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異世界湯けむり勇者 ~魔王討伐後に王国から領地も爵位ももらったけど全部妻子に継がせて前世で大好きだった源泉かけ流しの宿を異世界で本気再現したら七つの泉質を目当てに貴族も冒険者も押しかけてきます~  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 七泉の湯宿《朝霧亭》、開業までの十二日譚

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第33話 秋の夜長、常連たちが同じ広間にいる

 秋の夜は、宿の正体がよく見える。


 昼の朝霧亭は忙しい。

 湯を勧め、飯を出し、部屋を整え、予約札を動かし、湯上がりの客を広間へ流し込む。

 そこでは宿は、半分仕事場だ。


 だが夜は違う。


 湯気が少し落ち着き、火の音が広間に残り、客がそれぞれ自分の椅子や卓へ身体を預け始めると、宿は建物ではなく“場”になる。


 そしてこの夜の朝霧亭には、その“場”がよく分かる顔ぶれが揃っていた。


 赤湯の老騎士。

 白湯を気に入って再訪を重ねる王都の令嬢。

 静かな席を覚えてしまった魔族の客、ゼフ。

 飯目当てにまた戻ってきた冒険者たち。

 地元の湯治客たち。

 そこへ、日帰りの商人と、橋板の話で遅くなったオルドまで混ざっている。


 広間の火はよく燃えていた。


「主様」

 と、帳場の横で宿帳を閉じたベルノルトが言う。

「何だ」

 と、アレクシス。

「今夜、すごいですね」

「何がだ」

「顔ぶれです」

「そうか?」

「そうです」

 と、リューシェが椅子の背にもたれたまま笑う。

「前なら絶対に同じ卓の空気を吸わぬ連中が、今は同じ湯宿の夜を過ごしておる」

「……そうだな」

 と、アレクシス。

「坊やはどう見る」

「え」

 水差しを持っていたユノが顔を上げる。

「えっと……」

 彼は広間を見渡した。

「なんか、変です」

「変?」

 と、リューシェ。

「でも、嫌な意味じゃなくて」

 ユノは少し考えながら言葉を探す。

「身分とか、強そうとか、怖そうとか、そういうのがある人たちなのに、ここだと先に“いつもの席にいる人たち”に見えます」

「ほう」

 と、リューシェ。

「坊や、だいぶ良いことを言うのう」

「そうか?」

 と、アレクシス。

「そうです」

 と、ベルノルト。

「かなり」

「嫌ではない」

「出た」

 と、ベルノルト。

「でも今のは本当に重いやつですね」

「そうなのか?」

「そうです」

 と、ユノも少し笑った。


 広間の空気は、確かに妙だった。


 老騎士は、最初に来た頃のような“任務のついでに立ち寄った男”の顔ではない。

 もう完全に、赤湯のあとにこの席で汁を飲む者の顔だ。


 令嬢も同じだった。

 最初は白湯と宿の珍しさに目を輝かせていたが、今はちゃんと“また来た宿”の振る舞いを知っている。湯上がりに座る窓際も、水差しの置かれる位置も、広間で声をかける相手の順番まで分かり始めている。


 ゼフは相変わらず静かだ。

 だが、静かであることを“浮く”方向へ使わなくなった。

 今はもう、この宿では“静かな客の一人”として自然に置かれている。


 そして冒険者たちは、当然のように騒がしい。

 だが前より少しだけ、広間の空気を壊さぬ騒がしさになっていた。


「主様」

 と、リューシェが小声で言う。

「何だ」

「おぬし、今日の席配置、また少しいじったな」

「いじった」

「見れば分かるぞ」

「そうだな」

「出た、便利なやつの返し」

 と、ベルノルト。

「どこを変えたんです?」

「老騎士殿を柱側へ半歩」

 と、アレクシス。

「嬢ちゃんは窓際だが、広間全体が見える位置。ゼフは奥だが孤立しすぎない場所。冒険者は火の側へ寄せた」

「なんでです?」

 と、ユノ。

「老騎士殿は背後が落ち着く」

「うむ」

 と、当人が汁を飲みながら短く応じる。

「嬢ちゃんは話が広がる位置の方が機嫌がよい」

「まあ」

 と、令嬢が笑う。

「当たっておりますわ」

「ゼフは?」

 と、ユノ。

「人の気配はいるが、視線が集まりすぎると疲れる」

「……そうか」

 と、ゼフ。

「見ていたか」

「見る」

 と、アレクシス。

「出ましたわ」

 と、令嬢。

「この宿主、本当にそこだけは迷いがありませんのよ」

「そこだけ、ではない」

「主様、そこはやめておけ」

 と、リューシェ。

「余計に面倒になる」


 その時、冒険者の斧持ちが大声で言った。


「なあ老騎士殿! 赤湯ってやっぱ強いよな!」

 老騎士はちらりとそちらを見る。

「強い」

「だよな! 俺、最初に長く入って怒られた」

「怒られたのではない」

 と、アレクシス。

「止めた」

「主様、それ同じです」

 と、ユノ。

「同じではない」

「似たようなものじゃ」

 と、リューシェが笑う。


 斧持ちは気にせず続ける。


「でも、最近は分かるんだよ。赤湯のあと、飯がすげえうまい」

「おまえは全部そこへ戻るのう」

 と、杖使い。

「いや大事だろ!?」

「大事ですわ」

 と、令嬢が意外にも即答した。

「え?」

 と、冒険者たちが揃ってそちらを見る。

「湯のあとに出る汁物と煮込み、あれはかなり大事ですもの」

「ほう」

 と、短弓の女。

「令嬢なのに分かるじゃん」

「令嬢だからって、湯上がりにお腹が減らないわけではありませんわ」

「それはそうだ」

 と、老騎士。

「そしてこの宿は、その順番をちゃんと分かっておる」

「主様」

 と、リューシェ。

「今のはかなり刺さるぞ」

「そうか?」

 と、アレクシス。

「そうです」

 と、ベルノルト。

「かなりです」

「嫌ではない」

「出た」

 と、ユノが笑ってしまう。


 そこへゼフが、静かに一言だけ落とした。


「白湯のあとに、軽い塩気の汁は合う」

 広間が一瞬、静まる。


 ゼフが自分から会話に混ざることは、まだ珍しい。

 しかも内容がかなり具体的だ。


 冒険者たちが目を丸くする。


「おお」

 と、斧持ち。

「ゼフさん、今日しゃべるな」

「……時々はな」

「それ、かなり同意です」

 と、令嬢。

「塩が少しだけ立つ汁が良いんですのよね」

「主様」

 と、リューシェが腹を抱えそうな顔をする。

「広間が完全に宿の話題で一つになっておるぞ」

「悪くない」

 と、アレクシス。

「今日は素直ですね」

 と、ベルノルト。

「かなり」

「嫌ではない」

「もう何回目です?」


 ユノは水差しを持ったまま、その会話の輪を見ていた。


 貴族の娘と冒険者が、汁の塩気の話をしている。

 老騎士が頷き、ゼフが短く同意する。

 地元の女たちが「分かるねえ」と笑い、オルドが「だからあの宿は飯も強いんだよ」と口を挟む。


 普通なら、混ざらない。

 混ざったとしても、もっとぎこちない。


 なのに朝霧亭の広間では、それが妙に自然だった。


「……すごい」

 と、ユノが小さく言う。

「何がだ」

 と、アレクシス。

「汁の話で、こんなにみんな喋るんだなって」

「そこか?」

 と、ベルノルト。

「そこです」

 と、ユノ。

「でも、なんか、それがいいです」

「坊や」

 と、リューシェ。

「今のはかなり良い」

「そうか?」

 と、アレクシス。

「そうです」

 と、ユノ。

「だって、誰が偉いとか、誰が強いとかじゃなくて、“この宿の話”になってるから」

 アレクシスは少し黙った。

 それから短く頷く。

「……そうだな」

「今の“そうだな”重いですね」

 と、ベルノルト。

「かなりです」

 と、ユノ。


 夜が少し深くなると、会話の流れも変わっていった。


 令嬢は老騎士へ訊く。


「赤い湯は、やっぱり最初は短く、ですの?」

「ああ」

 と、老騎士。

「慣れぬうちはな」

「白い湯のあとに入るのは?」

「悪くはない」

 と、ゼフ。

「だが逆の方が身体は静まる」

「ゼフさん、それ経験者の言い方ですね」

 と、ユノ。

「少しな」

「少し、じゃない気がしますけど」

 と、リューシェ。


 今度は短弓の女冒険者が令嬢へ訊く。


「王都の宿って、こんな感じじゃないの?」

「全然違いますわ」

 と、令嬢。

「もっと整っていて、もっと気を張りますの」

「へえ」

「でも、ここは変です」

「変?」

 と、短弓の女。

「ええ。ちゃんとしてるのに、ちゃんと息が抜けるんですの」

「……ほう」

 と、オルドが鼻を鳴らした。

「いい言い方するじゃねえか」

「主様」

 と、リューシェ。

「今のはだいぶ嬉しいだろう」

「悪くない」

「出ましたわ」

 と、令嬢が笑う。

「ほらやっぱり」

「主様、もう少しこう、“ありがとう”とか」

 と、ユノ。

「必要か?」

「たまには」

「努力はする」

「出た、便利な逃げ」

 と、ベルノルト。


 火が少し落ちた頃、広間の外に気配があった。


 ユノが最初に気づいた。


「……主様」

「何だ」

「誰かいます」

 その声で、広間の空気が細くなる。


 アレクシスが視線を向ける。

 玄関の外、宿札の少し向こう。

 湯気の薄い白に紛れて、人影が一つ立っていた。


 入ってはこない。

 だが、帰りもしない。

 宿を見上げるように、広間の明かりを眺めている。


 ゼフの目が、わずかに細くなった。


「……あれは、ただの見物ではない」

 と、彼は低く言った。


 リューシェが楽しそうに笑う気配を消す。


「ほう」

「主様」

 と、ベルノルトが小さく言う。

「来ましたね」

「ああ」

 と、アレクシス。

「来たな」


 広間の空気は、ついさっきまで汁と湯の話でひとつになっていた。

 その温度のまま、今度は少しだけ別の夜へ足を踏み入れようとしていた。

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