第32話 名を伏せた客は、だいたい面倒
名を伏せた客というものは、だいたい面倒だ。
アレクシスは、若い頃からその手の人種を何度も見てきた。
戦場で名を隠して前線を見に来る貴人。
政務の場で使者だけを先に寄越し、本題を伏せたままこちらの出方を見る者。
あるいは、身分を隠しているつもりで、隠しきれない気配だけを撒き散らす手合い。
そういう相手はたいてい、悪人とは限らない。
むしろ、面倒なだけで本人は理屈の通った事情を抱えている場合も多い。
だが宿にとって“事情が重い”ということは、そのまま“扱いが難しい”に繋がる。
だからこそ、朝霧亭の帳場に届いた一通の手紙を見た瞬間、アレクシスはまず最初に「面倒だな」と思った。
もっとも、それを口に出したのはリューシェの方が先だったが。
「主様」
と、リューシェが帳場の椅子に浅く腰掛けたまま言う。
「何だ」
と、アレクシス。
「来たぞ」
「何がだ」
「面倒そうなのが」
「……そうだな」
アレクシスは手紙を見たまま頷く。
その返事に、ベルノルトが机へ突っ伏した。
「やっぱり面倒なんですね」
「面倒じゃ」
と、リューシェ。
「しかも“ただの面倒”ではない。丁寧に整えられた面倒じゃな」
「何ですかそれ……」
と、ユノ。
「えっと、どんな手紙なんですか」
帳場の上に置かれた手紙は、飾り気の少ない上等な紙に、無駄なく整った文字で書かれていた。
差出人の名はない。
ただし書きぶりには、名を伏せても相手へ伝わる前提の落ち着きがある。
要点は明快だった。
名を明かせない高位の客が、近いうちに朝霧亭へ泊まりたい。
できれば新たに設ける離れを使いたい。
供回りは最小限。
湯の安全と動線の静けさを事前に確認したい。
そして最後に、いかにも“分かる者には分かる”一文が添えられている。
“王都側の事情をご賢察いただければ幸いです”
ベルノルトは、その最後の一文を指で叩いた。
「これですよ」
「何だ」
と、アレクシス。
「この、“言いたいことは言わないけど、察してね”の感じ」
「そういう立場なのだろう」
「面倒です」
「面倒じゃのう」
と、リューシェ。
「だが、あまりにそれっぽくて、逆に笑えてくる」
「笑いごとじゃありませんよ」
と、ベルノルト。
「どうします?」
「受ける」
と、アレクシス。
即答だった。
ユノがぱちぱちと目を瞬く。
「えっ」
「主様、速いのう」
と、リューシェ。
「もう少し嫌そうな顔をしてから決めてもよいのではないか」
「嫌ではある」
と、アレクシス。
「だが客として来るなら受ける」
「そこはぶれませんね」
と、ベルノルト。
「主様は、そういうとこだけ妙に筋が固い」
「宿だからな」
「出ました」
と、ベルノルト。
「便利なやつです」
「便利じゃのう」
と、リューシェ。
ユノはおそるおそる訊いた。
「名を明かさないのに、受けていいんですか」
「名を明かさぬ客は珍しくない」
と、アレクシス。
「問題はそこではない」
「じゃあ、どこですか」
「宿の流儀を守るかどうかだ」
「……あ」
ユノは少し考えて、頷いた。
「主様、それ、ちょっと分かる気がします」
「ほう」
と、リューシェ。
「言うてみよ」
「えっと……名乗らないこと自体よりも、宿を振り回すかどうかってことですよね」
「そうだ」
と、アレクシス。
「良い」
「出た、重いやつ」
と、ベルノルト。
「最近の主様、ユノを褒める時の圧がすごいんですよ」
「そうなのか?」
「そうです」
ユノも少し笑った。
「かなりです」
だが、話はそこで終わらない。
受けると決めたなら、条件を詰めねばならない。
それが宿だ。
アレクシスは手紙を机に置き、順に読み上げた。
「離れ希望」
「まあ、そこは分かる」
と、リューシェ。
「本館だと目立つからの」
「供回りは最小限」
「ありがたいですね」
と、ベルノルト。
「十人も二十人も来られたら、もうそれだけで宿の空気が変わるので」
「湯の安全確認」
と、アレクシス。
「安全?」
と、ユノ。
「何か危ないんですか」
「普通は危なくない」
と、アレクシス。
「だが、高位の客には“毒が入っていないか”“湯に何か混ぜられないか”まで気にする立場がある」
「……大変ですね」
と、ユノ。
「大変じゃ」
と、リューシェ。
「高いところにおる者ほど、安心して湯に浸かるのが難しい」
「それ、ちょっと可哀想です」
ユノの呟きに、アレクシスがちらりと目を向けた。
「そうか?」
「だって、せっかくお湯に入るのに、ずっと気を張ってたら疲れちゃうじゃないですか」
「主様」
と、リューシェ。
「今のはかなり宿の者の発想じゃぞ」
「そうなのか?」
と、ユノ。
「そうです」
と、ベルノルト。
「完全に“客がちゃんと休めるか”で見てます」
「嫌ではない」
と、アレクシス。
「また出た」
ベルノルトはペン先を整えながら、真面目な顔に戻った。
「で、実務としてはどう返します?」
「まず、離れが完成する時期を確定させる」
と、アレクシス。
「それから、宿の流儀を伝える」
「流儀?」
と、ユノ。
「湯の時間帯、供回りの人数、離れと本館の距離感、飯の出し方」
「なるほど」
と、ベルノルト。
「“何でも言う通りにします”じゃなく、“宿として守る線があります”を先に出すんですね」
「そうだ」
「主様、それを向こうが嫌がったら?」
と、リューシェ。
「来なくていい」
と、アレクシス。
「即答」
と、ベルノルト。
「そこ、本当に早いですよね」
「必要な線だ」
「便利なやつです」
「だが、良い」
と、リューシェ。
「そのくらいでなければ、宿の空気が死ぬ」
昼前、手紙への返答文を整えるため、朝霧亭の広間は妙に静かな相談の場になった。
普段なら湯治客の笑い声や、飯の匂いや、冒険者の無駄に元気な声が混ざる時間帯だ。
だがこの日は、皆どこか“帳場で何か大きい話をしている”気配を感じ取っているらしく、少し遠巻きにしていた。
その沈黙を最初に破ったのは、珍しくゼフだった。
いつもの奥の席で、湯上がりの水を飲みながら、ぽつりと言う。
「王都の高位か」
「名はない」
と、アレクシス。
「だが、おそらくな」
「なら、動線の静けさを求めるのは分かる」
「おまえもそう思うか」
「人に見られ慣れた者ほど、人の目を嫌う」
ゼフの言い方は短い。だが、妙に説得力があった。
リューシェがそれを聞いて、小さく笑う。
「のう主様」
「何だ」
「今のは、かなり参考になるぞ」
「そうだな」
「ゼフさん、そういうの分かるんですね」
と、ユノ。
「少しな」
ゼフはそれ以上は言わない。
だが“少し”では済まない空気はあった。
そこへ、赤湯帰りの老騎士も会話へ入る。
「高位の客というのは、宿へ来ても宿に来た顔をしない時がある」
「どういう意味だ」
と、アレクシス。
「周囲の反応が先に立つ」
老騎士は椀を置いた。
「本人が休みたいだけでも、供回りが気を張り、周りも構える」
「……ああ」
アレクシスは頷く。
「それで離れか」
「静かにしておけるなら、本人にとってはありがたいだろう」
「主様」
と、ベルノルト。
「今の、かなり全部つながってきましたね」
「そうだな」
「主様のそういう顔、最近分かるようになってきました」
と、ユノ。
「何がだ」
「“最初から嫌ではあるけど、だんだん宿としてやるべきことに変わっていく顔”」
「坊や」
と、リューシェが吹き出す。
「それはなかなか見事な言い方じゃ」
「そうか?」
と、アレクシス。
「そうです」
と、ベルノルト。
「かなり的確です」
「嫌ではない」
「出た」
返答文は、結局かなり簡潔なものになった。
名を伏せたままでも受け入れは可能。
ただし、宿の流儀に従うこと。
供回りは最小限。
離れは静けさを守るための部屋であり、隔離のためではない。
湯の安全確認は事前に応じるが、湯殿そのものの扱いは宿主に一任。
ベルノルトが読み返して、ううん、と唸る。
「かなり強いですね」
「強いか?」
と、アレクシス。
「主様、もう少し柔らかくもできるぞ」
と、リューシェ。
「必要な線は残る」
「要らん」
と、アレクシス。
「これでいい」
「主様」
と、ユノ。
「今の“これでいい”はだいぶ本気ですね」
「本気だ」
「そういうとこ、やっぱり宿主っぽいです」
「宿主だからな」
「便利なやつですねえ」
と、ベルノルト。
その返答を使いの者へ渡したあと、広間には少しだけ変な余韻が残った。
まだ客は来ていない。
名も分からない。
顔も見えない。
それなのに、宿の空気はもう半歩先へ動いている。
離れ一室。
高位の名伏せ客。
静かな動線。
湯の安全確認。
朝霧亭は、ただの人気宿の段階から、もう一つ別の場所へ足を踏み入れようとしていた。
「主様」
と、リューシェが広間の火を眺めながら言う。
「何だ」
「面倒そうじゃな」
「ああ」
と、アレクシス。
「だが、悪くない」
「出たのう」
「主様、それ今日の締めにするつもりですね」
と、ベルノルト。
「悪いか」
「悪くはないです」
「嫌ではない」
「もうそれ、完全に定型句ですよね」
ユノが笑うと、リューシェも肩を揺らした。
宿は今日も騒がしい。
だが、これから来る騒がしさは、少しだけ質が違う。




