第19話 予約が多すぎる
朝霧亭の帳場は、静かな顔をして地獄を生む。
ベルノルトは、ある朝とうとうその真理にたどり着いた。
きっかけは簡単だ。
朝食前に届いた手紙の束が、いつもの三倍あったのである。
まだ陽がしっかり差しきる前、山道を上がってきた伝令役の少年が、麻紐でまとめた書簡をどさりと帳場へ置いた瞬間から、嫌な予感はしていた。だが、実際に封を切って中身を広げてみると、その嫌な予感は見事に当たっていた。
「旦那様」
と、ベルノルトは帳面の前で顔を引きつらせた。
「何だ」
と、アレクシス。
当然のように朝一番の湯殿見回りを終えて戻ってきた顔である。
「面倒です」
「雑だな」
「雑に言いたくなるくらい、面倒です」
「何がだ」
「予約です」
「入ったか」
「入りました」
「良いことだな」
「量が良くないんです!」
帳場の前へ来たリューシェが、面白そうに覗き込んだ。
「どれ」
「見ます?」
「見るとも。主様の顔だけは微妙に嬉しそうなのが腹立たしいからの」
「嬉しそうか?」
と、アレクシス。
「嬉しそうじゃ」
と、リューシェ。
「“悪くない知らせだ”という時の顔をしておる」
「実際、悪くない」
「帳場は悪いです」
と、ベルノルト。
「非常に悪いです」
ユノも、水差しの補充をしていた手を止めて帳場へ寄ってきた。
「そんなに、いっぱいなんですか」
「いっぱいです」
と、ベルノルト。
「ほら見てください」
広げられた手紙の束には、ずらりと依頼が並んでいた。
王都南方伯家より、三室、二泊希望。
療養目的の老夫婦、二名。
銀嵐の牙亭所属の冒険者一行、大部屋希望。
地元湯治客、次の市の日に合わせて二部屋。
商人一行、山越えの前泊希望。
巡礼者風の一団、食事つき希望。
そして、名前はぼかしてあるがどう見てもゼフ絡みの気配がする、静かな一室の問い合わせ。
「……多いな」
と、アレクシス。
「やっと言いましたね」
と、ベルノルト。
「多いです。しかも、全部を受けると部屋が足りません。湯殿の回しも、食事の手も、馬の世話も、全部きつくなります」
「断れ」
「即答!?」
ベルノルトが半ば叫ぶ。
リューシェはその横で肩を揺らした。
「主様、さすがに早いのう」
「無理なものは無理だ」
「それはそうじゃが」
「湯と飯と寝床の質を落とすくらいなら、最初から取らん」
「その理屈で来たか」
と、ベルノルトが額を押さえる。
「いや、分かるんですよ。分かるんです。分かるんですが、もう少しこう、“どこまで詰めるか考える”とか」
「考えた上で言っている」
「そうなんですよね、旦那様の場合……」
ユノは手紙を一枚一枚見ながら、小さく息を呑んでいた。
「これ、全部“来たい”ってことですよね」
「そうだ」
と、アレクシス。
「すごいですね」
「すごいが、入れればいいわけではない」
「主様、そこは一応“ありがたい”とか言うてもよいのでは?」
と、リューシェ。
「ありがたい」
「言うのが遅い」
「だが、その通りだ」
アレクシスは帳場の上の束を指で軽く叩いた。
「ありがたい。だから雑に扱いたくない」
その一言で、ベルノルトが少しだけ黙る。
この男は、儲け話が嫌いなわけではない。
ただ、“儲かるから詰め込む”という考え方をほとんどしない。
宿という場所が壊れる線を越えるくらいなら、客を減らす方を選ぶ。
面倒だが、筋は通っている。
それがいちばん帳場泣かせなのだった。
「では」
と、ベルノルトが気を取り直す。
「どこまで受けます?」
「まず、長逗留の療養客は受ける」
と、アレクシス。
「それから、前回の白湯の令嬢は日をずらさせる。貴族客同士が重なりすぎると侍女の気疲れが増える」
「そこまで見るんですね」
と、ユノ。
「見る」
「出たぞ」
と、リューシェ。
「便利なやつじゃ」
「必要だ」
「最近そればかりじゃの」
アレクシスは続ける。
「地元の湯治客は市の日に合わせて少し残す」
「残す?」
と、ベルノルト。
「全部ではなく?」
「全部は無理だ。だが、完全に外すと“地元の宿”でなくなる」
「ほう」
と、リューシェ。
「そこはちゃんと考えておるの」
「当然だ」
「いや、主様の“当然”は広すぎるんですが」
「冒険者の大部屋希望は?」
と、ベルノルト。
「銀嵐の牙亭所属なら、人数を聞け。五人以内なら取る。七人以上なら下の宿を紹介しろ」
「紹介?」
「《灰狼亭》だ」
「オルド殿のところですね」
「そうだ。全部を山の上で抱える必要はない」
「主様、それは良い」
と、リューシェ。
「前に言うておった“役割を分ける”の実践じゃな」
「そうだ」
「下の宿も敵ではなく、流れの一つと見るわけか」
「街道宿と湯治宿は客の質が違う。無理に奪い合う理由がない」
「本当にそこだけ妙に視野が広いですね……」
と、ベルノルト。
「“そこだけ”が余計だ」
と、アレクシス。
朝霧亭の予約整理は、そのまま小さな戦議になった。
帳場に手紙を並べ、日付ごとに札を置き、客の種類を分ける。
貴族。療養。冒険者。商人。地元客。正体を隠した静かな一名。
どの客がどの湯を主に使い、どれだけ食事に手がかかり、厩舎が要るか、湯殿の混み方はどうなるか。
ユノは最初、その作業を横で見ているだけだったが、やがておずおずと口を挟んだ。
「あの……」
「何だ」
と、アレクシス。
「えっと、この日に療養の老夫婦が来るなら……」
「うむ」
「その前の日に、冒険者さんがいっぱいだと、ちょっと落ち着かないかもです」
「ほう」
と、リューシェ。
「坊や、何でそう思う」
「えっと……夜の広間って、冒険者さんたち、楽しいけどちょっと声が大きいじゃないですか」
「大きいな」
と、ベルノルト。
「かなり」
「だから、翌日に静かな客が来るなら、その前日は、あんまり夜遅くまで騒がない人の方がいいかなって……」
「…………」
アレクシスが少し黙った。
「主様」
と、リューシェ。
「今のはかなり良いぞ」
「ああ」
と、アレクシス。
「その通りだ」
「えっ」
ユノがぱっと顔を上げる。
「よく見ている」
「……っ、はい」
ベルノルトが帳面に書き込みながら、しみじみと呟いた。
「ユノ、もう普通に予約整理の感覚が宿の側なんだね」
「そ、そうなんでしょうか」
「そうじゃ」
と、リューシェ。
「おぬし、客を“人数”ではなく“空気”で見始めておる」
「それ、すごい褒め方なんですか?」
「かなりな」
「接客の筋だけでなく、宿全体の呼吸を見るようになってきた」
と、アレクシス。
「……主様、それ、今のは相当重いやつですよね」
と、ベルノルト。
「そうか?」
「そうです」
「最近、旦那様がユノを褒める時だけ妙に圧がある気がします」
帳場での予約整理がひと段落した頃、昼前の客が何組かやって来た。
その中には、噂を聞きつけた新しい商人もいたし、白湯を目当てに再訪した地元の女たちもいた。入口で「今日は入れるかい」「部屋は空いてるの」と聞かれ、ユノは少し前より迷わず返せるようになっていた。
「本日は日帰り湯ならお受けできます」
「泊まりは?」
「今夜はいっぱいです。次の日なら、まだ相談できます」
「ほう」
と、客の一人が感心する。
「ちゃんとしてるね」
「……あ、ありがとうございます」
「坊や」
と、リューシェが小声で言う。
「今の、もう完全に帳場の子じゃな」
「帳場の子って何ですか」
「宿の顔の一つじゃ」
「またそういう……」
「やはり看板係向き」
「戻った!」
だが、予約が増えることは、嬉しいばかりではなかった。
厨房の方では、グスタフが腕を組んで眉をひそめている。
「旦那」
「何だ」
「この先の客数、本当にこれで回すのか」
「どういう意味だ」
「どういう意味も何も、その療養の老夫婦と、貴族二組と、冒険者一行が重なる日に、魚が二便とも遅れたら詰む」
「詰まない」
「その自信がどこから来る」
「代替を組む」
「簡単に言うなあ」
「飯の軸は煮込みと汁だ。魚が遅れたら根菜を厚くしろ。塩分の必要な客には肉を足す。貴族には皿数で見せる」
「……くそ、分かってるのが腹立つ」
と、グスタフ。
「ほんとにこの旦那、宿屋じゃなくて兵站頭だな」
「回していた」
と、アレクシス。
「知ってるよ、その話はもう」
「でも最近、厨房もだいぶ主様の“詰め方”に慣れてきたよね」
と、リューシェ。
「悔しいがな」
と、グスタフ。
「だけど、こうして先の客数が見えると、仕込みの考え方はしやすい」
厩舎の方でも同じだった。
馬を何頭受けるか。
どの客が荷車つきか。
どの馬が長逗留になりそうか。
下の宿へ荷を受けてもらう場合、どの時間帯がいいか。
宿が人気になればなるほど、見えないところの準備が要る。
アレクシスはその全部を見ていた。
だから午後、再び帳場で予約整理に戻った時、彼はきっぱり言った。
「詰め込みはしない」
「改めて言いますね」
と、ベルノルト。
「言う」
「儲けは減りますよ」
「宿は残る」
「そこまで言われると、返しづらいなあ」
「無理に取って、湯が荒れる。飯が雑になる。寝床の手入れが落ちる。そうなったら終わりだ」
「終わり、とまで言うか」
と、リューシェ。
「言う」
「主様、おぬし、そういうところだけ本当に一切ぶれぬな」
「宿だからな」
「最近、それで全部締まりますね」
と、ベルノルト。
ユノは、帳場に並んだ札を見ていた。
来たいと言ってくれる客がいる。
それはすごいことだ。
でも、全部を受けるわけではない。
来てほしいのに断ることもある。
最初は少し不思議だった。
けれど、今は少し分かる。
無理に詰め込んだら、来てくれた人が休めなくなる。
湯に入りに来たのに、広間が騒がしすぎたり、飯が慌ただしかったり、帳場が混乱していたりしたら、きっと“また来たい”にならない。
それなら、最初からきちんと迎えられる数にする。
「主様」
と、ユノ。
「何だ」
「その……」
「言え」
「断るの、ちょっと勇気いりますね」
「いる」
と、アレクシス。
「でも、必要だ」
「はい」
「おぬし、今その顔をするということは、少し分かってきたな」
「……たぶん」
「上出来だ」
「今のも重いやつじゃ」
と、リューシェ。
「主様、坊やがまた赤くなっておるぞ」
「してないです!」
と、ユノ。
「しておる」
と、ベルノルト。
「かなり」
夕方になる頃には、予約札の山はだいぶ整理されていた。
受ける日。
断る日。
下の宿を紹介する客。
日帰りに回す客。
少し時期をずらしてもらう貴族。
長逗留を優先する療養客。
帳場の板には、もう次の数日の宿の顔が見えている。
リューシェがそれを見て、ふっと笑った。
「のう主様」
「何だ」
「これ、繁盛しておるの」
「ああ」
「静かな余生とは何だったのか」
「最初から怪しかった」
「認めるか」
「認める」
「素直でよろしい」
「でも」
と、ユノが札を見ながら言う。
「これ、なんだか嬉しいですね」
「何がだ」
と、アレクシス。
「来たいって言ってくれる人が、こんなにいるの」
「そうだな」
「全部は入れられないですけど」
「全部は入れない」
「でも、それでも“また来たい”って思ってもらえてるってことですよね」
「……そうだ」
「それは、いいことです」
「いいことじゃ」
と、リューシェ。
「坊や、今のはかなり宿の者の顔じゃぞ」
「そうでしょうか」
「そうじゃ。客数を“儲け”ではなく“来たいと思ってくれる数”として見ておる」
「主様寄りですね」
と、ベルノルト。
「嫌ではない」
と、アレクシス。
「言い切りましたね」
「嫌ではない」
「出た、重いやつ」
「そんなにですか」
と、ユノ。
「かなりです」
と、ベルノルト。
広間の方では、今日も客の笑い声がしていた。
湯治の老人が白湯の話をし、冒険者が追加のパンを頼み、厨房では煮込みの香りが立ち、厩舎では馬の鼻息がする。外では山の風が冷たくなり始め、湯殿から立つ白い気配が夕方の空へ溶けていく。
朝霧亭は、今日もちゃんと宿だ。
そしてその宿は、無理に膨らまず、質を守ったまま、少しずつ評判を広げ始めていた。




