”が入っておる」

「入っている」

「否定せぬのか」

「事実だ」

「最近本当に事実で全部押すようになりましたね……」

 と、ベルノルト。


 その時、ちょうど広間の別の客が硫黄泉の話をしていた。


「いやー、あの匂いすげえな」

 と、若い冒険者。

「でも熱くて気持ちいいぞ」

「俺ちょっと苦手だった」

「お前、顔真っ赤だったもんな」

「うるせえ」


 その会話を聞いた黒外套の客が、わずかに眉を動かした。


 アレクシスは見逃さない。


「硫黄泉は今日も強い」

 と、彼は言った。

「おまえにはまだ勧めん」

「……やはり分かるのか」

「前回も避けただろう」

「避けた」

「嫌いなのではなく、相性だ」

「そうだ」

「では、無理に入るな」

「理由を聞かないのか」

「言いたければ言え」

「言いたくなければ?」

「言わなくていい」

「……変わった宿主だな」

「よく言われる」

「それ、便利な逃げ方じゃありません?」

 と、ユノ。

「逃げてはいない」

「僕、最近ちょっとだけ主様の言い回しが分かってきました」

「嫌な成長じゃ」

 と、リューシェ。

「だが悪くはない」


 昼のあと、黒外套の客は露天の方へ向かった。


 岩棚に作った、あの静かなぬる湯。

 風と湯気だけが長く残る場所だ。


 ユノは水差しを持って行く途中、露天へ入るその背中を見た。

 前回はどこか周囲へ気を配りすぎて、湯へ体重を預けきれていない感じがあった。

 今日は違う。

 湯の中へ入る前から、少しだけ肩が落ちている。


「主様」

 と、ユノが戻ってきて小さく言う。

「何だ」

「やっぱり、あの人……」

「何だ」

「ここ、好きなんだと思います」

「ほう」

 と、リューシェ。

「また見ておる」

「だって……」

「どうしてそう思う」

 と、アレクシス。

「露天へ行く時の足音が、前より軽かったです」

「…………」

 リューシェが一瞬黙って、それから笑った。

「坊や」

「はい」

「おぬし、それはかなり宿の側の感覚じゃぞ」

「え」

「主様と同じことを言い始めおった」

「僕、そんなつもりじゃ……」

「足音が軽い、は主様の領分じゃ」

「そうなのか?」

 と、アレクシス。

「そうじゃ。おぬしは人の疲れも警戒も、だいたい歩き方と息で見る」

「便利な目ですね……」

 と、ベルノルト。

「本人に言うと、たぶん“当然だ”で返されますよ」

「当然だ」

「ほら」


 夕方。


 黒外套の客は、前回より長く宿へ留まった。


 広間の火が入っても席を立たず、食後の湯まで静かに楽しんだ。誰とも親しく話すわけではない。だが敵意もなく、周囲の騒がしさをただ遠くに置いている。朝霧亭という空間の中に、自分の席を見つけかけているような落ち着きだった。


 帰り際、帳場の前に立つ。


「宿主」

「何だ」

「次に来る時は、もう少し長く留まるかもしれん」

「そうか」

「嫌か」

「嫌ではない」

「主様、それはだいぶ歓迎の言葉として短いぞ」

 と、リューシェ。

「もっとこう、“また来い”とかあるじゃろう」

「必要か?」

「必要じゃ」

「そういうものなのか」

「そういうものです」

 と、ユノ。

「そういうものですね」

 と、ベルノルト。

「両方から言われると少し考えるな」


 黒外套の客は、そのやり取りを聞いて、ほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。


「では、また来る」

「……ああ」

 アレクシスは短く頷く。

「今度は予約を入れろ」

「そこは忘れぬのだな」

「帳場が泣く」

「泣きます」

 と、ベルノルト。

「本当にお願いします」


 客はそこで少し迷うような間を置いた。


 そしてフードの奥から、初めて言うには短すぎる名を落とす。


「……ゼフ」


 ユノが瞬く。

 リューシェが目を細める。

 アレクシスはその名を一度だけ頭の中で転がし、頷いた。


「そうか」

「それだけか」

「名乗ったなと思った」

「主様」

 と、リューシェ。

「もう少し反応というものが」

「必要か?」

「主様は本当にそればかりじゃな」

「でも、たぶんそれでいいんだと思います」

 と、ユノ。

「何がだ」

 と、アレクシス。

「だって、変に驚かれたり、探られたりしない方が、あの人も名乗りやすかったんじゃないかなって」

「坊や」

 と、リューシェ。

「本当に客の顔を見るのがうまくなったのう」

「えへへ……」

 と笑いかけてから、ユノははっとする。

「……じゃなくて」

「今のはちょっと看板係っぽい笑い方でしたよ」

 と、ベルノルト。

「やめてください!」

「やはり看板係向きじゃ」

 と、リューシェ。

「まだ言う!」


 ゼフはそのやり取りを聞いて、今度ははっきりと笑った。


 ほんの小さな笑いだ。

 だが、初日に現れた時のあの硬さを知っている者には、それだけで十分な変化だった。


「……面白い宿だ」

 と、彼は言う。

「そうか」

 と、アレクシス。

「そうじゃ」

 と、リューシェ。

「最近、私もそう思うようになりました」

 と、ベルノルト。

「僕も、です」

 と、ユノ。


 ゼフは短く会釈し、そのまま山道の方へ消えていった。


 外套の背が見えなくなってから、広間にはしばらく静けさが残った。

 その静けさは気まずいものではなく、誰かがちゃんと休んで帰っていったあとの、宿らしい静けさだった。


 アレクシスは玄関の外を一度見やってから、ぽつりと言った。


「悪くない」

「出たぞ」

 と、リューシェ。

「今のはかなり良い時の顔じゃ」

「主様、今日は何回目でしょう」

 と、ベルノルト。

「数えるな」

「無理です。最近もう習慣なので」

「……ゼフ、ですね」

 と、ユノが小さく繰り返す。

「名乗りましたね」

「名乗ったな」

 と、アレクシス。

「それは小さいようで、宿には大きい」

「ほう」

 と、リューシェ。

「今日はなかなか良いことを言うのう」

「たまにはな」

「増やしてください」

 と、ベルノルト。

「努力はする」

「努力、ですか」

「必要だからな」

「結局そこへ戻るんですね……」


 朝霧亭は、人の事情を全部訊く宿ではない。

 だが、湯と飯と寝床を通して、少しずつその人の輪郭が見えてくる宿ではある。


 そしてゼフという名を一つ置いていった魔族の客は、これから先、ただの通りすがりでは終わらない気配を、確かに残していった。

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