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異世界湯けむり勇者 ~魔王討伐後に王国から領地も爵位ももらったけど全部妻子に継がせて前世で大好きだった源泉かけ流しの宿を異世界で本気再現したら七つの泉質を目当てに貴族も冒険者も押しかけてきます~  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 七泉の湯宿《朝霧亭》、開業までの十二日譚

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第30話 予約が取れない宿、と町で言われはじめる

朝霧亭の評判は、山の上で湯気みたいに立っているだけでは終わらなかった。


 谷へ流れ、街道へ下り、町の飯屋や雑貨屋や荷馬車の上で膨らみ、やがて一つの面倒な言葉に育っていく。


 ――予約が取れない宿。


 朝霧亭にとって、それは名誉であり、同時にベルノルトにとっては頭痛の別名でもあった。


 その朝、帳場に座ったベルノルトは、宿帳と予約札を前にして本気で黙っていた。


 黙っている時の彼は、たいてい良くない。


「主様」

 と、リューシェが椅子の背にもたれながら言う。

「何だ」

 と、アレクシス。

「おぬしの帳場係が、今かなり“嫌な静けさ”を出しておるぞ」

「そうだな」

 アレクシスは帳場を見た。

「ベルノルト」

「……はい」

「何だ」

「全部です」

「雑だな」

「雑に言いたくなるくらい、全部です」

「便利な言い方ですね」

 と、ユノが小さく言う。

「おぬしまで言うようになったか」

 と、リューシェ。

「宿の空気は移るのう」


 ベルノルトは、とうとう顔を上げた。


「旦那様」

「何だ」

「町で言われ始めています」

「何をだ」

「“朝霧亭は最近すぐ埋まる”」

「そうか」

「“行きたいのに取れない”」

「そうか」

「“紹介されても、もう遅い”」

「……そうか」

 アレクシスはそこで少しだけ眉を動かした。

 ベルノルトが机を叩く。

「主様、今の“そうか”は三段階目ですよ!」

「段階があるのか」

「あります!」

「ほう」

 と、リューシェ。

「面白いのう。坊やは分かるか?」

「えっと……」

 ユノは少し考えてから言った。

「今のは、ちょっとだけ“困ったけど、悪くはない”顔でした」

「正解じゃ」

 と、リューシェ。

「坊や、ほんに主様の顔を見るのがうまくなった」

「嫌ではない」

 と、アレクシス。

「出た」

 と、ベルノルト。

「最近それ、もう褒め言葉として定着してません?」

「そうか?」

「そうです」

「かなりです」

 と、ユノも頷いた。


 問題は、単に予約が増えたことではない。


 “取れない”という噂が広がると、客は余計に焦る。

 焦れば、まだ先の日まで埋まり始める。

 埋まり始めると、さらに“取れない宿”として価値がつく。

 それは商売としては悪くない流れだ。


 だが、朝霧亭はただ予約を詰めればいい宿ではない。


 湯の回しがある。

 飯の仕込みがある。

 客層ごとの空気もある。

 長逗留の療養客と、騒がしい冒険者をどう重ねるか。

 白湯目当ての令嬢と、赤湯の老騎士の動線はどうするか。

 ゼフのような静かな客が落ち着ける時間帯は確保できるか。


 つまり、部屋が空いているかどうかだけで決められる話ではなかった。


「主様」

 と、ベルノルト。

「何だ」

「増やしますか」

「何をだ」

「部屋です」

「増やさない」

 即答だった。


 リューシェが吹き出す。


「速いのう」

「そこは迷わないんですね」

 と、ユノ。

「迷う理由がない」

 と、アレクシス。

「今の数で回すように作ってある」

「でも」

 と、ベルノルト。

「今なら増やせば埋まりますよ」

「埋まるだろうな」

「なら」

「雑になる」

「主様」

 と、リューシェ。

「その顔は本気じゃな」

「ああ」

 と、アレクシス。

「湯の回しが崩れる。飯の質が落ちる。寝床の手入れが薄くなる。そうなったら終わりだ」

「……そこまで言うか」

 と、ベルノルト。

「言う」

「主様、こういう時だけ怖いくらいぶれませんね」

 と、ユノ。

「宿だからな」

「出た」

 と、ベルノルト。

「でも、それで全部通るからずるいんですよ」


 その話を、ちょうど広間にいたオルドが聞いていた。


 《灰狼亭》の主人で、下の街道宿を回している男だ。最近は荷の受け口や短泊まり客の流れで、朝霧亭とも悪くない距離を保っている。


「増やさねえのか」

 と、オルド。

「増やさない」

 と、アレクシス。

「もったいねえな」

「そうか?」

「そりゃあな。噂で客が集まる時に部屋を増やしゃ、もっと取れる」

「取れるだろう」

「なのに?」

「取らん」

「はっきりしてるなあ」

「必要な分だけでいい」

「主様」

 と、リューシェ。

「今のは、わりと格好つけておるぞ」

「そうか?」

「そうじゃ。だが嫌いではない」

「嫌ではない」

 と、アレクシス。

「そこ、合わせるんですね」

 と、ベルノルト。


 オルドは鼻を鳴らした。


「まあ、そういうやつだから今の朝霧亭なんだろうよ」

「何だ」

 と、アレクシス。

「客ってのは分かるんだ。広いだけの宿と、“数を入れねえ理由がある宿”の違いがな」

「ほう」

 と、リューシェ。

「ずいぶん素直なことを言う」

「うるせえ」

 と、オルド。

「ただな、取れないって評判は扱い方を間違えると面倒だぞ」

「どういう意味だ」

「“高いくせに気取ってる宿”に見られることがある」

「それは嫌ですね」

 と、ユノ。

「嫌だ」

 と、アレクシス。

「なら、“増やさない”んじゃなくて“増やせない理由がある”を、客にちゃんと見せるこったな」

「……なるほど」

 と、ベルノルト。

「質のため、ってやつですね」

「そうだ」

 と、アレクシス。

「それは最初からそうだ」

「でも言わないと伝わらないこともあるんですよ、主様」

「言えばいいのか」

「多少は」

「おぬし、最近ほんに“宿主の翻訳係”になってきたのう」

 と、リューシェ。

「不本意です」

 と、ベルノルト。


 昼前、予約希望の客が二組来た。


 一組は、療養目的の老夫婦。

 もう一組は、王都から噂を聞いて来たという若い小貴族の家令。


 問題は、どちらも「できれば今週中に」と言ったことだ。


「今週は難しい」

 と、ベルノルトが言う。

「来週なら一室」

「そんなに埋まっているのか」

 と、家令。

「埋まっております」

 と、ベルノルト。

「どうしても今週は駄目か」

「湯の回しと部屋の都合が」

「湯の回し?」

「主様」

 と、ベルノルトが横目で助けを求める。

「何だ」

「ここです。今です。説明お願いします」

「分かった」

 アレクシスは前へ出た。

「今週は、赤湯の療養客、白湯目当ての再訪客、静かな離れ希望が重なっている」

「それが?」

 と、家令。

「部屋は空いていても、湯と広間の空気が足りん」

「……」

 家令が黙る。

 老夫婦の方は、むしろ納得した顔をした。

「そういうことまで見るのかい」

「見る」

 と、アレクシス。

「主様、それ今日かなり決まってますね」

 と、ユノが小さく言う。

「そうか?」

「そうです」

 と、ベルノルト。

「今のは客に刺さるやつです」

「嫌ではない」

「出た」


 老夫婦の夫が、少しだけ笑った。


「なら、来週でいい」

「いいんですか?」

 と、ユノ。

「急いで行って、落ち着けないんじゃ意味がない」

「それはそうだ」

 と、妻の方も頷く。

「ちゃんと見てくれる宿なんだねえ」

「主様」

 と、リューシェ。

「今のはかなり良い」

「そうだな」

 と、アレクシス。

「悪くない」

「出た、今日の重いやつですね」

 と、ベルノルト。


 一方、小貴族の家令は、最初こそ渋い顔をしていたが、広間の様子と湯帰りの客の顔を見てから、少し態度を変えた。


 白湯から戻った地元の女たちが、窓際で「今日はやわらかかったねえ」と笑っている。

 赤湯帰りの老騎士は、何も言わずに椀を飲んでいる。

 ゼフは奥の席にいて、誰にも煩わされていない。

 その空気を見れば、部屋数だけの問題ではないと分かる。


「……なるほど」

 家令は小さく言った。

「空いていれば取る、ではないのだな」

「そうだ」

 と、アレクシス。

「そういう宿なのか」

「宿だからな」

「主様、それ今日もう何回目でしょう」

 と、ベルノルト。

「数えるな」


 午後になると、町からまた新しい噂が上がってきた。


 雑貨屋の娘が、納品のついでに言う。


「最近、町じゃ“朝霧亭はもう駄目だよ、空いてない”って言われてるよ」

「駄目?」

 と、ユノ。

「何がだ」

「いや、取れないからさ」

「そうか」

 と、アレクシス。

「でも、そのあとで“でも行きたいんだよね”って続く」

「ほう」

 と、リューシェ。

「完全に欲しがられておるのう」

「主様、今のはかなり嬉しいですよね」

 と、ユノ。

「悪くない」

「はい出た」

 と、ベルノルト。

「でも、やっぱり少し嫌です」

 と、ユノ。

「何がだ」

「“空いてないから諦める”ってなったら、来たい人が来れない」

「そうだな」

 アレクシスは少し考えた。

「だから増やす」

「えっ」

 と、ベルノルト。

「増やすんですか!?」

「部屋ではない」

「何をです?」

 と、ユノ。

「言葉だ」

 と、アレクシス。

「予約札の横へ書け。“当宿は湯と食事と静けさを守るため、受け入れ数を絞っております”」

「……おお」

 と、リューシェ。

「主様、今日はだいぶ宿主らしいな」

「そうか?」

「そうじゃ。増やさぬ理由を、ちゃんと客へ渡すわけじゃろ」

「必要だからな」

「便利なやつですねえ」

 と、ベルノルト。

「でも、今のは本当にいいと思います」

 と、ユノ。


 その札は、その日のうちに帳場の横へ出された。


 “朝霧亭は、湯・食事・静けさを大切にするため、受け入れ数を絞っております”


 たったそれだけだ。

 だが不思議と、宿の流儀がきちんと文字になった感じがした。


 夕方、その札を見たミレナが、湯上がりの髪を拭きながら笑う。


「いいね、これ」

「何がだ」

 と、アレクシス。

「“予約が取れない”じゃなくて、“大事にしてるから絞ってる”になる」

「そうだな」

「主様、それ言われるとまた嬉しい顔してますよ」

 と、ユノ。

「そうか?」

「そうです」

 と、ベルノルト。

「かなりです」


 リューシェは火の入った広間を見渡して、ゆっくり言った。


「のう主様」

「何だ」

「“取れない宿”になるのは面倒じゃが、“それでも来たい宿”になるのは悪くないの」

「ああ」

 と、アレクシス。

「悪くない」

「便利なやつが二人に増えました」

 と、ベルノルト。


 朝霧亭は、本日も騒がしい。


 だがその騒がしさは、ただ人が多いからではない。

 来たい者がいて、来られぬ者がいて、それでもまた来たいと思わせる何かが、宿の中にちゃんとあるからだ。

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