第33話 秋の夜長、常連たちが同じ広間にいる
秋の夜は、宿の正体がよく見える。
昼の朝霧亭は忙しい。
湯を勧め、飯を出し、部屋を整え、予約札を動かし、湯上がりの客を広間へ流し込む。
そこでは宿は、半分仕事場だ。
だが夜は違う。
湯気が少し落ち着き、火の音が広間に残り、客がそれぞれ自分の椅子や卓へ身体を預け始めると、宿は建物ではなく“場”になる。
そしてこの夜の朝霧亭には、その“場”がよく分かる顔ぶれが揃っていた。
赤湯の老騎士。
白湯を気に入って再訪を重ねる王都の令嬢。
静かな席を覚えてしまった魔族の客、ゼフ。
飯目当てにまた戻ってきた冒険者たち。
地元の湯治客たち。
そこへ、日帰りの商人と、橋板の話で遅くなったオルドまで混ざっている。
広間の火はよく燃えていた。
「主様」
と、帳場の横で宿帳を閉じたベルノルトが言う。
「何だ」
と、アレクシス。
「今夜、すごいですね」
「何がだ」
「顔ぶれです」
「そうか?」
「そうです」
と、リューシェが椅子の背にもたれたまま笑う。
「前なら絶対に同じ卓の空気を吸わぬ連中が、今は同じ湯宿の夜を過ごしておる」
「……そうだな」
と、アレクシス。
「坊やはどう見る」
「え」
水差しを持っていたユノが顔を上げる。
「えっと……」
彼は広間を見渡した。
「なんか、変です」
「変?」
と、リューシェ。
「でも、嫌な意味じゃなくて」
ユノは少し考えながら言葉を探す。
「身分とか、強そうとか、怖そうとか、そういうのがある人たちなのに、ここだと先に“いつもの席にいる人たち”に見えます」
「ほう」
と、リューシェ。
「坊や、だいぶ良いことを言うのう」
「そうか?」
と、アレクシス。
「そうです」
と、ベルノルト。
「かなり」
「嫌ではない」
「出た」
と、ベルノルト。
「でも今のは本当に重いやつですね」
「そうなのか?」
「そうです」
と、ユノも少し笑った。
広間の空気は、確かに妙だった。
老騎士は、最初に来た頃のような“任務のついでに立ち寄った男”の顔ではない。
もう完全に、赤湯のあとにこの席で汁を飲む者の顔だ。
令嬢も同じだった。
最初は白湯と宿の珍しさに目を輝かせていたが、今はちゃんと“また来た宿”の振る舞いを知っている。湯上がりに座る窓際も、水差しの置かれる位置も、広間で声をかける相手の順番まで分かり始めている。
ゼフは相変わらず静かだ。
だが、静かであることを“浮く”方向へ使わなくなった。
今はもう、この宿では“静かな客の一人”として自然に置かれている。
そして冒険者たちは、当然のように騒がしい。
だが前より少しだけ、広間の空気を壊さぬ騒がしさになっていた。
「主様」
と、リューシェが小声で言う。
「何だ」
「おぬし、今日の席配置、また少しいじったな」
「いじった」
「見れば分かるぞ」
「そうだな」
「出た、便利なやつの返し」
と、ベルノルト。
「どこを変えたんです?」
「老騎士殿を柱側へ半歩」
と、アレクシス。
「嬢ちゃんは窓際だが、広間全体が見える位置。ゼフは奥だが孤立しすぎない場所。冒険者は火の側へ寄せた」
「なんでです?」
と、ユノ。
「老騎士殿は背後が落ち着く」
「うむ」
と、当人が汁を飲みながら短く応じる。
「嬢ちゃんは話が広がる位置の方が機嫌がよい」
「まあ」
と、令嬢が笑う。
「当たっておりますわ」
「ゼフは?」
と、ユノ。
「人の気配はいるが、視線が集まりすぎると疲れる」
「……そうか」
と、ゼフ。
「見ていたか」
「見る」
と、アレクシス。
「出ましたわ」
と、令嬢。
「この宿主、本当にそこだけは迷いがありませんのよ」
「そこだけ、ではない」
「主様、そこはやめておけ」
と、リューシェ。
「余計に面倒になる」
その時、冒険者の斧持ちが大声で言った。
「なあ老騎士殿! 赤湯ってやっぱ強いよな!」
老騎士はちらりとそちらを見る。
「強い」
「だよな! 俺、最初に長く入って怒られた」
「怒られたのではない」
と、アレクシス。
「止めた」
「主様、それ同じです」
と、ユノ。
「同じではない」
「似たようなものじゃ」
と、リューシェが笑う。
斧持ちは気にせず続ける。
「でも、最近は分かるんだよ。赤湯のあと、飯がすげえうまい」
「おまえは全部そこへ戻るのう」
と、杖使い。
「いや大事だろ!?」
「大事ですわ」
と、令嬢が意外にも即答した。
「え?」
と、冒険者たちが揃ってそちらを見る。
「湯のあとに出る汁物と煮込み、あれはかなり大事ですもの」
「ほう」
と、短弓の女。
「令嬢なのに分かるじゃん」
「令嬢だからって、湯上がりにお腹が減らないわけではありませんわ」
「それはそうだ」
と、老騎士。
「そしてこの宿は、その順番をちゃんと分かっておる」
「主様」
と、リューシェ。
「今のはかなり刺さるぞ」
「そうか?」
と、アレクシス。
「そうです」
と、ベルノルト。
「かなりです」
「嫌ではない」
「出た」
と、ユノが笑ってしまう。
そこへゼフが、静かに一言だけ落とした。
「白湯のあとに、軽い塩気の汁は合う」
広間が一瞬、静まる。
ゼフが自分から会話に混ざることは、まだ珍しい。
しかも内容がかなり具体的だ。
冒険者たちが目を丸くする。
「おお」
と、斧持ち。
「ゼフさん、今日しゃべるな」
「……時々はな」
「それ、かなり同意です」
と、令嬢。
「塩が少しだけ立つ汁が良いんですのよね」
「主様」
と、リューシェが腹を抱えそうな顔をする。
「広間が完全に宿の話題で一つになっておるぞ」
「悪くない」
と、アレクシス。
「今日は素直ですね」
と、ベルノルト。
「かなり」
「嫌ではない」
「もう何回目です?」
ユノは水差しを持ったまま、その会話の輪を見ていた。
貴族の娘と冒険者が、汁の塩気の話をしている。
老騎士が頷き、ゼフが短く同意する。
地元の女たちが「分かるねえ」と笑い、オルドが「だからあの宿は飯も強いんだよ」と口を挟む。
普通なら、混ざらない。
混ざったとしても、もっとぎこちない。
なのに朝霧亭の広間では、それが妙に自然だった。
「……すごい」
と、ユノが小さく言う。
「何がだ」
と、アレクシス。
「汁の話で、こんなにみんな喋るんだなって」
「そこか?」
と、ベルノルト。
「そこです」
と、ユノ。
「でも、なんか、それがいいです」
「坊や」
と、リューシェ。
「今のはかなり良い」
「そうか?」
と、アレクシス。
「そうです」
と、ユノ。
「だって、誰が偉いとか、誰が強いとかじゃなくて、“この宿の話”になってるから」
アレクシスは少し黙った。
それから短く頷く。
「……そうだな」
「今の“そうだな”重いですね」
と、ベルノルト。
「かなりです」
と、ユノ。
夜が少し深くなると、会話の流れも変わっていった。
令嬢は老騎士へ訊く。
「赤い湯は、やっぱり最初は短く、ですの?」
「ああ」
と、老騎士。
「慣れぬうちはな」
「白い湯のあとに入るのは?」
「悪くはない」
と、ゼフ。
「だが逆の方が身体は静まる」
「ゼフさん、それ経験者の言い方ですね」
と、ユノ。
「少しな」
「少し、じゃない気がしますけど」
と、リューシェ。
今度は短弓の女冒険者が令嬢へ訊く。
「王都の宿って、こんな感じじゃないの?」
「全然違いますわ」
と、令嬢。
「もっと整っていて、もっと気を張りますの」
「へえ」
「でも、ここは変です」
「変?」
と、短弓の女。
「ええ。ちゃんとしてるのに、ちゃんと息が抜けるんですの」
「……ほう」
と、オルドが鼻を鳴らした。
「いい言い方するじゃねえか」
「主様」
と、リューシェ。
「今のはだいぶ嬉しいだろう」
「悪くない」
「出ましたわ」
と、令嬢が笑う。
「ほらやっぱり」
「主様、もう少しこう、“ありがとう”とか」
と、ユノ。
「必要か?」
「たまには」
「努力はする」
「出た、便利な逃げ」
と、ベルノルト。
火が少し落ちた頃、広間の外に気配があった。
ユノが最初に気づいた。
「……主様」
「何だ」
「誰かいます」
その声で、広間の空気が細くなる。
アレクシスが視線を向ける。
玄関の外、宿札の少し向こう。
湯気の薄い白に紛れて、人影が一つ立っていた。
入ってはこない。
だが、帰りもしない。
宿を見上げるように、広間の明かりを眺めている。
ゼフの目が、わずかに細くなった。
「……あれは、ただの見物ではない」
と、彼は低く言った。
リューシェが楽しそうに笑う気配を消す。
「ほう」
「主様」
と、ベルノルトが小さく言う。
「来ましたね」
「ああ」
と、アレクシス。
「来たな」
広間の空気は、ついさっきまで汁と湯の話でひとつになっていた。
その温度のまま、今度は少しだけ別の夜へ足を踏み入れようとしていた。




