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異世界湯けむり勇者 ~魔王討伐後に王国から領地も爵位ももらったけど全部妻子に継がせて前世で大好きだった源泉かけ流しの宿を異世界で本気再現したら七つの泉質を目当てに貴族も冒険者も押しかけてきます~  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 七泉の湯宿《朝霧亭》、開業までの十二日譚

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第35話 看板係、初めて指名される

 朝霧亭の朝は、だいたい誰かの声で始まる。


 湯治客が「今日は白い湯からにしようかねえ」と相談する声だったり、

 厨房でグスタフが「誰だ塩壺の蓋をずらしたのは」と唸る声だったり、

 帳場でベルノルトが予約札を前に無言で頭を抱える気配だったり。


 だがその日の朝、最初に広間へ響いたのは、少しだけ珍しい種類の声だった。


「すみません」

 と、玄関先から男の声。

「泊まりたいんですが」

「空きは?」

 と、もう一人。

「一室なら」

 と、ベルノルトが帳場から返しかけた、その時だった。

「あと」

 と、最初の男が言う。

「できれば、あの子に案内してもらえると助かるんですが」


 広間の空気が、ほんの半拍止まった。


 ユノは、ちょうど茶器を盆へ並べていたところだった。

 手が止まる。

 視線だけが、ゆっくり玄関へ向く。


「……え?」

 と、ユノ。

「来たのう」

 と、リューシェが椅子の背にもたれながら口元を上げる。

「主様」

「何だ」

 と、アレクシス。

「坊や、ついに“指名”されおったぞ」

「そうだな」

「主様、その返しが早すぎるんですよ」

 と、ベルノルト。

「もう少し驚きましょう?」

「驚く必要があるか」

「ありますよ!」

「あるんですか?」

 と、ユノがまだ固まったまま訊く。

「ある」

 と、リューシェ。

「かなりある」

「嫌ではない」

 と、アレクシス。

「出た」

 と、ベルノルト。

「でも今のはかなり重いやつですね」

「そうなのか?」

「そうです」


 玄関先にいたのは、二人組の旅商人だった。


 年の頃は二十代後半。

 派手さはないが、荷の扱いに慣れた体つきで、腰の袋も靴の減り方も“ちゃんと働いている者”のものだ。

 そのうち一人は、ユノを見ると少しだけ気まずそうに頭をかいた。


「あ、えっと」

「何だ」

 と、アレクシス。

「いや、別に変な意味じゃなくて」

「主様」

 と、リューシェ。

「今の前置きはだいたい怪しいぞ」

「違うって!」

 と、旅商人は慌てる。

「この前ここ来た時、案内してくれたのがその子で」

「……あ」

 ユノは思い出した。

 確か、橋板の見積もりの日に来た、小荷を持った二人組だ。片方が白湯へ、もう片方が清湯へ入って、広間で軽い煮込みを食べて帰った。


「道の状態も教えてくれたし、部屋のことも分かりやすくて」

 と、旅商人。

「湯上がりの水差しの位置までちょうどよかったんだ」

「ほう」

 と、リューシェ。

「主様、今のは“見た目”ではないぞ」

「分かっている」

 と、アレクシス。

「接客だ」

「はいはい、そこへ戻りますよね」

 と、ベルノルト。

「でも、これは本当にそうですね」

「だから」

 と、旅商人は少し言いづらそうに続ける。

「また来るなら、その子に案内してもらえると安心かなって」

「……っ」


 ユノの喉が、変に詰まった。


 “可愛い”と言われるのは、正直まだ困る。

 “看板娘”と呼ばれるのは、もっと困る。

 でも今の言葉は、そこではなかった。


 案内が丁寧だった。

 分かりやすかった。

 安心した。


 それは全部、自分が仕事としてやってきたことだ。


「坊や」

 と、リューシェ。

「耳まで赤いぞ」

「う、うるさいです……」

 と、ユノ。

「主様」

「何だ」

「何か言うてやれ」

 アレクシスはユノを見た。

 いつものように、短く、しかしまっすぐに。

「行け」

「……はい」

「上出来だ」

「出た!」

 と、ベルノルト。

「今の“上出来”はかなり重いです!」

「そうなのか?」

「そうです」

 と、ユノがかろうじて返す。

「すごくです……」


 ユノは鍵札を取って、二人を客室へ案内した。


 歩きながら、まだ足元が少しふわふわする。

 でも、不思議と嫌なふわふわではなかった。


「その、ありがとうございます」

 と、ユノ。

「え?」

 と、旅商人。

「いや、また来てくれて」

「ああ」

 男は少し笑う。

「前に来た時、ここの湯も飯もよかったんだけど」

「うん」

「それとは別に、“ここ、ちゃんとしてるな”って思ったんだ」

「ちゃんとしてる?」

「荷の置き場とか、水差しの位置とか、部屋までの説明とか。慣れてない宿だと、そういうのが妙に雑なとこあるだろ」

「……あ」

「でも、ここは違った。で、その時一番覚えてたのがあんたなんだよ」

「…………」

 ユノは言葉に詰まる。

「坊や」

 と、後ろからついてきたリューシェがひそひそ言う。

「今のはかなり効いておるな」

「効いてます……」

 と、ユノは小さく答えた。


 客室へ着くと、旅商人たちは前よりずっと自然に荷を置いた。


 窓の開け方も、水差しの置き場も、湯殿までの回廊も、もう一度軽く案内されるだけで十分らしい。


「やっぱり分かりやすいな」

 と、旅商人。

「え」

「前も思ったけど」

「……ありがとうございます」

「主様」

 と、リューシェ。

「坊や、今のはだいぶ宿の顔じゃな」

「そうなんですか」

「そうじゃ。可愛いとかそういうのを通り越して、“この宿の人間”として覚えられておる」

「……っ」

 ユノはまた、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 広間へ戻ると、ベルノルトがすでに面白そうな顔をして待っていた。


「どうでした?」

「どうって……」

 ユノが言葉に詰まる。

「主様」

 と、ベルノルト。

「坊や、完全に処理が追いついてません」

「そうだな」

 と、アレクシス。

「よいことだ」

「便利なやつでまとめないでください!」


 リューシェは、机の端を指で叩きながら楽しそうに言った。


「のう坊や」

「はい」

「これは“初めての指名”じゃ」

「……はい」

「しかも、見た目ではなく“仕事で選ばれた”指名じゃ」

「はい……」

「よいではないか」

「よ、よいですけど……」

「けど?」

「恥ずかしいです」

「そういう顔をしておる」

 と、アレクシス。

「主様、そこをわざわざ言う必要あります?」

 と、ベルノルト。

「事実だ」

「便利なやつですね」

「でも」

 ユノは少しだけ笑った。

「嬉しいです」

「そうか」

 アレクシスは短く頷く。

「なら良い」

「主様」

 と、リューシェ。

「今のはだいぶ普通の褒め方じゃぞ」

「そうか?」

「成長したのう」

「何だそれは」

「最近の主様、坊や相手だと少しだけ言葉が増える」

「増えてます」

 と、ベルノルト。

「かなり」

「嫌ではない」

「また出た!」


 昼前になると、その指名の話はなぜか広間へ広がっていた。


 白湯帰りの地元の女たちが、窓際でにやにやしている。


「あらあら」

 と、ひとり。

「坊や、ついにご指名かい」

「やめてください……」

 と、ユノ。

「いいじゃないか」

 と、もう一人。

「ちゃんと仕事見てもらえてたんだろ?」

「……そうみたいです」

「それなら胸張っときな」

「でも、恥ずかしいです」

「そういう顔も込みで人気なんだろうねえ」

「戻らないでください、その話に!」

「坊や」

 と、リューシェ。

「今のはかなりよい返しじゃ」

「褒めてるんですか、それ」

「褒めておる」

「嫌ではない」

 と、アレクシス。

「主様、それもう便利すぎてずるいですよ」

 と、ベルノルト。


 さらに面白がったのは、いつもの冒険者たちだった。


 飯目当てで再訪していた斧持ちが、椀を持ったまま大声を出す。


「おお! ついにか!」

「何がですか!」

 と、ユノ。

「指名!」

「そんなに大声で言わないでください!」

「でもすげえじゃん」

 と、杖使い。

「“可愛いから”じゃなくて“安心するから”って理由なんだろ?」

「それ、かなりいいやつじゃない?」

 と、短弓の女。

「う、うるさいです……」

「主様」

 と、リューシェ。

「広間が坊やの成長回で盛り上がっておる」

「悪くない」

 と、アレクシス。

「出ました」

 と、ベルノルト。

「今日はそこへ戻る回ですね」


 その日の午後、もう一組、再訪の客が来た。


 前に白湯へ入っていった若い娘二人組だ。


「すみません」

「今日は日帰りで」

「あと……」

 二人のうち一人が、少しだけ照れた顔で言った。

「できれば、前に案内してくれた子がいると嬉しいです」


 ユノは、今度はその場で固まらなかった。

 もちろん赤くはなった。

 でもちゃんと返せた。


「……はい」

 と、ユノ。

「今日は僕がご案内します」

「坊や」

 と、リューシェが感心したように言う。

「よく言うた」

「主様」

 と、ベルノルト。

「今の、かなり自然でした」

「そうだな」

 と、アレクシス。

「良い」

「出た重いやつ」

「でも、今のは本当に重いですね」

 と、ベルノルト。

「そうなのか?」

「そうです」

 と、ユノが今度は少し笑って返した。

「かなりです」


 そのやり取りのあと、ユノはふと思った。


 最初にこの宿へ来た時、自分はただ“ここにいていいか”を気にしていた。

 失敗しないか。

 捨てられないか。

 怒られないか。


 でも今は違う。


 誰かが“あの子に案内してもらいたい”と言う。

 それは、この宿の仕事の一部として、自分が選ばれているということだ。


 守られているだけではない。

 ちゃんと立っている。

 少しずつ、でも確かに。


 夕方、湯上がりの広間が少し静かになった頃、ユノは帳場の横で小さく言った。


「主様」

「何だ」

「僕……」

「うむ」

「少しだけ、自信がついたかもしれません」

「……そうか」

 アレクシスはユノを見た。

 それからいつもより一拍長く置いて、言った。

「それは良いことだ」

「……はい」

「主様」

 と、リューシェがすぐに口元を上げる。

「今のはだいぶ良かったぞ」

「そうか?」

「そうです」

 と、ベルノルト。

「今日はかなり宿主らしい」

「宿主だ」

「便利なやつじゃのう」

「でも」

 と、ユノが少しだけ笑う。

「そういう主様、嫌ではないです」

「……そうか」

「主様、今の“そうか”はかなり刺さってますね」

 と、ベルノルト。

「かなりです」

 と、リューシェ。

「かなりですね」

 と、ユノまで言うと、アレクシスは少しだけ視線を逸らした。


 広間の火は今日もあたたかかった。


 湯があり、飯があり、客が戻ってきて、そして誰かが仕事を見て選んでくれる。

 朝霧亭は、本日も騒がしい。

 だがその騒がしさの中で、ユノは確かに“宿の人間”になりつつあった。

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