第34話 湯に入らない客
湯に入らない客は、宿にとって少しだけ不自然だ。
飯を食いに来るだけの者はいる。
商談だけして帰る者もいる。
だが朝霧亭のような山の湯宿までわざわざ上がってきて、湯にも入らず、飯も頼まず、ただ立って様子だけ見て帰るとなると、話は違ってくる。
しかもそれが、一度ではない。
秋の夜長の広間の外に見えた人影は、その夜だけで終わらなかった。
翌朝も。
昼前にも。
別の日の夕暮れにも。
同じような影が、宿札の少し先や、坂の途中や、馬車寄せから見えない木立の影に立っている。
近づけば去る。
去ったと思えば、また別の時間にいる。
朝霧亭の空気に慣れ始めた者たちほど、その“妙さ”に気づいた。
「主様」
と、ユノが朝の広間で小さく言った。
「何だ」
と、アレクシス。
「また、です」
「どこだ」
「坂の途中。木のところ」
アレクシスは玄関先へ出て、目を細めた。
確かにいる。
旅装の男。
年の頃は三十前後か。
外套は目立たない色。
剣は見せる位置にない。
だが立ち方が、旅人のそれではない。
宿へ入りたければもっと近くまで来る。
単なる見物なら、あそこまで気配を消そうとはしない。
“見ていることを、あまり見せたくない者”の立ち方だ。
「同じ顔ですか?」
と、ベルノルト。
「同じだ」
と、アレクシス。
「主様、それを見逃さないのも怖いですね」
「見る」
「出た」
と、リューシェが椅子に座ったまま笑う。
「だが、わしもそう思う。昨日の夕方におったのと同じじゃ」
「なんで分かるんです?」
と、ユノ。
「年寄りの勘じゃ」
「便利なやつですね」
と、ベルノルト。
「おぬし、それ最近気に入っておるな」
と、リューシェ。
「少しだけ」
アレクシスはしばらく男を見ていたが、すぐには動かなかった。
「追い払わないんですか?」
と、ユノ。
「まだだ」
「なぜ」
「宿の中へは入っていない」
「でも嫌な感じします」
「するな」
と、アレクシス。
「だが、嫌な感じだけで追い払うと、今度は別のものが見えなくなる」
「主様」
と、ベルノルト。
「今の、ちょっと怖いです」
「そうか?」
「そうです」
「かなりじゃ」
と、リューシェ。
「おぬし、そういう時は昔の顔になる」
その日の朝霧亭は、いつも通り動いた。
白湯目当ての地元客が二人。
赤湯へ短く入りに来た老騎士。
湯上がり飯を食べに来た若い商人。
奥の席にはゼフ。
そして帳場の前には、橋板の確認に来た顔役の息子までいる。
宿の中はいつも通りだ。
だが外に一つ余計な視線があるだけで、不思議と空気の縁が少しだけ緊張する。
老騎士は、汁を飲みながら外を見て鼻を鳴らした。
「まだおるな」
「ああ」
と、アレクシス。
「知り合いか」
「違う」
「そうか」
「気になるか」
「少しな」
老騎士は短く言った。
「宿を使う気のない立ち方だ」
「老騎士殿も分かるか」
と、リューシェ。
「分かる」
「嫌な目ってやつ?」
と、ユノ。
「そうだ」
「主様」
と、ベルノルト。
「だいぶ全員の認識が一致してきましたね」
「一致しておるのはよい」
と、リューシェ。
「問題は、あやつが何を見に来ておるかじゃ」
そこへ、窓際の席で白湯上がりの令嬢が、小さく身を乗り出した。
「外の方ですの?」
「ええ」
と、ユノ。
「ここ何日か……」
「まあ」
令嬢は少し眉を寄せた。
「怖いですわね」
「怖い、とまではまだ言わん」
と、アレクシス。
「だが、気分は悪い」
「主様、その“気分は悪い”はかなり強いですね」
と、ベルノルト。
「そうか?」
「そうです」
昼前、件の男は一度だけ玄関へ近づいた。
だが敷居は跨がない。
宿札の下で足を止め、広間の中を一度見る。
そして何も言わず、また坂の方へ下がる。
その“半端さ”が、余計に嫌だった。
「おい」
と、アレクシスが低く呼んだ。
男がぴたりと止まる。
「何だ」
と、外から返ってきた声は、想像より落ち着いていた。
「宿へ何をしに来た」
「まだ決めていない」
「湯に入る気は」
「今はない」
「飯は」
「要らん」
「では何を見ている」
「宿だ」
「主様」
と、リューシェが横で呟く。
「嫌な答え方じゃのう」
「そうだな」
アレクシスは男を見据えた。
「宿の何をだ」
「流れを」
「……ほう」
その一言で、広間の空気がまた少し細くなる。
ユノはそのやり取りを聞きながら、背中にぞわりとしたものを覚えた。
“湯”でも“飯”でも“部屋”でもなく、
“流れ”を見ると言った。
それはつまり、この男が見ているのは建物ではなく、宿の運びそのものだということだ。
「入らないなら帰れ」
と、アレクシス。
「今はそうする」
男はそれだけ言って、今度は本当に去っていった。
だが、去り方が悪かった。
逃げるようではない。
用が済んだから引いた、という足取りだった。
「主様」
と、ベルノルトが小声になる。
「今の、“ただの見物”ではないですね」
「違う」
と、アレクシス。
「はっきり言うんですね」
「言える」
「なんでです?」
と、ユノ。
「宿へ入りたがらない」
「それだけで?」
「それだけで十分だ」
「主様、それちょっと好きです」
と、リューシェ。
「何がだ」
「“それだけで十分だ”は、昔のおぬしの言い方じゃ」
「そうか?」
「そうじゃ。面倒の芯を見た時の顔じゃな」
それからしばらく、広間の空気はやや硬かった。
だが宿というのはありがたいもので、客がいれば、いつまでも一つの不穏へ気持ちを留めてはいられない。
白湯の女たちは「今日は少しやわらかいねえ」と話し、老騎士は赤湯の後の汁に塩をほんの少し足し、若い商人は湯上がり飯の量をもう半椀増やせないかと真顔で相談してくる。
そういう“いつもの宿”が戻ってくると、人は少し落ち着く。
だがゼフだけは、ずっと静かに外を見ていた。
広間の奥の席。
光の届きすぎない、あの場所から。
「ゼフさん」
と、ユノが水差しを置きながら小声で言う。
「何だ」
「さっきの人……」
「ただの見物ではない」
と、ゼフは昨日と同じ言葉を繰り返した。
「やっぱり?」
「ああ」
「なんで分かるんです?」
「視線だ」
「視線?」
「宿を見る目ではない」
ゼフは水を一口飲んでから続けた。
「湯へ入る者は、湯殿を見る。泊まる者は部屋や帳場の動きを見る。飯が目当てなら、広間の匂いに反応する」
「ええ」
「だがあれは、人の出入りの間と、誰がどこへ立つかを見ていた」
「……っ」
ユノは喉の奥が少し冷えるのを感じた。
「主様」
と、ユノはすぐにアレクシスの方を見た。
「何だ」
「ゼフさんも、同じこと言ってます」
「聞こえている」
と、アレクシス。
「主様、今のはかなり嫌な一致ですね」
と、ベルノルト。
「そうだな」
「嫌ではない、では済まんか」
と、リューシェ。
「済まん」
と、アレクシス。
その日の夕方、男はまた現れた。
今度は湯に入りに来る客が何人か重なる時間だった。
日帰り客が帰り、泊まり客が一息つき、広間では火が少し強くなる。
男は坂の途中ではなく、もう少し近い位置へいた。
それでも、まだ敷居は跨がない。
アレクシスは今度、躊躇わなかった。
「ユノ」
「は、はい」
「帳場から離れるな」
「はい」
「ベルノルト」
「います」
「客の目を切るな」
「分かりました」
「主様」
と、リューシェが立ち上がる。
「わしは?」
「中を見ろ」
「ふむ。では、坊やと帳場を預かる」
「頼む」
「おぬしがそう言うなら、な」
アレクシスは玄関を出た。
夕方の冷えがもう降り始めている。
湯気は白く、空気は薄く青い。
男は逃げなかった。
むしろ、アレクシスが出てくるのを待っていたようにすら見えた。
「何者だ」
と、アレクシス。
「ただの使いだ」
「誰の」
「まだ言えん」
「なら宿を見るな」
「難しい」
「難しい?」
「そういう役目だ」
「……そうか」
男は、そこでようやく少しだけ本音を混ぜた。
「近いうちに、ここへ来る方がいる」
「名を伏せた客か」
「察しがいいな」
「書きぶりで分かる」
「なら話は早い」
「早くない」
と、アレクシス。
「何を見ていた」
「動線。湯殿までの距離。帳場から広間の見通し。供の立ち位置。離れと本館の気配の距離」
「最初からそう言え」
「言えば、最初から中へ入れてくれたか?」
「内容次第だ」
「そうか」
男は少しだけ口元を動かした。
「なら、これで良かった」
アレクシスはその顔を見て、わずかに眉を寄せた。
「おまえ、主のために先に泥をかぶる役か」
「そういうこともある」
「面倒だな」
「よく言われる」
「主様」
と、リューシェが後ろから出てくる気配もなく声だけ飛ばした。
「今のは、ちょっとおぬしに似ておるぞ」
「嫌なことを言うな」
「だが似ておる」
男は、アレクシスへ一枚の小さな封書を差し出した。
「正式な返答は明日以降だ。だが、先に伝えておく」
「何を」
「こちらは、そちらの“宿としての線”を飲むつもりでいる」
「……ほう」
「離れは静けさのために使う。供は絞る。湯も、そちらの指示に従う」
「それで?」
「その代わり、一つだけ」
「何だ」
「来る方は、できれば他の客に知られたくない」
「難しいな」
「だろうな」
「だが、不可能ではない」
アレクシスは封書を受け取った。
「宿の流れを壊さない範囲ならやる」
「助かる」
「まだ泊まるとも決めていない」
「決めるさ」
男はそこで、ようやく少しだけ宿の方を見た。
「ここは、そういう宿だろう」
「主様」
と、広間の中からベルノルトが小さく言う。
「今の、ちょっと格好いいですね」
「聞こえているぞ」
と、アレクシス。
「すみません。でも本音です」
男はそれだけ告げると、今度は本当に下っていった。
去り方が、前までとは違った。
見るだけの影ではなく、用件を置いて帰る者の去り方だった。
広間へ戻ると、ユノがすぐに訊いた。
「主様」
「何だ」
「何だったんですか」
「先触れだ」
「やっぱり」
と、ベルノルト。
「でしょうね」
「名を伏せた客の?」
「そうだ」
ユノは少しだけ息を詰めた。
「じゃあ……」
「来るだろうな」
と、アレクシス。
「主様、その顔は?」
と、リューシェ。
「何だ」
「面倒だと思うておる顔と、少し楽しそうな顔が混ざっておる」
「そんなことはない」
「あります」
と、ベルノルト。
「かなり」
「嫌ではない」
と、アレクシス。
「そこへ戻るんですね」
と、ユノが笑う。
広間の火は、まだあたたかかった。
湯に入らない客は、結局ただの不穏では終わらなかった。
だが、だからこそ次に来るものの輪郭が少し見えた。
朝霧亭の騒がしさは、また一段、別の色を帯び始めていた。




