第26話 冬前の試し湯、薬湯はまだ早い
朝霧亭の朝は、湯気と一緒に目を覚ます。
もうそれは、この宿にいる者たちにとって疑いようのない日常になっていた。
夜明け前の山あいは冷える。谷の底にたまった靄は薄く青く、石壁の縁に残る露は指先にひやりとした感触を返す。回廊の板も、昨日までの秋のやわらかさから、少しずつ冬に近い硬さを帯び始めていた。
だが、その冷たさがあるからこそ、朝霧亭の湯はよく見える。
白い湯気。
赤湯の重さ。
塩泉の熱の残り方。
露天へ抜ける細い流れ。
そして清湯の、癖のない、だからこそ色々を受け止められる顔。
今朝、アレクシスが気にしていたのは、その清湯だった。
「主様」
と、帳場の前で札を揃えていたリューシェが言う。
「何だ」
「今朝はどこの機嫌が悪い」
「悪くはない」
「その言い方の時は、だいたい何か企んでおる」
「企んでいない」
「では?」
「試す」
「出たのう」
リューシェは椅子にもたれたまま、楽しそうに笑った。
「薬湯か」
「そうだ」
「まだ少し早くないか?」
「早い」
「認めるのか」
「だが、早い時期に一度試しておきたい」
「主様、それ、昨日の客の影響ですね」
と、ベルノルトが帳場の奥から言った。
「何の話だ」
と、アレクシス。
「“雪の時季は客が増える”“冬には来る理由が増える”って話です。あれで完全に頭が先へ行きましたね」
「必要だからな」
「はい出た」
「便利なやつじゃ」
と、リューシェ。
「主様は、本当に未来の面倒ごとを今のうちに増やすのが好きじゃのう」
「増やしたいわけではない」
「でも増える」
「増えます」
と、ベルノルト。
「すごく」
ユノは広間の卓へ茶器を並べながら、その会話を聞いていた。
「薬湯って、今日やるんですか」
「本格的にはやらん」
と、アレクシス。
「だが、試す」
「誰で?」
「客に出す前に、こっちで」
「……あ」
ユノは少しだけ顔を引きつらせた。
「僕たちですか」
「そうだ」
「嫌か?」
「い、嫌ではないですけど……」
「坊や」
と、リューシェ。
「今の顔は“また主様の実験に巻き込まれる”顔じゃぞ」
「実験って言わないでください」
「でも近いよね」
と、ベルノルト。
「かなり」
「必要な確認だ」
と、アレクシス。
「主様、その“必要”に含まれるものが広すぎるんですよ」
「広いか?」
「広いです」
朝霧亭では、清湯を“調整の湯”と位置づけていた。
癖が少なく、客ごとの体調や季節に応じて手を加えやすい。前にも料理の方で薬草を試したことはあるが、湯へ合わせるとなるとまた話が変わる。
香り。
熱との相性。
肌への刺激。
湯上がりの身体への残り方。
少しでも間違えば、清湯の良さを殺す。
だからアレクシスは、いきなり客へ出すつもりはなかった。
「婆さまから葉は届いておる」
と、リューシェ。
「見たところ、冷えに寄せたものじゃな」
「今朝の空気には合う」
と、アレクシス。
「ただし、入れすぎるなよ。主様はそういう時、“効かせたい”が先に出る」
「分かっている」
「分かっておってもやるのが主様じゃ」
「それは否定できませんね」
と、ベルノルト。
「最近、そこは本当に皆の認識が一致してきました」
「良いことだ」
「良いんですかね……」
広間の準備をひと通り終えると、四人はまだ客の動き出す前の清湯へ向かった。
朝の湯殿は静かだ。
湯気だけが、うっすらと石壁に沿って流れている。
リューシェが、薬草を包んだ小さな布袋を持っていた。
「これじゃ」
「葉っぱですね」
と、ユノ。
「葉っぱじゃ」
と、リューシェ。
「だが、季節の変わり目に身体を冷やしにくくする。婆さま曰く、“温めるというより、冷えにくくする”葉らしい」
「塩泉みたいな感じですか」
「少し違う」
と、アレクシス。
「塩泉は熱を残す。これは身体の巡りを少し助ける方向だろう」
「主様、今の顔、だいぶ面白がってますね」
と、ベルノルト。
「そうか?」
「そうです」
「かなりです」
「嫌ではない」
「出た」
と、ベルノルト。
「今の何回目です?」
「数えるな」
「もう無理です。癖なので」
布袋を清湯へ入れる。
ふわりと、やわらかな香りが立った。
強すぎない。
草っぽさはあるが尖っていない。
湯そのものの匂いを消すほどでもない。
「悪くない」
と、アレクシス。
「出たぞ、早い」
と、リューシェ。
「まだ入ってもおらん」
「香りは大事だ」
「そこは分かる」
と、ベルノルト。
「分かるんですけど、判断が早い」
最初に入ったのはアレクシスだった。
湯へ足を入れ、肩まで沈み、目を閉じる。
湯の温度。
香りの立ち方。
肌あたり。
湯の“顔”が清湯のまま残っているか。
しばらく無言だった。
「……どうですか」
と、ユノがそっと訊く。
「少しだけ」
と、アレクシス。
「少しだけ?」
「香りが先に立つ」
「強すぎるか」
と、リューシェ。
「わずかにな」
「やはりのう」
リューシェは肩をすくめた。
「主様の“このくらいならよいだろう”は、たまに一歩踏み込みすぎる」
「一歩だけだ」
「その一歩が大きい」
「でも、嫌な感じではないですね」
と、ユノ。
「香り、いいです」
「そうか」
アレクシスは目を開けた。
「嫌ではない」
「はい、今日それ何回目でしょう」
と、ベルノルト。
「かなりです」
次にリューシェが入る。
エルフは人間より匂いに敏い。
しかも千年単位で、森と水と薬草を扱ってきた魔女だ。
こういう確認役としては最適だった。
「……ふむ」
と、湯に浸かりながら言う。
「やはり少し立つな」
「だろう」
と、アレクシス。
「だが、悪くはない」
「主様」
と、ベルノルトがすかさず言う。
「今、リューシェ殿まで旦那様の口癖に寄りました」
「宿の湯気と一緒に広がるんじゃろ」
と、リューシェ。
「嫌な感染力ですね」
「悪くない」
と、アレクシス。
「増えるな!」
と、ベルノルト。
結局、ユノとベルノルトも少しずつ試すことになった。
「ぼ、僕も入るんですか」
と、ユノ。
「嫌か?」
と、アレクシス。
「嫌じゃないですけど、なんか急に緊張します」
「坊や、湯に入るだけじゃ」
と、リューシェ。
「主様の前だと、たまに“評価される”感じがして緊張するんですよね」
と、ベルノルト。
「そこまでか?」
と、アレクシス。
「そこまでです」
二人揃って言う。
ユノが湯に入ると、最初に目を丸くした。
「……あ」
「何だ」
と、アレクシス。
「なんか、湯がやさしいままです」
「ほう」
と、リューシェ。
「続けろ」
「えっと……香りはあるんですけど、清湯っぽさがまだ残ってるっていうか……」
「坊や」
と、リューシェが笑う。
「完全に宿の側の言葉を喋るようになったのう」
「そうですか?」
「そうじゃ」
「嫌ではない」
と、アレクシス。
「もうそれ禁止にしません?」
と、ベルノルト。
「禁止する理由がない」
「出た、主様の強いやつ」
ベルノルトはベルノルトで、湯から上がったあとかなり正直な感想を言った。
「……悪くないです」
「おまえまでか」
と、リューシェ。
「いや、でも本当に。ちょっと香りが先に来るけど、湯上がりの身体は軽い感じします」
「そうか」
アレクシスは頷いた。
「では、少しだけ葉を減らす」
「結局そこへ戻るんですね」
「当然だ」
「やっぱり」
薬湯の試しが終わる頃には、広間の方でも客が動き始めていた。
白湯目当ての地元客。
短い滞在でまた顔を出した老騎士。
そして、露天に入りたくて昨日から泊まっているミレナ。
広間へ戻ると、ミレナがすぐに気づいた。
「あれ、何か違う」
「何がだ」
と、アレクシス。
「清湯のあたり、少し香りがした」
「ほう」
と、リューシェ。
「気づくか」
「湯宿好きだから」
「主様」
と、ベルノルト。
「こういう客、本当に刺さりますね」
「悪くない」
「また出た!」
ミレナは面白そうに身を乗り出した。
「試した?」
「試した」
と、アレクシス。
「どうだった?」
「まだ早い」
「おや」
「今の時季なら悪くはない。だが、客に出すには少しだけ香りが立ちすぎる」
「……なるほど」
ミレナはにやりと笑った。
「そこをまだ出さないの、好き」
「主様、今の顔」
と、リューシェ。
「かなり嬉しそうじゃぞ」
「そうか?」
「そうです」
と、ユノ。
「かなりです」
と、ベルノルト。
「もう今日はそれしかないですね」
昼前には、薬草摘みの婆さま本人まで顔を出した。
「どうだったい」
「悪くない」
と、アレクシス。
「だがまだ早い」
「ほう」
婆さまは目を細める。
「入れすぎたかい」
「少しだけ」
「だろうと思ったよ」
「主様」
と、リューシェが腹を抱えた。
「婆さまにまで読まれておる」
「薬草相手なら、主様はまだ若い」
と、婆さま。
「千年早い」
「そこは主様より年上っぽい言い方ですね」
と、ベルノルト。
「実際、年上じゃろう」
と、リューシェ。
「張り合うな」
婆さまは湯の香りを嗅いでから、うんうんと頷いた。
「もうちょい冬が深くなって、身体が冷えを抱えてからだねえ。今出すと“いい香りの湯”で終わる。冬に出せば“欲しかった湯”になる」
「……それだ」
と、アレクシス。
「主様、今のはかなり刺さった顔じゃ」
と、リューシェ。
「完全に“答えをもらった”顔です」
と、ベルノルト。
「おめでとうございます」
「何がだ」
「また一つ、冬に向けて面倒ごとが増えました」
「必要な準備だ」
「はいはい」
午後、帳場の上にはまた一枚、札が増えていた。
冬向け薬湯 試し済み 葉の量再調整。
ユノがそれを見て、小さく笑う。
「また増えましたね」
「何がだ」
と、アレクシス。
「宿のやること」
「増える」
「嫌ではない?」
「嫌ではない」
「出た」
と、ベルノルト。
「でも、僕もです」
と、ユノ。
「何がだ」
「忙しいの」
「……そうか」
「はい」
「主様、その“そうか”もだいぶ重いやつですよ」
と、リューシェ。
「坊やがそう言うと、やはり刺さるのう」
「そうなのか?」
「そうです」
三人揃って言った。
朝霧亭は、本日も騒がしい。
だがその騒がしさは、ただ人が多いだけの騒がしさではなかった。
湯が一つ増えるかもしれない。
橋を直す話が進む。
冬の客をどう迎えるか、今から考える。
そんなふうに、少し先の季節まで含めて騒がしいのだ。
つまり、それはもう立派に“続いていく宿”の騒がしさだった。




